第102話 残る香り
ナイトクロウ商会を出た瞬間、路地の影に潜んでいたカイルたちが、ほとんど飛び出す勢いで駆け寄ってきた。
「殿下! ご無事で本当によかった!」
「大丈夫だ」
レンセリオンは短く頷き、周囲を確認して声を潜める。
「中には女主人が一人だけだった。異国の物が多く雑然としていたが……色付きの小瓶はなかった。ただ、“探している品を用意する”と言っていた」
その報告を聞いた瞬間――隣のカイルが、なぜかレンセリオンの肩に顔を近づけてきた。
「……カイル?」
「殿下、失礼します。匂いが……」
唐突に胸元あたりを嗅ぎはじめる。
「近い近い! やめろ!」
レンセリオンは反射的にのけぞったが、カイルは真剣な顔のまま。
「甘い香りがします。殿下から」
「おまっ……!!」
さらにルークまで近寄り、同じ動作をする。
「……本当だ。甘い。これは……女主人の移り香でしょうか?」
「違う!!」
レンセリオンは即答した。耳まで赤い。
「棚の奥に小瓶があったから、何かと聞いただけだ。そしたら急に――」
視線が泳ぐ。
「……香水を吹きかけてきた」
カイルとルークは一瞬黙り、それから微妙な表情になる。
「吹きかけ……殿下に、直接……?」
「だから違うと言っている!!」
声だけは必死だが、カイルの目は笑いを堪え、ルークは真面目な顔のまま頷いていた。
レンセリオンは胸元のシャツを引き、そっと自分でも匂いを確かめた。
……甘い。やっぱり甘い。
「……くそ。匂うな。帰ったら洗う」
その呟きがあまりにも真剣で、カイルは肩を震わせて笑いをこらえ、ルークは真面目に助言する。
「殿下、あまり強い香りは痕跡になります。なるべく早めに落とされた方がよろしいかと」
「分かっている!」
レンセリオンは外套を翻し、足早に歩き出した。
甘い香りが、彼の背後にそっと残った。
***
王城・レンセリオン私室。
扉を閉めると同時に、彼は胸の内ポケットへ手を伸ばした。
――女主人が“お近づきの印”として押し込んできた小瓶。
透明だが、縁の厚みも溶着の具合も、明らかにルクヴェルガラスとは違う。
異国の品。この国の工房では作れない手触り。
レンセリオンは鏡台に歩み寄り、小瓶をそっと置いた。
淡い甘さが、まだほのかに残っている。
必要のないものだ。惹きつける香など、自分には関係がない。
……はずだった。
捨てようとしたが、指がほんの一瞬だけ止まる。
(……調査物だ。それ以上でも以下でもない)
鏡に映る自分は、いつも以上に無表情で――それがかえって不自然だった。
レンセリオンはゆっくりと息を吐き、小瓶から視線をそらした。
――そのまま、鏡台に置き去りにしたままで。




