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第116話 蛍の誘い

リリナが講師を務める朝――。


レンセリオンは、遠くで鳴る鐘の音に意識を引き戻された。


(……ん)


瞼は重く、深い眠りの底から急に浮かび上がったような倦怠感が体をまとっている。


ぼんやりと天井を見つめたまま、次の鐘が鳴った瞬間――胸がひやりと跳ねた。


(何刻だ?)


急いで身体を起こし、窓の外へ目を向ける。


光はすでに朝の高さ。


(まずい……講義が始まる)


血の気が一気に引いた。


――リリナが講師となる日。


「……っ!」


レンセリオンは寝衣を脱ぎ捨て、急いでシャツに腕を通す。


そのとき。


「王子様、起きていらっしゃいますか?」


セリナの声が扉越しに届く。


返事をする暇もなく――微かな物音を察したのか、扉がそっと開かれた。


「王子様――あっ」


ちょうどシャツを引き上げているところを見られた。


「着替えている!」


珍しく素で慌てて背を向けるレンセリオン。


セリナはくすりと笑いながら部屋へ入った。


「よかった……目を覚まされたんですね」


「昨日は……考えることが多かった」


ボタンを留めながら低く言うと、セリナは柔らかく微笑む。


「お食事をお持ちしましょうか?」


「いい。……講義に遅れる。今日は、リリナ姫が講師だ」


語尾は小さく落ちた。


靴紐を結びながら答える彼を見つめ、セリナはそっと尋ねた。


「セレフィアの姫様とは、仲良くなれそうですか?」


レンセリオンの胸に、ひどく静かな痛みが落ちた。


ほんのわずかな影の動きを、セリナは見逃さない。


「あら……」


気遣いのこもった声が漏れる。


レンセリオンは、言い訳のように絞り出した。


「……時間が、ない」


言えば言うほど、胸が苦しくなる言葉。


セリナは穏やかに微笑む。


「……この時期、夜には蛍も出ておりますのに」


蛍。


手がふっと止まった。


その変化を見て、セリナは静かに言葉を添えた。


「蛍にお誘いしてみては?

王子様……きっと、忘れられない夜になりますよ」


胸の奥に情景が一瞬だけ灯る。


淡金の髪に蛍の光が落ち、優しく笑うリリナ――。


胸の奥が、わずかに揺れた。


(……そんな時間が、許されるのか)


ほんの一瞬だけ、迷いが生まれる。


だが――


「……行ってくる」


短く告げて部屋を出ようとしたその背に、セリナはそっと祈りを落とした。


(王子様……どうか、光を閉ざさないで)


扉が静かに閉まる。


レンセリオンは、一息に階段を駆け下りた。


講義へ向かうために。

そして――もう一度、光の側へ戻るために。

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