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~夢境のアルヴェリア~ 夢の中だけ異世界で暮らしてたら、現実に混ざり始めた件

作者:
掲載日:2025/10/31

目を閉じるたび、もうひとつの人生が始まる。


それはある朝、目覚めた瞬間に気づいた。

左肩に、淡い痣のような痕があった。


昨夜、夢の中で魔物の爪に掠められた、まさにその場所に。


私はその痣を指でなぞりながら、しばらく動けなかった。


寝室の白い壁、安物のカーテン越しに差し込む朝日。

これらは紛れもなく「現実」のはずだった。

けれど、指先に残る鈍い痛みは、もうひとつの世界の確かな手触りを物語っていた。



夢の世界——私はそこを「アルヴェリア」と呼んでいた——そしてその世界で私にはエリアスという仲間がいた。


彼は剣士で、いつも私の前を歩いていた。

黒い髪に灰色の瞳、無口だが背中で多くを語る男だった。


初めて彼と出会ったのは、夢の中の森だった。

獣に追われていた私を、彼は何も聞かずに助けてくれた。


それ以来、眠りにつくたび、彼がそこにいた。


「また来たのか」


彼はいつもそう言った。

驚きもせず、当然のように私を迎えてくれた。


アルヴェリアは美しい世界だった。

翡翠色の森、水晶のように澄んだ川、空には二つの月が浮かんでいた。


そこでは魔法が当たり前に存在し、私にも不思議な力が備わっていた。

手のひらに光を灯し、傷を癒やし、風を呼ぶことができた。


エリアスと共に旅をした。


古代遺跡を探索し、森に潜む魔物と戦い、小さな村で温かい食事をとった。

現実の私がどれほど孤独でも、アルヴェリアには帰る場所があった。


エリアスがいて、時折合流する魔術師のリネアがいて、宿屋の主人が温かいスープを用意して待っていてくれた。


「お前は変わってる」

ある夜、焚き火を囲みながらエリアスが言った。


「どうして?」


「時々、ここにいないような顔をする。どこか遠くを見てる」


私は何も答えられなかった。

彼には説明できない。


あなたは私の夢なのだと。

目覚めれば消えてしまう、幻なのだと。


「でも、確かにここにいる」

エリアスは薪を火にくべながら続けた。


「それだけで十分だ」


彼の言葉が胸に染みた。

そうだ、ここにいる時の私は確かに「生きて」いた。

現実の世界でただ機械的に日々をやり過ごしている私より、ずっと。



異変が始まったのは、あの痣が現れた朝からだった。


会社へ向かう電車の中で、私は窓に映る自分の姿を見つめた。

痣は薄手のシャツの下に隠れている。


触れると、まだ微かに熱を持っていた。


「昨夜の夢」を思い出す。


古い塔の探索中、闇に潜んでいた魔物に襲われた。

エリアスが咄嗟に庇ってくれたが、その爪が私の肩を掠めた。

痛みが走り、リネアの治癒魔法で傷は塞がった。

けれど、鈍い痛みだけが残っていた。


夢から覚める時、いつもその痛みも一緒に消えた。

なのに今朝は違った。


電車が揺れる。窓の外、見慣れた街並み。

灰色のビル、無機質な看板、急ぐ人々。


これが私の現実だった。


オフィスに着いて、デスクに座る。パソコンを立ち上げる。

メールをチェックする。

隣の同僚が何か話しかけてきたが、内容が頭に入ってこない。

私は左肩を無意識に押さえていた。


「どうかした?」


「いえ、なんでも」


嘘だった。何かが、変わり始めていた。

そう、夢と現実の境界線が、少しずつ溶けていたのだ。



その日の夜、私は恐る恐る眠りについた。


目を開けると、見慣れたアルヴェリアの宿屋だった。

木製のベッド、薬草の香り、窓の外には二つの月。


「起きたか」


エリアスが部屋の隅の椅子に座っていた。

いつもの彼の場所だ。


「肩は大丈夫か?」


彼が尋ねる。私は反射的に左肩に触れた。

ここでは傷はもう癒えている。白い肌、痛みもない。


「ええ、大丈夫」


でも、私は知っていた。この傷が現実に持ち越されていることを。

それが何を意味するのか、まだ理解できていなかった。


「今日はゆっくり休め」

エリアスが立ち上がり、ドアへ向かう。


「待って」


私は思わず声を上げた。


「これは夢なの?」


エリアスが振り返る。

彼の灰色の瞳が、月明かりの中で静かに揺れた。


「夢かどうかは、お前が決めることだ」


彼はそう言って、部屋を出ていった。




日を追うごとに、混ざり合いは加速していった。


現実の世界で、見知らぬ言葉が口をついて出た。

アルヴェリアの古代語だった。

コーヒーカップを手に取ろうとして、指先から淡い光が漏れた。

会議中、窓の外に翡翠色の森が一瞬見えたりもした。


同時に、アルヴェリアの方でも変化があった。


「お前、最近変だぞ」


リネアが心配そうに言った。

彼女は炎のような赤い髪をした魔術師で、エリアスと私の旅の仲間だった。


「どんな風に?」


「時々、お前の身体が透けて見える」


リネアは真剣な顔で続けた。


「まるでここにいないみたいに。今にも消えてしまいそうな」


私は自分の手を見た。

確かに、以前より輪郭が曖昧な気がした。

まるで水彩画のように、境界が滲んでいる。


「もしかして、お前は本当に別の世界から来ているのか?」


リネアの問いに、私は答えられなかった。

もう、何が本当で何が幻なのか、分からなくなっていた。




ある夜——いや、昼だっただろうか、夢と現実の境界が完全に崩れた。


私は会社のデスクに座っていた。

それとも、アルヴェリアの森を歩いていただろうか。


両方の風景が同時に見えた。


オフィスの蛍光灯と森を濾過する木漏れ日が重なり、同僚の話し声と鳥のさえずりが混ざり合った。


「大丈夫か?」


エリアスの声がした。

見ると、彼がオフィスの中に立っていた。

黒いコートに剣を帯びた姿は、周囲の現代的な風景の中で異様に浮いていた。

けれど、誰も彼に気づいていないようだった。


「エリアス?」


「ああ、俺だ」


彼は私の隣まで来て、膝をついた。


「無理するな。お前は二つの世界を行き来しすぎた」


「どういうこと?」


「境界を越えることには、代償が伴う。お前の存在が、両方の世界で薄くなっている」


彼の言葉が、霧の中に沈んでいく。

視界が揺らぎ、今度はアルヴェリアの宿屋にいた。

ベッドに横たわり、リネアが私の額に手を当てていた。


「熱がある。これは普通の病じゃない」


リネアの声が遠い。


「魂が分裂しかけてる。二つの世界に同時に存在しようとして、どちらにも完全には留まれなくなってる」


意識が浮遊する。

オフィス、森、宿屋、自分の部屋。

すべてが回転木馬のように回り、悪夢のようにどれが今でどれが過去か、判別できなくなっていた。



気がつくと、私は暗闇の中にいた。


上も下も分からない空間。

ただ、無限に広がる静寂。


「ここは?」


私の声だけが、虚空に響いた。


「境界だ」


エリアスの声がした。

暗闇の中、彼の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。


「夢と現実の狭間。お前が作り出した、第三の場所」


「私が?」


「お前は気づいていないのか?アルヴェリアは、お前が創造した世界だ。

孤独に耐えられず、眠りの中で理想郷を作り上げた」


彼の言葉が胸に突き刺さる。


「じゃあ、あなたは……」


「ああ、俺はお前の夢だ。リネアも、この世界のすべても」


エリアスの姿が揺らいでいく。


「でも、夢だから偽物だとは限らない」

彼は私の目をまっすぐ見た。


「お前がここで感じた喜びも、痛みも、すべて本物だ。俺たちとの絆も」


涙が頬を伝った。

現実だけが真実で、夢が嘘だなんて、誰が決めたのだろう。


「選べ」

エリアスが言った。


「完全にアルヴェリアに来るか。それとも現実に戻るか。

今どちらかを選ばなければ、お前は両方の世界から消える」



選択——それは想像以上に重かった。


現実に戻れば、エリアスもリネアも、あの美しい世界も、すべて失う。

けれど、アルヴェリアに留まれば、現実の私は消える。

家族はいない。友人も少ない。

でも、確かにそこで生きてきた人生がある。


「時間がない」


エリアスの声が焦りを帯びる。

暗闇が私を呑み込もうとしていた。


その時、ふと思った。

本当にどちらかを選ばなければならないのだろうか。


「もしかして」


私は暗闇の中で声を上げた。


「両方、本物なんじゃない?」


エリアスの表情が変わった。


「夢だから偽物で、起きてる時だけが本物だって、誰が決めたの?

どちらも私が経験して、感じて、生きた世界だ」


暗闇が揺らいだ。


「なら、両方で生きる。完全にどちらかになるんじゃなくて、二つの世界を繋ぐ存在として」


「それは……」


エリアスが何か言いかけたが、光が溢れ出した。

暗闇が裂け、無数の色彩が渦巻く。



目を開けると、私は自分の部屋のベッドに寝ていた。


朝の光が差し込んでいる。

いつもの天井、いつもの空気。でも、何かが違った。


左手を見ると、淡い光の粒子が指先できらきらと踊っていた。

それはアルヴェリアの魔法だった。

すぐに消えてしまったが、確かにそこにあった。


起き上がり、鏡を見る。

左肩の痣はまだ残っている。


でも、それは傷ではなく、何か別のもののように見えた。


刻印。二つの世界を繋ぐ、証のような。


スマートフォンを手に取る。

メールが溜まっている。会社からの連絡。

現実の、日常の雑音。


それでも、私はもう怖くなかった。


夜が来れば、エリアスに会える。

リネアと冒険を続けられる。

そして朝が来れば、この世界で生きていく。


どちらも本物で、どちらも私の人生だ。




夜、ベッドに入る。


目を閉じると、いつものようにアルヴェリアの風景が広がっていた。

宿屋の前で、エリアスが待っていた。


「来たか」


彼は微かに笑った。

夢の中の彼が笑うのを見たのは、初めてだった。



「ただいま」


彼は何も言わず、いつものように歩き出す。

私はその背中を追いかけた。


現実か夢か。もう、その問いに意味はなかった。

両方が私で、私は両方の世界に生きている。


左肩の刻印が、月明かりの下で淡く光った。

これは境界を越えた証。二つの世界の橋渡しとなった、私だけの印。


「行くぞ」


エリアスが振り返る。


「次の遺跡は、少し遠い」


「大丈夫」


私は彼に並んで歩き始めた。

二つの月が空に浮かび、風が優しく吹く。


どこかで目覚まし時計が鳴るかもしれない。

朝が来て、また現実に戻るかもしれない。


でも、それでいい。


私は二つの世界で生きていく。

目を開けていても、閉じていても。


境界は、もう私の中にある。

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