1 序奏は黒歴史と共に
「アコギ弾いている人ってかっこいいよね」
大学時代の私がアコースティックギターを持つきっかけになったのは、当時一目惚れしていた女の子がそう言っていたのを耳にしたからだ。高校時代にメロコア系のバンドを組み、阿呆みたいにエレキギターをかき鳴らしていた私にアコースティックギターへの深い興味はなかったが、その瞬間、それは憧憬の対象になった。
三十万円のアコースティックギターを二十四ヶ月ローンで購入し、近所から騒音苦情が来るまで練習をしていた当時の私は、なんと尻が軽いことか。教職に就き、三十五歳になった今でも、ときどきその痛々しい青さを思い出して、脳の奥の方がツーンと痛くなる。
黒歴史とは、ふとしたきっかけから芋蔓に絡まって出土する爆弾のようなもので、いつ襲いかかってくるか分からない。私が担当する国語の授業の小テスト中にさえやってくるのだから、逃げようがなかった。
私――小池は自分が担任を務めるクラスの教卓右手にある椅子に座り、中学二年生の国語の教科書を膝の上で開いていた。次の授業の範囲を確認していたのだ。そのときにこの授業の後の約束を思い出し、そこから大学生時代を連想してしまい、今に至る。
授業および小テストはあと五分で終わる。
教科書を閉じ、顔を上げた。真っ先に目についたのは、このクラスで最も成績の良い月音優菜だった。背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いてプリントを集中して読む姿は上品で、よく目立つ。おそらくもう回答し終わっているのだろうが、国語という科目にはしばしば絶対的な正解がない。今回は作者の意図を問う記述問題もあるため、一度答えた後も安心できず、彼女のように問題文を改めて読み直すのが当然だろう。ましてや眠れるはずなどない。
が、教室内には机に伏せている生徒が四人いた。回答を見る前から決めつけるのはよくないが、十中八九真面目に問題に取り組んでいない面々だ。
特に、教卓の目の前の席にいる女生徒、高梁星輝の背中は呼吸に合わせて上下しており、杏色のカーディガンに「寝ています。起こさないでください」と貼り紙を貼っているかのように分かりやすい。
授業終了のチャイムが鳴る一分前に小テストを終了し、解答を回収する。すべてが私の元に集まったと同時にチャイムが鳴り、礼をして授業を終わらせた。
高梁は席につかず、月音に話しかけにいった。このふたりは性格も成績も真逆だが、勝手知ったる幼馴染らしい。
そんなふたりを見て、私は高梁が約束を忘れていることに確信を持った。教室の外に目を向けると、高梁に用事がある生徒会長が廊下に立っていた。私は廊下側に位置する月音の席へ向かい、高梁に声をかける。
「高梁」
「あ、小池っち。どうかした?」
高梁星輝は浅黒の肌とポニーテールが特徴の活発な女子生徒だ。身長はこのクラスで最も低い。明るい性格かつ運動神経抜群で、その上バンドのギターボーカルとしてそれなりに人気があるらしく、彼女に憧れる生徒は男女問わず多かった。
「客が来てる」
「客? なんの?」
「授業が始まる前に話しただろう。生徒会長だ」
一瞬ぽかーんとした表情を見せたが、すぐに思い出したらしく、手を叩いて教室中に声を響かせた。
「……ああ! そうだ! 完全に記憶を夢の中に忘れてきてた!」
「おまえは自分が授業中に爆睡してたことを、もう少し誤魔化そうとすべきだ」
生徒会長が高梁を訪れたのは、彼女に文化祭のステージに立ってくれないかと交渉するためだった。
この中学校では十一月に文化祭が開催される。高校の文化祭のような大きな規模のものではなく、文化部が展示や体験などの出し物をして、三年生が思い出づくりのためにクラスごとにダンスや演劇を教室で行い、他の一、二年生は見学だけをする程度のものだった。
このイベントの目玉は、各クラスの出し物が終わった後に体育館で開かれるステージだ。吹奏楽部や合唱部のステージが主役となるほか、全校生徒の中から演者を募集されるため、バラエティーに富んだステージとなる。
九月中に募集が締め切られたが、今年は募集組数が少なく、尺が十五分ほど余ってしまったらしい。そのぶん早めに終わればいいのでは、と生徒会書記の月音が意見し、多くのメンバーが合意したが、生徒会長が「せっかくだから使える時間は全部使うべきだ」と主張し、どうにか埋めようという結論になった。
さらに生徒会長は「バンドとかやってくれる人いないかな。俺、バンド系の音楽好きなんだよね」と続けた。この学校には軽音楽部がなく、みんなが生徒会長のわがままに困り果てていたところ、偶然近くにいた私が「うちのクラスの高梁にでも声をかけてみたらどうだ?」と思いつきで言った結果、生徒会長はその気になってしまった。
私は事前に事の経緯を高梁に話し、「高梁がバンド活動で忙しいことを知っていながら無責任なことを言ってすまない。断っていいからな」と謝った。おそらくあの場に同席していた月音が高梁について何も言わなかったのは、高梁に気を遣ったからなのだろう。教師ながら配慮の足りなかったことを、私は強く反省していた。
高梁は困った表情で「あんまり予定詰め込みたくないからなあ。まあ、話も聞かず断るのは悪いから、直接聞いてみるよ」と言い、生徒会長と高梁、私の三人で話す機会が設けられた。
すなわち断る前提だ。形式上、私の役割は「生徒会長に高梁を紹介すること」「教師の立場から対等にアドバイスをすること」であるが、実際には高梁が断りやすいように場を操作する方向で考えている。
どこかの空いた教室で話してもよかったのだが、さっと話して終わる想定だったので、廊下で話すこととなった。
「高梁さんは三年生でもみんな知ってくるくらい有名だから、出てくれたら絶対盛り上がると思うんだよね。ぜひ出てほしい。高梁さんの歌声を、文化祭で聞きたい」
簡単に挨拶を済ませた後、甘いフェイスのわがまま生徒会長は口説きにかかった。実際に彼が高梁をどう思っているかは知らないが、地域で名が売れている高梁に一目置いていることは間違いない。
「誘っていただいたのは嬉しいですが、もし出るとしても、弾き語りとかになりますよね。普段はギターボーカルしてるけど、エレキしか弾けないからひとりで弾き語りっているのはちょっとなあ」
「そういうものなの?」
弾き語りはエレキギターよりアコースティックギターのほうが向いているのは確かだが、できないというほどではない。高梁にその経験があまりないのは確からしく、時間がない中で納得のいくパフォーマンスができる自信がないことが伺える。
「そういうものだな」
私はフォローを入れる。
「そっか」
生徒会長はそう頷くも、見るからに諦めた表情ではなく、次の手を口にした。
「高梁さんのバンドで出てくれない?」
「逆に出ていいの? ウチ以外の二人はこの学校の生徒じゃないけど」
ふたりは私を見上げる。他校の生徒の入場は全面的に禁止というわけではないが、許可を取るハードルは高い。
「ダメだな」
あえて言葉を濁さずにはっきりと断った。
このあたりで生徒会長が折れてくれれば万々歳、と思っていたが、彼はまだ折れる気がない。
「じゃあ、他にアコギで弾き語りできる人探して、一緒に出るってのはどう? 高梁さんはボーカルだけをやってさ。もちろんエレキギターを弾いてくれるともっと嬉しいけど」
「この学校にバンド友達とかいないから、アコギ弾ける人とか知らないんですよね。先生は誰か知ってる?」
なぜ彼女は生徒会長には敬語を使うのに、私にはタメ口なのだろうか。
ずっと思っていた疑問を口にしたくなったが、話が脱線しかねないので言葉を飲み込んだ。
「知らんな」
「先生陣にいない?」
「いない……ことはないな」
まさしく私自身が該当する。自分の名前を出すと厄介な方向に話が進みそうだった。否定したかったが、生徒に嘘をつくことができず、曖昧な回答になってしまう。
「え、誰?」
アコギ弾いている人ってかっこいいよね――大学生時代に一目惚れした女の子と高梁が重なって見えてしまい、急に小っ恥ずかしくなってしまった。
視線を逸らしながら答える。
「一応、私はアコギ経験がある」
「え! 小池っちギター弾けるの!?」
「多少は。だが、ほら、ステージは生徒のものだから、教師が出しゃばるのは良く――」
「いや、むしろいつもクールな先生が出たらギャップでめっちゃ盛り上がりますって!」
食い気味に生徒会長が食いついてくると、なぜか高梁も一緒についてきた。
「全校生徒ギャップ萌えだよギャップ萌え!」
「萌えられても困るのだが」
「二人で最高のステージ作りましょうよ!」
「ちょっと待て! 落ち着け!」
アコギ経験があることを打ち明けたところで、せいぜいちょっと話が盛り上がるだけだと思っていた。なのに、話は想像の斜め上に向かってしまっている。
「スケジュールに余裕ないんじゃなかったのか高梁」
「ないけど、こんな面白そうなステージのためなら全力で頑張るに決まってんじゃん!」
その言葉を聞いて、私は自分の誤算に気がついた。
高梁は自分の損得よりも面白さを優先にする性格だった、と。
「そこに全力出す前に勉強に全力を――」
「あーあー聞こえない聞こえなーいあーーーー」
ボーカリストの全力の声量で私の声を遮ってきた。彼女はいつも『全力』の使い道がおかしい。
「あのなあ」
高梁も生徒会長もキラキラした目で見つめてきていた。
その瞳には、私の運命が映っている。
これは断れないやつだ、と。
……まじで?