2 外堀を埋められて
なんやかんやで私と高梁星輝がユニットを組み、舞台に上がる方向で話が進んでいた。
私の意思を無視して。
その日の放課後、高梁と改めて話す約束を設け、いくつか職員室で仕事を終わらせた後、高梁が待っている教室に向かった。
教室には高梁と、同じくこのクラスの一員である染谷がいた。
染谷瑞季は「どちらかといえば」という冠詞をつければギリギリ真面目に分類される女子生徒だ。去年までは内気なイメージが強く、周囲と群れるよりも早歩きで家に帰る方が好きそうな印象だった。経緯は知らないが、春のうちに高梁や月音と仲良くなり、それ以降はこの三人でいるのをよく見かける。正直、意外な組み合わせだった。
教師として生徒のことはよく見ているつもりだが、そのような意外な人間関係を目にすると、自分が知っているのは生徒のほんの一面に過ぎないのだと実感させられる。
私が教室に入ってきたことに先に気づいたのは染谷で、「あ、先生来たよ」と聞こえた。
「小池っち! 文化祭頑張ろうな!」
「まだ出るとは言ってない」
なんか面白いことになってきたねー、と染谷は文字通り他人事のように言い、バッグを肩にかけた。
「じゃあ、私は帰るね」
「おう。話し相手になってくれてありがとうな」
染谷が教室を出るのを見送ってから、私は口を開ける。
「私も帰っていいか?」
「えー! ひどい! 女の子との約束をそんな簡単に破っちゃうなんて!」
「おまえは私との約束をいつも破るけどな。宿題という約束を」
「まあまあまあまあ。いったん適当な席に座ってってよ」
「ここはおまえの家か」
指摘しながらも、私は右手が触れていた席に腰をかけた。教室の中央に位置する席だ。
高梁は私が座る席の前に座り、左に体を捻って私の席の机に肘を置いた。
「部活の顧問やってない上にギター弾けるとかいう好条件を、担任が持っているとはなあ。面白いもんだね」
「何も面白くない」
「しかもそれが小池っちなんだから最高だよなあ」
「いつも言ってるが、『先生』をつけろ」
「じゃあ先生・オブ・ザ・小池っち」
時間を数秒戻したという設定にし、「まず、仮に私が高梁と一緒にステージに出るとして、問題がいくつかある」と仕切りなおす。
「なになに?」
「どこで練習するんだ?」
「あー、音楽室とかは使えるわけないもんなあ。ここでいいんじゃね? 別に放課後誰も使わないっしょ」
「あのな、高梁よ。音を出すんだ。狭い部屋でアコギがどれほど響くか、知らないわけではないだろう。もちろんエレキもそれに負けないように音を出す必要がある。はっきり言って騒音だ。ちゃんと許可を取らないといけないし、取れるとも思えない」
「じゃあカラオケでも行く?」
「馬鹿いうな! 教師が勤務時間中に生徒と二人でカラオケなんて許されるわけないだろ!」
「えー、ウチは気にしないけどなあ。小池っちなら安心感あるし」
「そういう問題じゃなくてだな……」
高梁と話しているといつも彼女にペースを持っていかれ、疲れる。子どもにリードを振り回される子犬になった気分だ。
「で、他は何か問題ある?」
「おまえのスケジュールはどうなんだ」
「スケジュール調整ができない状態で予定埋めたりなんてしないよ」
「ちゃんと宿題をする時間も計上してるだろうな?」
「ワタシ、ニホンゴ、ワカリマセーン」
おそらく今の私の顔は無そのものだろう。
その表情を見て「ごめんて」と高梁は苦笑いしながら謝る。
「先生こそどうなの、スケジュール」
しれっと話題を変えやがって。
「私のことは気にしなくていい」
「そう言うと思った。じゃあ、本当に気にしないことにするよ。これで問題はふたつ吹き飛んだね」
「やっぱり気にしろ」
「ざんねーん。もう締め切りましたー。他に問題はある?」
深くため息をつく。
このまま不毛な言い争いをしても埒が開かない。高梁は絶対に折れないだろう。
「仕方ないな」
生徒たちの前でギターを弾くなんて、悪夢でも見たことがない。失敗してしまい、醜態を晒してしまう図ばかりが頭に浮かんでしまう。
だが、生徒の前で弱音を吐くほどの器量を私は持ち合わせていない。
「練習場所の問題さえクリアできれば、他は些細なものだ。どうとでもしてやる」
「おっ、言ったね? ――あっ! みっちー先生!」
ちょうど学年主任の三田村先生が教室の前を歩いていた。高梁は授業中に先生に当てられたい小学生のように手を挙げて立ち上がり、ぴょんぴょんと三田村先生の方へ向かった。
三田村先生は妙齢の女性で、この学校の教師陣の中でも優れたリーダーシップを持つ先生だ。発声が美しく、授業が分かりやすいことで評判があり、生徒から強い指示を受けている。教師にも彼女を強く信頼している者は多い。私もそのひとりだ。三田村先生には様々な場面で助けられており、頭が上がらない。
「あら、高梁さん。小池先生とマンツーマンで補習?」
「いえ、先生がウチに愛の告白をしようとしてて」
「いい加減なことを言うな!」
「中学生に手を出す変態教師は受け入れられないのでフリました」
「偏向報道が過ぎる!」
「あらあら〜。小池先生はクビだね。ばいば〜い」
「理不尽!」
そうよワ・タ・シは〜理不尽な貴婦人♪ などと小躍りしながら三田村先生と高梁がキャッキャと盛り上がっている。独特な世界観を十秒ほど私に見せた後、三田村先生は満足そうに「ついつい脱線しちゃったわね」と話を戻した。
「高梁さん、何かご用かしら」
「次の文化祭で小池先生とウチでバンド組むことになったんですけど」
なってない、と指摘するが高梁は無視する。
「放課後にこの教室で練習してもいいですか? それなりに音は出るんですけど吹奏楽のトランペットとかよりはよっぽど静かにできます!」
「あらあら。それは楽しそうね。おっけー」
「三田村先生ノリ軽すぎません!?」
二つ返事で許可を出し、私の顔を見つめる三田村先生の瞳には、悪巧みや愉悦の色があった。この人は私を叩けば音が鳴るおもちゃだと思っている節がある。
そんな私の横で、高梁は小さな身体で大きく跳躍し、喜びを全身で表現していた。
「やったー! ありがとうございます! やっぱりみっちー先生は判断が早いし話が分かるし、何よりも美しくてカッコいい!」
「いやあ、それほどでもあるわ。うふふ」
「もうひとつお願いなんですけど、ギターとかエフェクター、アンプも持ってきていいですか?」
「いいけど、朝早くやってきて職員室に預けてちょうだいね。アンプは持ってくるのが大変でしょう。音楽室にも小型のものがあったはずよ。長いこと準備室で埃を被りながら眠ってるかもしれないけど、掃除さえしてくれれば使ってくれていいわ」
「ありがとうございます!」
「これから音楽室の方面に行くから、吹奏楽部に話通しとくわね」
「やったー! みっちー先生大好き!」
二人が抱きあっているのを見ながら、私は新たな学びを得た。外堀が埋められる、とはこのことを言うのだろう。兵糧攻めされる将軍はきっとこんな気持ちだったに違いない。
三田村先生は「当日を楽しみにしてるわ」と笑顔で手を振りながら去っていった。先生の姿が見えなくなるまで見送った後、私は右に立つ高梁を睨む。
「ところで、高梁よ」
「なに?」
「生徒会長や三田村先生には敬語が使えるのに、どうして私には敬語を使わない?」
「昔からずっと言ってるじゃん。ウチら、ズッ友だろ?」
「違う。あと、昔から思っていたが、ズッ友という言い回しは古くないか?」
「小池っちの世代に合わせてんだって。気を遣ってるってわけ」
「ここ数年でもっとも腹の立つ気の遣い方だ」
「それに、これがウチなりのリスペクトでもあるんだ。ほら、ロックバンドって『さん』づけで呼ばれるのを嫌ってたりするじゃん? ロックバンドにとってリスペクトってのは『さん』をつけるとかつけないとか、そういう表面的で薄っぺらいものじゃない。もっと、深いところにあるものでしょ? それと同じ」
「おまえはロックバンドと教師を同列に並べてるのか?」
「ロックバンドからも教師からも、学べるものはたくさんあるだろ? 一緒だよ一緒」
その価値観は理解できなかったが、小池も中学生の頃は散々ロックバンドの歌詞に影響されて行動していたし、高校生の頃には憧れてギターを買って友だちをバンドを組んだりもした。
言い返せない。――いや、冷静に考えて論理が破綻してるし、単に私が丸め込まれてるだけでは?
「でもなあ……」
バンド経験なんて高校生以来だし、ましてやアコースティックギターでのステージなんて初めてだ。
「本当に私がやるのか? やっぱりやめないか?」
「なにヒヨってんの。みっちー先生に練習の許可も取ったし、もうショーは始まってるんだから。ザ・ショー・マスト・ゴー・オン! ――何があろうとショーは続けなくてはならない、ってね」
私が高校生の頃に影響を受けていたイギリスのバンドに、「The Show Must Go On」という曲があった。初めて聞いたときは、鬼気迫るボーカルに痺れて放心したものだ。
当時、バンド仲間と練習しているときにボーカルが「一回止めて」と言ったのを「ショー・マスト・ゴー・オン!」と叫んで無視したという黒歴史を思い出してしまった。死ぬまで思い出したくなかった。
「仕方ない。やってやるか」
生徒たちの前でギターを弾くことを考えると、胃が口から飛び出ていきそうだった。仏頂面で面白みのない教師に、生徒たちを楽しませることはできるのだろうか。まるで自信がない。
でも――。
どこか年甲斐もなくワクワクしている自分もいた。