第105話 女主人ヴィオラ
月が高く昇る頃――レンセリオンは第四騎士団の控室にいた。
開講式を終えた日の夜とは思えないほど、室内は淡々と日常の空気を保っている。
「今日、開講式だったんですよね? どうでした? 姫様にお会いできましたか?」
軽い調子のカイルに、レンセリオンはまばたきを一度だけ。
「ああ」
それ以上は語らない。
「今日から毎日楽しみですね!」
「……ああ」
短く落ちる返事だけ。レンセリオンは窓の外に目を向けた。
騎士団本部での一件以来、リリナとは一週間ほど言葉を交わしていない。開講式で久しぶりに姿を見たとき――胸のどこかに小さく灯った熱。
だが、その揺らぎに触れる時間はもうない。
任務が先だ。淡金の髪も、光も、今は関係がないはずだった。
そのとき――控室の扉が勢いよく開き、カーディアス率いる第二部隊が帰還した。
「殿下、商業登録簿に名前の記載がありました!」
緊張が一瞬で走る。ルークもカイルも立ち上がり、戻ってきた部隊員の背後の書類を覗き込む。
「商業院からの帳簿の写しです」
レンセリオンが受け取り、最初のページを開く。
──〈ナイトクロウ商会〉
代表:ヴィオラ・ブリエル
所在地:五彩バザール区 ○○
取扱品:香類・魔除け・雑貨・一部輸入品
「……マルク氏の妻が、商会の女主人ってことですか!?」
カイルが素っ頓狂な声を上げ、控室に小さなどよめきが広がる。
レンセリオンは僅かに目を伏せた。
──濃紺のドレス。
──甘い香り。
──“探している品を用意しておきますわ”と微笑んだ女。
五彩バザールで出会った女主人――ヴィオラ・ブリエル。
(……マルク氏の妻。あの微笑みの裏に、どれほどの意図が隠れていた?)
その事実が静かに落ちる。
そして同時に、エルマンの言葉がよみがえる。
「身に覚えのない譲渡契約書」
「大金を背負わせたまま保護されていた」
正式な書式。金銭の受け渡し。形だけ見れば“正規の取引”だ。
(……だが、あの男は正常な判断ができる状態ではなかった)
白光酒を断った男の記憶が途切れたのは、“料理を食べたあと”だった。
(意志が曖昧になった隙を狙った……――そういう取引の仕方をする女、か)
胸の奥に、静かな警戒心が広がった。
レンセリオンは帳簿を閉じ、静かに息を落とした。
「……繋がったな。契約は形式上は正規でも――“正常な意思で交わされたものではない”。」
わずかに眉が動く。思考はさらに深い地点へ潜っていく。
「本件調合物の正規輸入記録は存在せず、南区第三倉庫街を経由した非正規ルートによる持ち込みの可能性が高い……と報告にはあった。だが密輸馬車を追う前に、実際に記録を確認したい。」
淡く息を吐き、続ける。
「香水の小瓶は透明だったが……エルマン氏の言ったように、異国の瓶には違いなかった。申告された取扱品目で“小瓶を使うもの”といえば……香類が最も近い。もしその香類の輸入に紛れて調合物が混ざっているとしたら――正規の馬車で堂々と運ばれている可能性もある。」
レンセリオンの言葉に、カーディアスがすぐに理解を示すように頷いた。
「殿下、ナイトクロウ商会が異国の品を扱っている以上、輸入税は必ず徴税院を通過します。徴税院の《輸入記録・取扱品目税》を確認できれば、品目・量・原産国が把握できるはずです。」
「……なるほど。」
レンセリオンは書類をまとめ、机上にそっと置いた。
月光が白い書面に淡く落ちる。静寂の中で、一つの名前だけが際立っていた。
(ヴィオラ・ブリエル……お前が“入口”で間違いない)
だが――
レンセリオンは静かに息を吐いた。
「……明日は学院の講義がある。俺は動けない。」
騎士としての義務と、王子としての役目。学院での講義は“外せない公務”でもある。
そう告げたあと、レンセリオンは視線をカーディアスへ向けた。
「徴税院の調査は――お前を中心に動いてくれ。ルーク、カイルもカーディアスの指示に従え。」
その言葉に、三人が同時に背筋を伸ばす。
レンセリオンはページを閉じ、淡く降りる月光を見上げた。
(……動けるのは、明日の講義後だ)
心の奥に、静かに一歩が刻まれる。
夜は深まっていく。だがその奥で、真実へ至る道は――確かに、形を取り始めていた。




