王国歴1669年10月21日⑮:乙女の尊厳
「……俺……いびきを掻くかも…しれないから……うるさかったら……ごめん…ね……」
私はその言葉で、意識が一気に覚醒した。
…いびき……ですって?
そ、そういえば寝所で先輩達に”いびきが煩かった”と言われた事がある…
自分では気付いた事はないけど、私っていびきを掻くの!?
ど、どうしよう!ヒイロさんにいびきを聞かれちゃう!!
父ちゃんみたいな隣の部屋まで聞こえる様ないびきだったら幻滅するよね?
し、しかも往復いびきだったらドン引きだわ!!
ここは”私もいびきが出ちゃうかも”と予防線を張っておくべきか?
…いや、乙女の口からいびきなんて言ったらいけない気もする……
……いびきじゃなくて……寝息?
そうだ!”寝息が聞こえちゃったらゴメンね”と先に言っておこう!
……いや待て、本当にいびきだけか?寝言とかも言ってるんじゃないのか?
けど先輩達からは寝言について指摘された事はなかったけど……
先輩の一人が”彼氏欲しい”と寝言が出た時、他の先輩は何も言わなかった。
私も言えなかった……だって生々しい寝言だったから指摘しづらかったし……
も、もしかして私も”結婚したいよぉ”と言うかも!?
……まぁ、玉の輿とか公言してるし…寝言は問題ないかな……
それじゃ予防線を張るか!
……って、ヒイロさん…もう寝息を立ててる……寝ちゃったんだ…
わざわざ起こして伝える事でもないし、このまま私も寝よう……
クルルゥゥ……
ん?……あぁ、私のお腹が鳴った音か……
今晩もたくさん食べたし、お酒も美味しかったなぁ…
昨晩とメニューが変わってて……やっぱり一流店は気が利くんだなぁ……
大きなステーキもだけど、添え付けのマッシュポテトも美味しかった…
敢えて芋を潰し切らずに食感を残し、ホロっと口の中で解けて…
薄めの味付けだったから、ステーキとも相性が良かったのよね……
豆のポタージュも滑らかだったし、シチューもキノコたっぷりで美味しかった
やっぱり秋はキノコだよねぇ………
クルルゥゥ……
また鳴った……
ちょっと食べ過ぎかなぁ…お腹が張ってるよ……
明日はちょっと量を減らそうかな?
クルルルゥゥ……
………ヤバい……これはお腹が鳴ってるだけじゃない。
この、少し感じる膨満感…これは…オナラだ…
いや、焦るな私…これぐらいなら今すぐ出る訳じゃない……まだ時間はある。
問題はこのオナラをどうするかだ。
寝所では先輩達が平気で出してたから、私も気にせず出してたけど…
静寂の中で、このベッドの中で、2人きりの状態で出す訳にはいかない。
……透かして音を消せば良くない?
…駄目だ…失敗すれば音を聞かれるし、匂いで気付かれる可能性もある。
やはりベッドを出て、御手洗いで済ませる方が安全だ。
ここは慎重に動いてヒイロさんを起こさないようにしないと……
まずは繋いでいる指をどうにかしなければならない。幸いにもヒイロの指からは力が抜けており、今は夢の中にいるようだ。私は慎重に親指から順番に指を放していく。
しかし薬指まで放した時、ヒイロが寝返りを打って指を繋ぎ直した。
ヒゥッ!
クゥゥ……
驚いた私が思わず力むと、同時に膨満感が急速に強まった。先程まであった時間的余裕が消え失せ、放出が秒読み段階へと移行する。
ま、マズイ……廊下まで持つかどうか、ギリギリの限界だぁ……
下手に動けば暴発する可能性も出てきたよぉ…
こんな時はお尻を締めて、胸を引き上げる感じにして……
おぉ…少し引っ込んだかな?
そういえばオナラを我慢し続けると口や身体が臭くなるって聞いた事が…
キスの時、嫌われたらイヤだなぁ…って、そんな事を考えてる場合じゃない!
オナラが出ちゃうとキスどころか顔を合わせてくれなくなるかも!?
ここは早急に御手洗いを目指さねば!
私は意を決し、今度は少し力を入れて指を引き抜こうとしてみる。しかしヒイロの指に力が入っており、少しも抜く事が出来ない。驚いて横を見てみるとヒイロが薄目を開け、嬉しそうな表情で私を見つめていた。
「…コマイさん……今夜は…コマイさんを放したくないよ……」
うぉぉぉぉっ!ひ、ヒイロさん!!
今は乙女の尊厳に係る緊急事態なのです!
その言葉は嬉しいのですが、できれば明日の夜に延期してくれませんか!?
…あ、駄目だ、鳥肌が立ってきた……後頭部に冷や汗まで流れてる……
「ひ、ヒイロさん…お言葉は嬉しいのですが…今は……」
「……俺じゃ、駄目なのかな…」
私の表情から困惑を汲み取ったのか、ヒイロの表情が急激に曇っていく。
私はそれを弁明する余裕もなく急いで上体を起こすとベッドから飛び出そうとした。
「待って、コマイさん!」
悲痛な叫びと共に、ヒイロが私の左手を掴んだ。
途端、私の乙女の尊厳は地に落ちる。
プスゥ……
ベッドで押さえつけられた為か、オナラはそんなに大きな音が出なかった。しかし最初の破裂音は確実に出ており、手の届く距離にいたヒイロには確実に聞かれたはずだ。救いなのは自分でも判らないぐらいに匂いが薄い事だろう。
「………ぅぅ…………うぅぅぅぅぅ……」
私は残りの放出を我慢しながら、零れだした涙を拭く事が出来なかった。ヒイロの手は急速に力を失い、遅まきながらに私の左手を解放してくれる。
「……ご、ごめん、コマイさん…その、我慢してるのに気付かなかったから…」
私はベッドから抜け出して、涙を拭きながら扉を目指す。例え乙女の尊厳が砕け散ろうとも、ヒイロの前でこれ以上の粗相は出来ないのだ。
「こ、コマイさん!俺だって寝てる時に出ちゃうし……い、生きてるんだから当然だよ!俺は我慢しなくて良いと思う!だってこれからも…こうして一緒に寝て欲しいから……」
「…ぅ……ヒック……ひ、ヒイロさん……」
私はヒイロの言葉に、まだ嫌われてない事に安堵する。
「それに昨日の夜にも聞いてるから大丈夫だよ?いびきも寝相も、全然気にならなかったよ?」
「うわぁぁぁぁぁァァァァァッ!!」
私は廊下に飛び出し、御手洗いに座りながら号泣した。そしてこれからは就寝前に御手洗いを済ませておこう、と心の底から誓った。




