第110話 言えなかった一言
王立学院に到着すると、門の前で待っていた学生たちが一斉に頭を下げた。
「レ、レンセリオン殿下……! おはようございます!」
「きゃ……見た……! 今日も素敵……!」
横顔に刺さる熱い視線。とくに女子生徒の眼差しは、雨季の曇天よりずっと眩しい。
軽く微笑めば――
「っ……!! キャーー!!」
一瞬で小さな悲鳴が弾けた。
(……悪いが、今は応じている暇はない)
視線だけで礼を返しながら歩を進める。
――俺が望む相手は、その中にはいない。
小講堂の扉を開いた瞬間、まず目に飛び込んできたのは――リリナの背中だった。
窓辺で静かに外を見つめる姿。頬に落ちる淡い光。雨粒を楽しむように、指先がわずかに動く。
(……雨季を、喜んでいるのか)
その横では、後列のエリオンが手のひらで小さな水の渦を作って見せていた。
リリナがそっと覗き込み、嬉しそうに微笑む。
ふたりの距離は、昨日よりさらに近い。
(また……か。怪力男め)
胸の奥がひやりと軋むのを、レンセリオンは無表情の裏に押し込めた。
空いていたリリナの隣の席に、静かに腰を下ろす。
距離は――手を伸ばせば触れられるほど近い。それだけで胸の鼓動が乱れそうになる。
ちょうどその時。
トン――。
扉の開く音とともに、シリウスが小講堂へ入ってきた。
空気がすっと引き締まる。
その気配に反応して、リリナも背筋を伸ばし、姿勢を整えた。
そして――その横顔が、ふとこちらを向く。
一瞬だけ、視線が交錯した。
(……っ)
胸が高鳴る。呼吸がわずかに乱れる。
たった一秒にも満たない視線だったのに、心臓の音だけが鮮明に聞こえた。
だが、レンセリオンはすぐに視線を外すしかなかった。
(……おはよう、くらい……言えたはずだろう)
声が喉まで上がっていたのに、言葉を落としたのは自分だった。
(……こんなにも近くにいるのに。ただそれだけのことなのに)
それなのに、声は出なかった。
前を向くしかない。
「皆さん、おはようございます。では、昨日の講義の続きを始めましょう。」
シリウスの声が響く。
レンセリオンは姿勢を正しながら、胸の奥に沈んだ“言えなかった一言”をひっそり抱えた。
雨音だけが、静かに講堂を満たしていた。




