第117話 セレフィアの光
小講堂へ急ぐ途中、レンセリオンは足を速めながら、自分の胸の奥をなだめるように呼吸を整えていた。
王が任務を“しばし預ける”と言った瞬間から、胸に絡みついていた緊張の糸が、わずかにほどけていた。
だが――
小講堂へ入ろうとしたとき、別の理由で胸が強く脈打つ。
(……リリナ姫が講師か)
その事実だけで、心が不必要なほどざわつく。
軽く息を整えて席へつくと、静かなざわめきの中、黒板の前に立つリリナがそっと一礼した。
***
「では……講義を始めます」
その声は、思っていたよりも柔らかく、しかし芯のある響きを持っていた。
黒板一面に広がる大樹の絵――淡い光が差し込むような、温かい筆致。
(リリナ姫が……描いたのか)
リリナは少し恥ずかしそうに黒板へ視線を送りながら続ける。
「“息吹の母”。
セレフィアでは、生命の循環を象徴する大樹です」
祈りの文を口にするその声は、光に触れた朝のように静かで、澄んでいて――
騎士団の報告書ばかり読んできた日々の硬さとは、まるで違う世界へと引き込む。
レンセリオンは、いつの間にか姿勢を正していた。
(こんな講義……初めて聞く)
言葉だけでなく、息づかいが伝わってくる。
書物の知識では決して触れられない温度。
リリナは祈り終えると、控えめに笑った。
その笑顔に――胸が、熱くなる。
***
講義が進み、リリナは自身が見てきた森の情景を語り始めた。
「朝になると、森が光の息をしているんです……」
語る言葉には、故郷そのものが宿っていた。
露の光。
やわらかい土。
歓迎してくれる風。
レンセリオンはその景色を、なぜか容易に思い描けた。
(……綺麗だ)
気づけば、胸が締めつけられている。
“影を見逃すな”と育てられた自分には、あまりに無垢すぎる光だった。
だが――
その光は痛くはない。
ただ、触れたいと思わせる。
***
ユリウスの鋭い問いが響いたとき、レンセリオンの胸には別の“現実”が影のように広がっていた。
――ナイトクロウ商会の一件で知り得た、奪われた意志。
――金と利益のために利用された婚姻。
そして――
自分自身の婚約話もまた、父王の意図の上に置かれている。
(……婚約は、国の利益のために結ばれるものだ。
それが当然だと、思っていた)
政治の道具。
国の駒。
光が奪われる婚姻。
そんな現実しか知らなかった。
だが――
リリナが、迷わず言う。
「光は……誰かを温めるために差し出すものです」
胸の奥で、
“崩れた価値観の隙間”に、静かに光が落ちた。
(……そんな光が、存在するのか)
搾取する光でも、
押しつける光でもなく。
誰かを守るための光。
誰かを包むための光。
そして気づけば、問いが口をついて出ていた。
「セレフィアの光は、影をどう捉えるのか」
――影も見捨てない光。
――影を抱えた者にも触れていい光。
その答えを、どうしても聞きたかった。
リリナは迷わず言った。
「光は影を追い払うためではなく、
影に触れるために差し出されます」
胸が熱くなる。
(……なら)
影に呑まれる前に。
政治の意図に飲み込まれる前に。
(あなたの光だけは……奪わせたくない)
ナイトクロウ商会のような“奪う結びつき”でもなく、利益のために組まれる“婚約”でもない。
彼女の光を、誰かの思惑で濁らせたくなかった。
(状況がどうであれ……
あなたが言うなら、俺は――)
その光を、守る。
その思いが、胸の奥で初めて形になった。
***
講義が終わると同時に、講堂には温かな余韻が残った。
シリウスの称賛が響き、他国の者たちの表情が揺れる。
ユリウスの影。
アルメアの焦燥。
レヴィアンの忠誠。
エリオンの慈愛。
そして――
レンセリオンの胸には、静かに光が宿っていた。
(……ああ。
これが、セレフィアの光か)
追いかけるべき任務よりも、辿るべき“影”よりも、
今は、この光がただまっすぐに胸へ落ちていく。
自分の影が、初めて照らされたような気がした。
***
最後にリリナが指名したのは、ユリウスだった。
彼の瞳に揺れた影を見たとき、レンセリオンは胸の奥で静かに思った。
(あなたの影も――
あの姫はきっと、照らすだろう)
レンセリオンはそっと息をついた。
講堂を包む光の余韻の中で、
彼の胸には確かに、
“もう一度、光の側へ戻っていく感覚”が生まれていた。




