5 THE SHOW MUST GO ON
あっという間に一ヶ月が経過し、ついに本番当日が来た。
私は担当するクラスの出欠を取るために教室に入る。
実のところかなり緊張しているが、教え子たちの前だ。それを出さないようにせねば。
「おはよう」
いつも通りに挨拶をして教室に入ると、真っ先に教室の後方にいる高梁星輝と染谷瑞季の会話が聞こえた。
「あの顔は緊張してるな」
「そう? いつも通りの仏頂面じゃない?」
けっして大きな声ではないが、自分の悪口はなぜか鮮明に耳まで届いてしまうものだ。
「いいや、あれはかなり緊張してるね。ウチには分かる。ちょっとでも油断すると漏らすレベル」
おまえは私の何なのだ。
出席を取り、文化祭にあたっての注意事項が記載されたプリントを配る。この文化祭は高校の文化祭のように、すべてのクラスが出し物をするようなものではない。いくつかの文化部と三年生のクラスが教室で出し物をする程度のものだ。すなわち多くの一年生と二年生は完全に観客であるため、彼らが一斉に行きたいところへ行くと混雑してしまう。そのため、見学する順番が決まっており、出し物をクラスごとにローテーションして体験する。最後には体育館に集まり、全員でステージを見て終了となる。
担任の教師は生徒たちを先導する手筈となっている。体育館への集合予定時刻からステージが始まるまでは十五分程度しかないし、練習用の控え室があるわけでもない。つまり、事前に打ち合わせをする時間なんてほとんどない。昨日ゲネプロを実施しているとはいえ、緊張や不安が完全に解消されているはずはなかった。
正直、緊張していた。ちょっとでも油断すると漏らすレベルだ。
生徒たちと各教室を回りながら、私は半ば上の空だった。
教師として十年余り過ごしてきて、人前に立つ緊張には慣れたつもりでいた。だが、今はまるで初めて生徒たちの前に立って授業をした教育実習生時代のように、心臓がバクバクとうるさかった。
あの頃に比べ、自分は人間的に成長したと思っていたが、どうやらそうではないらしい。自分が強くなったのではなく、教師という鎧を着るようになっただけなのだ。
これからステージに立つ自分は、教師としての自分ではない。細々と家でギターを弾いている自分。身に纏うのは鎧ではなく、ボロボロの寝巻きだ。
ときどき高梁に目を向けると、彼女はいつも笑顔だった。目をキラキラと輝かせながら出し物を楽しんでいる。
強いな――と、私は素直に彼女を尊敬していた。
気がつけば一通り学校を回り終わり、生徒たちを体育館に座らせていた。高梁に合図を出し、私たちは体育館裏へ向かう。
一組目は吹奏楽部の一年生で、彼らはすでにステージに入り始めていた。二組目は三年生の漫才コンビで、壁に向かって小声で打ち合わせをしている。三組目が私たちで、二組目と三組目は吹奏楽部のメンバーが集まり次第、舞台裏へ入ることになっていた。
待機中、高梁はずっといつもの調子で喋っていた。「あの展示良かったなあ」「あのクラス面白かった」などと話し続けていたが、ふと会話が途切れた。十秒ほど沈黙があった後、私から声をかけようとしたが、「ねえ小池っち」と先手を取られた。
「ウチが緊張してるように見える?」
「見えない。普段からステージに立って演奏する奴はすごいな、と一日中思っていた。尊敬するよ」
「甘いね。めっちゃ緊張してるよ、ウチも」
声色はいたっていつも通りだ。顔色も授業や練習のときと変わらない。
「ほう。そうは見えないな」
「本当だって」
高梁は笑みを保ちながら続ける。
「いつも立ってるライブハウスなんてせいぜい数十人しか入らない箱だし、中途半端に知り合いがいっぱいいるし、なんかこう、ぐちゃぐちゃとした緊張があってさ。普段は気の知れた友だちの前ですらこういうことはあんまり言わないけど、ちょっと吐きそう」
高梁の弱音を耳にするのは初めてだった。そこでようやく、私はいつもの彼女との変化に気がついた。かすかだが、笑顔の右頬の位置が低い。
そうか。
緊張が顔に出ないよう、必死に笑みを保ち、話し続けているのか。
「小池っちはウチが緊張してるように見えないって言うけど、ウチらからしても小池っちが緊張してるように見えないから、安心して」
「頼もしいことを言ってくれるじゃないか。だが、朝、染谷と話してただろ。私が油断すると漏らすレベルで緊張してる、って」
「聞こえてたんだ。ウケる」
「自分の悪口とは、貫通力が高いものだからな」
「別に悪口じゃないって。あ、でもそれなら分かるだろ? 小池っちの緊張を瑞季は気づいてなかったじゃん? 小池っちが緊張してることは、この学校中でウチしか気づいてない。断言していい」
高梁のまっすぐな瞳を見て、理解した。彼女は私を信頼して背中を預けている、と。一ヶ月間呼吸を合わせて練習を続け、信頼しているからこそ、私の顔に出ない心情に気づいているのだ。
それに対し、私は高梁が秘めている緊張に気づけなかった。教師として生徒たちの鑑になれなければならない、と肩に力を入れていた。運命を共同する相方を信頼し切れていなかったのだ。自分の足で踏ん張ることばかりを意識して、背中を預ける勇気がなかった。
音楽のステージの経験で言えば、高梁の方が先輩だ。
だが、生徒に寄り添い、導いていく経験に関しては、私が先輩だ。
今はお互いに背中を預けあい、それぞれの長所を生かしあうべきだ。
「ありがとう。少し肩の荷が降りた。――俺がアコースティックギターを始めたのは、大学時代、好きな女の子がアコギってかっこいいよね、と言ったのを聞いたからだ」
「へ?」
すっとんきょうな音だった。
私は空を流れる雲を眺めながら続ける。
「カッコつけて三十万円のギターをローンで買って、もやしと納豆ばっかり食べて、ゼミの友だちから、たまには付き合え! って居酒屋に拉致されて大量の肉を無理やり食わされるほど家にこもって練習して。これを弾いて告白したら感動してくれるに違いないと信じて、めちゃくちゃ難しいソロギター曲のコピーに励んだ。それまで授業を全くサボらず真面目に勉強していたのに、気がつけば単位が危うくなって焦ったな。我ながらバカな学生生活を送ったものだ」
「小池っちもなかなか絵に描いたような大学生してたんだね。めっちゃ意外」
「私がおまえを厳しく叱りきれないのは、そういう生活をしていたからかもしれない。そんなやつでも教師になれるんだから、多少勉強をサボったところで、世の中なんとかなる」
「それ、教師が言っちゃっていいやつ?」
「今の俺は教師じゃない。おまえの相方だ」
高梁はびっくりした表情を見せたが、じわりじわりと口角が上がっていき、とても嬉しそうな顔を見せた。
さきほどまでの彼女よりも顔色が良くなっている。肩の力も抜けている。
この変化は、この学校中で私しか気づいていない。断言していい。
彼女に向かって拳を突き出す。
「絶対に成功させるぞ、高梁」
「おう!」
高梁は私の拳に小さな拳をぶつけ、ニカッと笑う。左右の頬がしっかりと上がりきっていた。
吹奏楽部一年の準備が完了し、私たちは舞台裏に入った。その薄暗さと、壁越しに期待感が漏れ聞こえてくる空気感は、ずいぶんと久しいものだった。とうとう本番が来てしまったのだな、と改めて実感する。
少々尿意があったため、私は念のためにトイレへ向かった。校舎の二階にある職員用のトイレまでは一分ほどかかる。用を足していると管楽器の高らかな音色がかすかに聞こえてきた。
用を足した後、手を洗いながら鏡を見る。毎日のように見ている仏頂面が写っていた。
「確かに、緊張してるかは分からんな」
体育館へ近づいていくと、少しずつ演奏がはっきりと聞こえてくるようになる。有名な洋画の悪役のテーマ曲だ。一年生が演奏しているだけあって、ところどころ音を外しており、頼りなく聞こえる。全身を覆う漆黒のマントと被り物を身に纏い、自分でマントを踏んでこけてしまうおっちょこちょいのビギナー悪役を想像してしまう。
体育館ステージ裏上手側の裏口を開けると、音が風となって襲ってきた。遠くから見たら喜劇、そばで見たら悲劇、とどこかで聞いたフレーズを思い出す。このビギナー悪役は、背中から見れば意外とたくましいらしい。
「ん?」
辺りを見渡す。裏方をする生徒会のメンバーが談笑したりステージを袖から覗いている以外、誰もいなかった。演者は下手側から入場し、上手側から退場するため、さっきまで壁に向かって打ち合わせをしていた漫才コンビはすでにこちら側にはいなかった。下手側に行くのは司会を務める放送部と次に登壇する演者だけのはずで、次の次が出番の高梁と私はこちらにいるのが正しい。
尿意を覚えてトイレに向かうまで、高梁はここでギターのチューニングをしていたのだが、彼女の姿が見当たらない。ギターの入ったソフトケースとエフェクターボードだけが残されている。
「高梁はどこに行った?」
そばにいた生徒会長に声をかける。
「さっき月音さんが急に飛び出していったのですが、高梁さんはそれを追って出て行きましたよ。ごめん! って言いながら」
「え?」
吹奏楽部の音楽が鳴り止み、拍手が会場中に響く。幕が降り、吹奏楽部の一年生たちが楽器や椅子を持って退場してくると、「おつかれさまー」と生徒会メンバーたちがねぎらいの声をかける。
ほどなくして、次のステージを紹介するアナウンスが会場中に響き渡った。
やはり高梁はいない。
生徒会長が冷や汗をかきながら言う。
「もしかして『ごめん』っていうのは、参加できないってこと……? ははっ、まさか」
「……え?」
漫才コンビのステージが始まる。彼らのステージは三分の予定のため、高梁と私のステージは五分後には始まっていることになる。
高梁がいなくなったことに気がついていない裏方の生徒が「小池先生と高梁さんは下手側に移動お願いしまーす」と言ったのが聞こえたが、それどころではなかった。
「まさか……」
バックレられた!?
いや、そんなはずは……。
あいつは約束を破るようなやつではないはずだ。
そうだ、思い出せ。いままであいつとしてきた約束を。
去年の期末テストとライブの時期が重なったとき、絶対にテストに遅刻をしないと約束したときは――毎日一時間寝坊してきた。
夏休み前に宿題を計画的に消化すると約束したときは――半分もやってこなかった。
他の学校の先生が視察に来るから、そのときだけは絶対に真面目に授業を受けてくれるよう懇願したときは――机に突っ伏して寝てた。
私の前で髪の話をするなと叱っても――言ってきた。
「約束破られた記憶しかないじゃないか……。いや、待て。一回だけあったぞ」
授業中の居眠りが目立ち、その理由がバンドのステージが近づいて遅くまで毎日練習してるからだと判明し、「次の中間テストで平均点取らなければバンド活動を禁止させる」と言ったときは、月音や染谷に協力してもらいながらギリギリ平均点を取っていたではないか。成績トップ常連の月音に0点を取って平均点を下げるよう頼んだという、あまりに頭の悪い提案をしたりしたそうだが。
「あいつは絶対に音楽を裏切らない」
月音が急に飛び出していって、高梁が追いかけていった、という図からはまるで状況が想像できない。出題者のいない水平思考クイズをしている気分だった。
だが、この際その状況を理解する必要はない。
どのような状況であれ、私の相方は必ず帰ってくる。ステージが終わるまでには必ず間に合わせてくる。
それだけは断言できる。根拠はないが、自信はある。
「そうだろ? 高梁」
深く息を吸い、おなかを膨らませ、ゆっくりと息を吐く。
「……よしっ」
ぱん、と両手で頬を叩いた。
ヒリヒリとした痛みを噛み締め、自分のギターケースの外ポケットから小型のギタースタンドを取り出す。
「小池先生?」
生徒会長は背中を丸めてぐったりとしていた。そもそも高梁をステージに立たせたのは彼だ。いくらか責任を感じているらしい。
「どうしたんですか? 高梁さんは――」
「高梁がすぐにステージに上がれるよう、ステージ袖にあいつのギターを置いておく。このギタースタンドを設置してくれ」
「え? あ、はい!」
信頼した相方とはいえ、他人の機材を触るのには抵抗がある。ギターなら尚更だ。高梁でさえいつもアコギを触りたそうな目をしていたが、彼女から弾きたいと頼まれたことは一度もなかった。他人のギターとは神聖なものであり、親しき間柄であろうとそう簡単に触るべきものではないのだ。
今だけは許してくれ、と祈りながら高梁のエフェクターボードを開き、ケースの外ポケットからワイヤレスのギターシールドを取り出した。ケースのチャックを開けて高梁のギターを取り出て抱え、ワイヤレスシールドをボディのジャックに差し込む。慎重にギターを抱え、エフェクターボードのチューナーの電源をつけて弦を弾き、チューニングを微調整する。
漫才コンビのステージが終了して拍手が響きわたった。彼らがステージ袖から降りてくるが、ねぎらいの言葉をかける余裕すらなかった。「おー、かっこいい」と呑気な感嘆が聞こえ、勝手口が開いて彼らの気配が消えた。
チューニングが終わると、エレキギターのボリュームを絞り、ステージへの階段を上がる。生徒会長に設置してもらったギタースタンドにギターを立てかけた。
「倒れないように見守っていてくれ」
「はい!」
「それから、高梁に伝言を頼む。ボリュームを上げれば音が出ると」
高梁は私を信頼している。きっと、諸々の準備は私がしっかりやっておいたと理解してくれるだろう。
「えっと、開始を遅めましょうか?」
「いや、いい。これからセッティングをするから、終わり次第始めてくれ。観客を待たせるわけにはいかない」
高梁なら、きっと自分のために全体の進行が遅れることを良しとしないだろう。
「何があろうとショーは続けなくてはならない」