3 初めての練習
当日の持ち時間は十五分。三曲とMCがすっぽり収まるサイズだ。
曲はその夜に高梁星輝が全て考えてきて、翌日の放課後にそれを教えてもらった。
二人だけの教室で、一曲目をスマホで流しながら高梁がギターを弾く。
世代を超えて有名な男性ボーカル曲だった。アップテンポながらキャッチーなフレーズが特徴で、曲全体を通してボーカル音域のレンジが狭いため、男女問わず歌いやすい曲だった。
この曲を弾くのは久々らしく、ところどころ躓いてはいたが、概ね演奏は丁寧だった。中学生でこれほどまで綺麗な音を出せるとは、と素直に感心する。この近隣やインターネットの片隅でそれなりに有名らしいと聞いたことがあるが、この腕前ならそれも頷ける。
高梁のギターは暗い赤いキルトメイプル(波打った水面のような木目が出たメイプル材)のボディのダブルカッタウェイのエレキギターだ。ヘッドには有名なギターメーカー名が筆記体で刻まれ、「SE」の文字が添えられている。廉価版のモデルらしい。
曲を最後まで弾き終えると、私は自然と拍手していた。いつの間にか教室の外には生徒たちが集まっており、彼らも拍手している。
「なかなかうまいじゃないか」
「へへっ。でも、バンドで出すならこれくらいの歪みがちょうどいいけど、アコギとふたりでやるならもう少し抑えたほうがいいかも、って思った」
「かもな。まあ、そこは実際に音を合わせてからでいいんじゃないか?」
「確かにそうだね」
「私もできる限りエレキとバランスが取れるように工夫してみる。まずはコードを頭に叩き込んでからだな」
コード譜を最初から最後までざっと目を通し、コードを分析する。
「キーはDメジャーで、BメロでAマイナーに転調する以外はシンプルだな。イントロの最後に同主調の部分転調、それ以外は概ねダイアトニック・コードで、ノン・ダイアトニックはサビにお決まりのサブドミナント・マイナーがあるくらいか」
「すげえ、全然何言ってるか分かんねえ。小池っち、理論も学んでるんだな。かっこいい」
「ごく基本的なところだけだがな」
アコギを買って最初に始めたのがラブソングの作曲で、そのために音楽理論を勉強していたことはトップシークレットだ。なんとしても墓まで持っていく。
その後は頭の中で曲を流しながらコードを鳴らし、少しずつ手を曲に馴染ませていく。原曲に合わせてワンコーラス弾けるようになるまで、三十分もかからなかった。もう三十分あれば一曲覚えきることができるだろう。問題はアレンジで、それを詰めていくのに時間をかける必要がある。バンドの中で弾くだけであればストロークだけでも問題はないだろうが、バンドのリズム隊(ドラムとベースのこと)の役目を兼任するのは簡単なことではない。
高梁は軽く歌いながら曲を繰り返し弾いていた。歌に気を取られているのか、先ほどの洗練された演奏があきらかに崩れ、ミスが目立った。
四十分ほど黙々と練習していると、高梁が気分転換のためにギターを机に置いて立ち上がり、身体を伸ばした。何を思ったのか、高梁は黙々と練習する私の後ろに立つ。
「後頭部は意外と髪フサフサなんだな」
「高梁よ」
私は表情ひとつ変えず、ゆっくりと首を背後の高梁へ向ける。
「私は国語教師だ。言葉や表情の裏に隠れた真意を読み取ることには自信がある。――私の前髪に絞め殺されたいか?」
「深読みしすぎだって! 褒め言葉褒め言葉!」
前髪が明らかに後退していると気づいたのは一年ほど前からだろうか。それ以来、鏡を見るたびに軽い恐怖に襲われるようになってしまった。
「髪の話をするなと忠告したのは今日が初めてではないよな?」
「ごめんって――まことに申し訳ございません」
高梁は私が親の仇のように睨んでいることに気づいてくれた。
私は高梁に圧をかけているが、本気で怒っているわけではない。彼女が今後の人生で私より沸点が低い人間に出会ったときに厄介な目に遭わないよう、冷静に忠告しているつもりだった。
もっとも、傷心はしている。
「仕方ない。これまで抜けていった髪に免じて許してやろう」
「本当に許されてるの? それ」
「許してやる代わりに、これから言うことを誓ってくれ。歳が倍以上離れたおっさんの戯言だと受け流さずに」
「は、はい」
「中年に対して髪の話をするのは、違法入国や領空侵犯に並ぶ重犯罪だ。絶対にやめろ」
「かしこまりました」
彼女に説教をするときはいつも暖簾に腕押しをしている気分になるが、今日は少し手応えがあった。
「ならば、この話は終わりだ。私の気持ちを高梁が理解する日がいつまでも来ないことを祈る」
「確かにウチも身長の話されるとちょっと嫌だもんな」
「百四十センチだっけ」
「百四十一センチな! この一センチの重みが分かるか!? 百八十センチの小池っちには分からないだろうなあ!」
「それが私が失った前髪の重みだ」
「申し訳ありませんでした」
私がコードを一曲覚えきると、ようやく高梁と音を合わせることになった。
シンプルなアコースティックギターのバッティングとシンプルなエレキギターのフレーズからなるサウンドは、少々味気なかった。歌が始まると、二本のギターが同じ役割となってしまい、高梁の歌が乗っても退屈さが否めなかった。
ところどころ詰まりながらもなんとか最後まで演奏しきると、高梁は眉を曲げた。
「まだまだ完成度は低そうだね」
「ああ。もっと高梁を映させるアレンジは考えてくる。サビはハモリを歌ってみようか」
「え! 歌ってくれるの!」
「やるからには全力でやるのが私の主義だ」
「ありがとー!」
その屈託ない笑顔を見て、改めて思う。これまでの彼女の悪行を全て許してしまいそうになる自分は、なんとちょろいのかと。
「そういえば小池っちっていつからギター始めたの?」
「高校生の頃、友だちの誘いでギターを弾き初めたのが始まりだ。友だちは一ヶ月で飽きて、私は軽音部に入部してエレキを弾き続けた。アコギを始めたのは大学生になってからだな」
「へえ! エレキ出身なんだ。仲間じゃん」
「おまえがロックバンドでギターをやってるって知ったときから、ぜひ演奏を聞いてみたいと思っていた」
「そう思ってくれてたんだ! 嬉しい! 小池っちはツンデレだな」
「黙れ」
有名なアクション映画で一触即発の空気の時に流れる曲を弾き、怒りを表現する。高梁は「ごめんごめん」と笑いながら謝る。
「アコギってかっこいいよなあ。音でかくて家では弾けないから、めっちゃ憧れる」
私は曲の演奏を止める。右手でネックを掴み、高梁に差し出した。
「弾いてみるか?」
「いいの!? ありがとー!」
高橋は自分のギターを机の上に置き、私のギターを抱える。私のギターはドレッドノート(くびれの小さなシェイプ)の大きめのサイズのため、小柄な彼女が持つと少々アンバランスだった。
じゃらん、と音を鳴らし、「お〜」と感嘆した。次にジャカジャカとコードを鳴らす。セーハ(指一本で複数の弦を抑える)のコードもうまく音を出せていた。エレキ出身だとうまく出せないことが多いが、それができているということは元々のフォームが綺麗なのだろう。
「気持ちいい! めっちゃ音いいね!」
「だろう?」
目を輝かせてギターを弾く高梁を見ていると、まるで姪っ子におもちゃを与えたおじさんの気分になる。
「小池っち、どんなきっかけでアコギを始めたの?」
「教えない」
「えー! エレキは教えてくれたじゃん! いいじゃん教えてよ!」
「断る。ここから先はメンバーシップの有料コンテンツだ」
「月々いくら?」
「五百ドル」
「ぼったくり!」
練習をしていると、あっという間に夕方が来た。生徒が下校しなければならない時間が近づき、私たちはアンプを音楽室に返却して帰路についた。
「にしても、忙しくなるね、先生」
ギターを背負って階段を降りながら高梁が言う。
「ああ。誰かさんのおかげでただでさえ短い睡眠時間が半減するだろうな」
「家で勉強する時間もなくなっちゃうなあ」
「高梁よ。まさか勉強から逃げる理由に音楽を使うつもりじゃないだろうな」
「いやいや、そういう――」
冗談めかした誤魔化しをしようとした高梁は、私の目の色を理解して言葉を止めた。
高梁にズッ友扱いされるのは不服ながらも、不思議な楽しさがあった。まるで青春をやり直しているような感覚さえあった。だからこそ彼女の言うことを否定せず、いじられても怒ったりはしなかった。あえて主導権を彼女に譲り、いいように使われてきた。
だが、教育現場に立つ大人として、絶対に譲れないものはある。
「おまえがプロのミュージシャンを目指していることは知っている。その夢を私は嘲笑う気などないし、むしろ私にできる範囲でならサポートしたいと思っている。だからこそ忠告させてもらう」
高梁の目をしっかりと見つめながら続ける。
「博打を打つ前提で生きるな。博打は最後の手段だ。しっかりと備えていれば下手な博打は打たずともなんとかなる。その備えが、学校の勉強だ」
階段の踊り場で立ち止まる。私は階段を二段降り、彼女と目線を合わせた。
「勉強をして手に入れた知識や知恵は、必ず武器になる。もちろん、そんな武器などいらない生き方もあるが、思いもしないところで武器がなければ前に進めなくなる時がある。武器を持っていれば難なく進めるのに、武器がないためにハッタリをかます必要がある。それでうまく行くこともあるだろう。だが、それがハッタリだと気づかれてしまったとき、それまで積み上げてきた信用が一瞬にして紙屑になってしまう。私は、そういう人間を何度か見てきた。教え子がそういうふうになってしまうのを、私は見たくない。前にも言ったが、もっと自分を大切にしろ。ここでいう自分とは、未来の自分のことだ。いいな?」
「はい」
私は再び階段を降り始める。高梁は無言で私の後ろをついてきた。
「それに、おまえのキャラなら第一印象通り勉強できないよりも、意外と勉強できるというギャップがあるほうが面白いだろう」
「あー、一理あるかも」
「だろう?」
二階まで辿り着く。高梁は下駄箱へ、私は二階の職員室へ戻るため、ここで別れることとなる。
別れの挨拶をする前に、私の顔を見上げる高梁の目を見つめて言った。
「無理をすることはない。まず、今日の宿題を今日中に必ず終わらせるところから始めてみればいい。明日も、明後日もそれを続け、一週間、一ヶ月と少しずつハードルを上げていく。地道に積み重ねていけば、音楽でプロになるという壁くらい越えられるようになるはずだ」
「確かに! そんな気がしてきた!」
高梁の素直で単純な性格が、ふとかわいらしく思えてしまう時がある。
「小池っち! できるかぎり学校の勉強も頑張ってみる!」
「ああ。応援している」
「二足の草鞋履くぞー! おー!」
その言葉のチョイスは不安になってしまう、と思ったが口にはしなかった。