~夢境のアルヴェリア~ 夢の中だけ異世界で暮らしてたら、現実に混ざり始めた件
目を閉じるたび、もうひとつの人生が始まる。
それはある朝、目覚めた瞬間に気づいた。
左肩に、淡い痣のような痕があった。
昨夜、夢の中で魔物の爪に掠められた、まさにその場所に。
私はその痣を指でなぞりながら、しばらく動けなかった。
寝室の白い壁、安物のカーテン越しに差し込む朝日。
これらは紛れもなく「現実」のはずだった。
けれど、指先に残る鈍い痛みは、もうひとつの世界の確かな手触りを物語っていた。
夢の世界——私はそこを「アルヴェリア」と呼んでいた——そしてその世界で私にはエリアスという仲間がいた。
彼は剣士で、いつも私の前を歩いていた。
黒い髪に灰色の瞳、無口だが背中で多くを語る男だった。
初めて彼と出会ったのは、夢の中の森だった。
獣に追われていた私を、彼は何も聞かずに助けてくれた。
それ以来、眠りにつくたび、彼がそこにいた。
「また来たのか」
彼はいつもそう言った。
驚きもせず、当然のように私を迎えてくれた。
アルヴェリアは美しい世界だった。
翡翠色の森、水晶のように澄んだ川、空には二つの月が浮かんでいた。
そこでは魔法が当たり前に存在し、私にも不思議な力が備わっていた。
手のひらに光を灯し、傷を癒やし、風を呼ぶことができた。
エリアスと共に旅をした。
古代遺跡を探索し、森に潜む魔物と戦い、小さな村で温かい食事をとった。
現実の私がどれほど孤独でも、アルヴェリアには帰る場所があった。
エリアスがいて、時折合流する魔術師のリネアがいて、宿屋の主人が温かいスープを用意して待っていてくれた。
「お前は変わってる」
ある夜、焚き火を囲みながらエリアスが言った。
「どうして?」
「時々、ここにいないような顔をする。どこか遠くを見てる」
私は何も答えられなかった。
彼には説明できない。
あなたは私の夢なのだと。
目覚めれば消えてしまう、幻なのだと。
「でも、確かにここにいる」
エリアスは薪を火にくべながら続けた。
「それだけで十分だ」
彼の言葉が胸に染みた。
そうだ、ここにいる時の私は確かに「生きて」いた。
現実の世界でただ機械的に日々をやり過ごしている私より、ずっと。
異変が始まったのは、あの痣が現れた朝からだった。
会社へ向かう電車の中で、私は窓に映る自分の姿を見つめた。
痣は薄手のシャツの下に隠れている。
触れると、まだ微かに熱を持っていた。
「昨夜の夢」を思い出す。
古い塔の探索中、闇に潜んでいた魔物に襲われた。
エリアスが咄嗟に庇ってくれたが、その爪が私の肩を掠めた。
痛みが走り、リネアの治癒魔法で傷は塞がった。
けれど、鈍い痛みだけが残っていた。
夢から覚める時、いつもその痛みも一緒に消えた。
なのに今朝は違った。
電車が揺れる。窓の外、見慣れた街並み。
灰色のビル、無機質な看板、急ぐ人々。
これが私の現実だった。
オフィスに着いて、デスクに座る。パソコンを立ち上げる。
メールをチェックする。
隣の同僚が何か話しかけてきたが、内容が頭に入ってこない。
私は左肩を無意識に押さえていた。
「どうかした?」
「いえ、なんでも」
嘘だった。何かが、変わり始めていた。
そう、夢と現実の境界線が、少しずつ溶けていたのだ。
その日の夜、私は恐る恐る眠りについた。
目を開けると、見慣れたアルヴェリアの宿屋だった。
木製のベッド、薬草の香り、窓の外には二つの月。
「起きたか」
エリアスが部屋の隅の椅子に座っていた。
いつもの彼の場所だ。
「肩は大丈夫か?」
彼が尋ねる。私は反射的に左肩に触れた。
ここでは傷はもう癒えている。白い肌、痛みもない。
「ええ、大丈夫」
でも、私は知っていた。この傷が現実に持ち越されていることを。
それが何を意味するのか、まだ理解できていなかった。
「今日はゆっくり休め」
エリアスが立ち上がり、ドアへ向かう。
「待って」
私は思わず声を上げた。
「これは夢なの?」
エリアスが振り返る。
彼の灰色の瞳が、月明かりの中で静かに揺れた。
「夢かどうかは、お前が決めることだ」
彼はそう言って、部屋を出ていった。
日を追うごとに、混ざり合いは加速していった。
現実の世界で、見知らぬ言葉が口をついて出た。
アルヴェリアの古代語だった。
コーヒーカップを手に取ろうとして、指先から淡い光が漏れた。
会議中、窓の外に翡翠色の森が一瞬見えたりもした。
同時に、アルヴェリアの方でも変化があった。
「お前、最近変だぞ」
リネアが心配そうに言った。
彼女は炎のような赤い髪をした魔術師で、エリアスと私の旅の仲間だった。
「どんな風に?」
「時々、お前の身体が透けて見える」
リネアは真剣な顔で続けた。
「まるでここにいないみたいに。今にも消えてしまいそうな」
私は自分の手を見た。
確かに、以前より輪郭が曖昧な気がした。
まるで水彩画のように、境界が滲んでいる。
「もしかして、お前は本当に別の世界から来ているのか?」
リネアの問いに、私は答えられなかった。
もう、何が本当で何が幻なのか、分からなくなっていた。
ある夜——いや、昼だっただろうか、夢と現実の境界が完全に崩れた。
私は会社のデスクに座っていた。
それとも、アルヴェリアの森を歩いていただろうか。
両方の風景が同時に見えた。
オフィスの蛍光灯と森を濾過する木漏れ日が重なり、同僚の話し声と鳥のさえずりが混ざり合った。
「大丈夫か?」
エリアスの声がした。
見ると、彼がオフィスの中に立っていた。
黒いコートに剣を帯びた姿は、周囲の現代的な風景の中で異様に浮いていた。
けれど、誰も彼に気づいていないようだった。
「エリアス?」
「ああ、俺だ」
彼は私の隣まで来て、膝をついた。
「無理するな。お前は二つの世界を行き来しすぎた」
「どういうこと?」
「境界を越えることには、代償が伴う。お前の存在が、両方の世界で薄くなっている」
彼の言葉が、霧の中に沈んでいく。
視界が揺らぎ、今度はアルヴェリアの宿屋にいた。
ベッドに横たわり、リネアが私の額に手を当てていた。
「熱がある。これは普通の病じゃない」
リネアの声が遠い。
「魂が分裂しかけてる。二つの世界に同時に存在しようとして、どちらにも完全には留まれなくなってる」
意識が浮遊する。
オフィス、森、宿屋、自分の部屋。
すべてが回転木馬のように回り、悪夢のようにどれが今でどれが過去か、判別できなくなっていた。
気がつくと、私は暗闇の中にいた。
上も下も分からない空間。
ただ、無限に広がる静寂。
「ここは?」
私の声だけが、虚空に響いた。
「境界だ」
エリアスの声がした。
暗闇の中、彼の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
「夢と現実の狭間。お前が作り出した、第三の場所」
「私が?」
「お前は気づいていないのか?アルヴェリアは、お前が創造した世界だ。
孤独に耐えられず、眠りの中で理想郷を作り上げた」
彼の言葉が胸に突き刺さる。
「じゃあ、あなたは……」
「ああ、俺はお前の夢だ。リネアも、この世界のすべても」
エリアスの姿が揺らいでいく。
「でも、夢だから偽物だとは限らない」
彼は私の目をまっすぐ見た。
「お前がここで感じた喜びも、痛みも、すべて本物だ。俺たちとの絆も」
涙が頬を伝った。
現実だけが真実で、夢が嘘だなんて、誰が決めたのだろう。
「選べ」
エリアスが言った。
「完全にアルヴェリアに来るか。それとも現実に戻るか。
今どちらかを選ばなければ、お前は両方の世界から消える」
選択——それは想像以上に重かった。
現実に戻れば、エリアスもリネアも、あの美しい世界も、すべて失う。
けれど、アルヴェリアに留まれば、現実の私は消える。
家族はいない。友人も少ない。
でも、確かにそこで生きてきた人生がある。
「時間がない」
エリアスの声が焦りを帯びる。
暗闇が私を呑み込もうとしていた。
その時、ふと思った。
本当にどちらかを選ばなければならないのだろうか。
「もしかして」
私は暗闇の中で声を上げた。
「両方、本物なんじゃない?」
エリアスの表情が変わった。
「夢だから偽物で、起きてる時だけが本物だって、誰が決めたの?
どちらも私が経験して、感じて、生きた世界だ」
暗闇が揺らいだ。
「なら、両方で生きる。完全にどちらかになるんじゃなくて、二つの世界を繋ぐ存在として」
「それは……」
エリアスが何か言いかけたが、光が溢れ出した。
暗闇が裂け、無数の色彩が渦巻く。
目を開けると、私は自分の部屋のベッドに寝ていた。
朝の光が差し込んでいる。
いつもの天井、いつもの空気。でも、何かが違った。
左手を見ると、淡い光の粒子が指先できらきらと踊っていた。
それはアルヴェリアの魔法だった。
すぐに消えてしまったが、確かにそこにあった。
起き上がり、鏡を見る。
左肩の痣はまだ残っている。
でも、それは傷ではなく、何か別のもののように見えた。
刻印。二つの世界を繋ぐ、証のような。
スマートフォンを手に取る。
メールが溜まっている。会社からの連絡。
現実の、日常の雑音。
それでも、私はもう怖くなかった。
夜が来れば、エリアスに会える。
リネアと冒険を続けられる。
そして朝が来れば、この世界で生きていく。
どちらも本物で、どちらも私の人生だ。
夜、ベッドに入る。
目を閉じると、いつものようにアルヴェリアの風景が広がっていた。
宿屋の前で、エリアスが待っていた。
「来たか」
彼は微かに笑った。
夢の中の彼が笑うのを見たのは、初めてだった。
「ただいま」
彼は何も言わず、いつものように歩き出す。
私はその背中を追いかけた。
現実か夢か。もう、その問いに意味はなかった。
両方が私で、私は両方の世界に生きている。
左肩の刻印が、月明かりの下で淡く光った。
これは境界を越えた証。二つの世界の橋渡しとなった、私だけの印。
「行くぞ」
エリアスが振り返る。
「次の遺跡は、少し遠い」
「大丈夫」
私は彼に並んで歩き始めた。
二つの月が空に浮かび、風が優しく吹く。
どこかで目覚まし時計が鳴るかもしれない。
朝が来て、また現実に戻るかもしれない。
でも、それでいい。
私は二つの世界で生きていく。
目を開けていても、閉じていても。
境界は、もう私の中にある。




