4 間奏には息抜きを
三十五歳になったら、突然奴らがやってくる――。
二十代の頃、四十代の先輩教師とビールを飲んでいるときに、まるで恐怖の大王がやってくると予言するかのような神妙な面持ちで告げられたことを、今でもよく覚えている。三十五歳になって数ヶ月、前髪以外の健康被害はまだ姿を表していないが、すでに不摂生を餌にした怪物たちが背中の皮膚の裏に潜んでいる気がしないでもなかった。
そんな中年爆弾を身につけた状態で、まさか中学生たちに混じってステージに立つことになるなど思いもしなかった。中年と中学生。同じ『中』の字を冠する立場ではあるが、その意味はまるで異なる。あちらは大人になるまでの中間地点の意味で、こちらは寿命までの折り返し地点の意味だ。こちらから見たらその差を悲観せずにいられないし、向こうから見たらうまく想像できないほど遠い未来だろう。お互い壁を感じるのが当然のはずだ。
だが、高梁は私との間に壁を作らない。単に舐められていると解釈することもできるが、彼女が私と対等な関係でステージを作ろうとしていることは、今日の練習でよく伝わってきた。音楽に関して、あいつは誰よりも真摯なのだ。
「さて、私もしっかりと宿題を終わらせねばな」
自室のオフィスチェアに座り、開放型のヘッドホンを頭に装着する。放課後の練習時にメモをした曲名を動画サイトの検索窓に打ち込み、その曲を聞いてみる。
夏らしい爽やかなロックチューンだ。どうやら今年の夏に流行った曲らしい。アコースティックギターの音はジャカジャカとした成分がかすかに聞こえるだけで、バッキングのサウンドが占める上物成分はオーバードライブのエレキギターが大半。女性ボーカル曲で、キーはかなり高い。Aメロは早口で難解だが、そのぶんサビはキャッチーで口ずさみやすかった。だが、横文字が多いためか歌詞がうまく頭に入ってこない。高梁はギターを弾きながらこれを歌おうと言うのだから、その器用さに感嘆せずにはいられない。弾き語りすらまともにしたことがない私には無理だ。さいわい、ハモリが目立つ曲でもないので、歌は高梁にすべて任せてもいいだろう。
曲が終わり、ヘッドホンを外す。
「今日はまずコードを覚えるか」
アコースティックギターではなく、スタンドに立てかけていたストラトキャスタータイプのエレキギターを膝の上に置く。アコースティックギターは音が大きいため、夜の木造マンションで弾くべきものではない。静かな曲ならともかく、今回はジャカジャカと掻き鳴らすことになるのだから尚更だ。
エレキギターは基本的に生音が響かないように作られているため、アンプを通さなければ音は小さい。とはいえアンプを通さずエレキギターの練習をするのは悪い癖をつけてしまう原因にもなるため推奨されない。
シールド(ケーブル)をエレキギターとハードウェアのアンプシミュレータに繋ぎ、アウトプットをPCのオーディオインターフェースに差す。ヘッドホンを再度装着し、ギターを鳴らすと真空管系の歪みサウンドが聞こえた。クリーントーンのスイッチを足で押すと歪みがなくなり、アコースティックギターの音に近くなった。
チューニング完了後、楽曲を再生し、コード譜を見ながらコードの切り替わるタイミングを確認しつつ、簡略的に弾いてみる。さすがに一度聞いただけでは追い切れないが、コード自体はシンプルであるため分かりやすい箇所はきっちりと合わせることができた。三回目のサビになる頃には、一時転調する箇所以外は追いついて弾くことができた。
「よし」
今ごろ、高梁も練習していることだろう。――願わくば、宿題を終わらせた状態で。
一時間ほど練習をし、ずっと前屈みになっていた背中を背もたれに預け、ハイポジションのF♯9をアルペジオ気味に鳴らした。それはこの曲に登場するコードではない。昔、狂ったように練習をしていた曲の冒頭のコードだった。
「懐かしいな」
一目惚れした女の子に曲を贈ると決め、アコースティックギターをローンで買って最初にしたのは作曲の勉強だった。自分には天賦の才能があるんじゃないか、と自惚れながらラブソングを書いていたが、インフルエンザで数日倒れた後、久々に歌詞カードを見た時に突然「ダサすぎないか?」と正気になって諦めた。
その代わりに始めたのが、技巧なソロギターのコピーだった。
このとき、私は様々な曲を一本のアコースティックギターだけで演奏するギタリストに憧れていた。
せっかくアコースティックギターを練習するなら、こんな曲を弾きたい!
歌を贈れないなら、せめて難しい曲を。
あなたのためにたいへんな思いをしてこの曲を覚えたんだ、と言いたくて。
そうして、私は演奏動画をまじまじと見たり、解説動画を参考にしながら練習した。これを覚えきった頃にはモテモテになってるに違いないと信じて。――本当にモテるのはみんなが知ってる曲を弾ける人だと、当時の自分に教えてやりたい。
私が練習したのは、とある洋楽のカバーだった。優しい男性ボーカルとアコースティック楽器のみで構成される、少々古い曲だ。歌詞にギターという単語が何度も登場するのが特徴で、ギターを始める前から私はこの曲をよく口ずさんでいた。思い出の曲だった。
和訳を思い出しつつ、原曲より少し遅いテンポで弾いてみる。
どうだい?
仕事は終わったかい?
まだなら ちょっと息抜きしてくかい?
たとえ 君が約束の時間を二時間間違えても
僕はへっちゃらさ
ギターを弾いて待ってる
たとえ 君がどこかで誰かとキスをしていても
僕はへっちゃらさ
ギターを弾いて待ってる
たとえ 君が世界の敵になったとしても
僕はへっちゃらさ
ギターを弾いて待ってる
ギターを弾いて待ってるから
九月が終わる頃
ヒーローが自分を起こしてほしいと頼むだろう
だから
十月が始まるまで 僕はギターを弾き続ける
ヒーローの引き立て役にすらならない
モブの演奏だけど
もしよかったら聞いてってくれよ
僕の青い歌を
僕はギターを弾き続ける
ギターを ひとりで 弾き続ける
「我ながら、好きな子に送る歌にふさわしくないチョイスだな」
過去の自分を嘲笑しつつも、ギターを弾く手は止められずにいた。
二コーラス目を弾き始める。
たとえ 君が現実に
心を折られてしまったとしても
ギターを弾いて待ってる
たとえ 君が世界を救うヒーローとして
悪と戦っているとしても
ギターを弾いて待ってる
たとえ この部屋の外が
戦火の炎で包まれていようとも
ギターを弾いて待ってる
ギターを弾いて待ってるから
ギターを弾き続けるから
弾き続けるから
原曲はここで間奏が始まり、アコースティックギターのアドリブフレーズが繰り出される。これまではメロディとコードを同時に弾いていたが、ここだけはそれができず、ひとりで弾くときはメロディだけになる。しかし、そのフレーズはコードトーン中心に構成されるため、コードが自然と耳の中で流れるものだった。弦移動が多くて難易度は高いが、そのぶん綺麗に弾けたときは気持ちよくてたまらない。
間奏が終わった後、新たなセクションが開始される。ここから曲が盛り上がるため、右手のストロークを大きくし、ダイナミックに音を鳴らすことを心掛けた。
サウンドホールから広がる森の中
君の足音が聞こえた
僕はへっちゃらさ
ギターを弾いて待ってたから
サウンドホールから広がる森の中
君の足音が近づいてくる
僕はへっちゃらさ
君を信じて待ってたから
ダイナミックに音を鳴らすということは、余弦のミュートが甘ければ雑音が鳴りやすいということでもある。それを抑えることは非常に繊細な技術が必要で、これまで一度として完璧に弾けたと実感したことはない。
曲のピークを雑音ばかりの拙い演奏で駆け抜けた後、曲は急遽静かになり、エンディングを迎える。
どうだい?
仕事は終わったかい?
僕と一緒に ギターを弾かないか?
この最後のフレーズが告白にすごく良いのでは、と当時は思っていたが、改めて考えるとその子もギターを弾く前提になってしまう。しかも歌詞は英語だ。ましてや自分はインストで届けようとしている。
もうちょっとふさわしい曲があっただろう、と当時の自分を引っ叩きたくなる。
「にしても、意外と弾けたな」
指が勝手に動き、それに従ってしたら一曲丸々弾き終えていた。記憶間違いや、指が追いつき切らずに間違えたところは多々あったが。
もう一度曲を始めから弾き、うまくいけないところがあれば再び弾いて、納得がいくまでやり直した。そうやって同じフレーズを何度も繰り返しては進め、最後まで弾いたときには一時間が経過していた。もう一度頭から弾いてみると、案の定うまく弾けなかった。それでもめげず、毎日のように繰り返していくうちに、必ず上達して――。
「――あれ?」
いつから寄り道してた?
気づけばまったく関係ないフレーズの練習をしていたことは、昔から頻繁にあった。まさにこの曲を練習していた当時、弾いた音が別の曲の音と重なり、そのまま別の曲のメロディやコードを探し始めたことも度々あった。
「ただでさえ時間がないというのに……」
大きく息を吸っておなかを膨らませ、吐いた。こういうときこそ落ち着かねば。
「――よし、あと三十分だけ練習して寝る」