ドレスは捨てられた
マリーカに懸念を聞いてもらって、少しはすっきりしたけれど、彼女の言葉にやはりモヤモヤが残る。
「貴女の記憶にないだけで白い結婚だと言い切れるの?お医者さまに診てもらった方が良いのではないかしら」
「その結果、子どもを産めない身体ですって診断されたらどうするのよ」
「んーそうねぇ、いっその事離縁してしまったら?だってリアーナは結婚生活の記憶がないのでしょう?まっさらな身体なら、再婚もありよ」
ともかくアラン様と話し合ってみたら?まずは記憶を取り戻すことね、とマリーカに慰められたけれど、
その日は食欲もなく夕食も断ってベッドに伏せていたら、アラン様が部屋にやってきた。
アラン様は、マリーカに何か言われたのかと大層気にかけていたけれど、話す様な事は何もなくて会話に困ってしました。
「あの、アラン様。わたしが転倒した時の様子をお尋ねしたいのですけれど」
「リアーナは階段の上で気を失ったんだよ。それでそのまま落ちてしまったんだ。嫌な事は早く忘れるに限る。これから先は幸せになる事だけを考えよう」
アラン様は極上の微笑みを残して去っていった。
それにしても、よりによって階段の上で気を失うなんて、馬鹿じゃないの。打ちどころが悪ければあやうく死ぬところだった。貧血もないし寝込んだ事すらないほど健康で、お前の取り柄は頑丈な身体だなあとお父様やお兄様から揶揄われていたわたしが、気を失う?
何か引っかかる。
わたしは倒れた日、アラン様とお揃いの淡いクリームイエローのドレスを着ていた。コニーは、そのドレスに広がったワインの染みがまるで血のようで、落とすの大変だったと言った。
ところでわたしはワインは飲めない。飲むと必ず発疹し皮膚が痒くなるので飲まないように気をつけている。怖いので他のお酒ももちろん控えている。だからあの夜会の日、ワイングラスを持って倒れたというのが、今から考えるとどうにも腑に落ちない。
そもそも飲めないのだから、自分の意思で手に取るはずがない。万が一、断りきれずに手渡されても事情を話してお断りするだろう。
という事は、自ら進んで口にしたとは考え難い。どうしても断る事が出来ず受け取って、無理やり飲まさせられた?そうだとしたら誰に、一体何故?
マリーカを始めとする友人達とは、わたしが嫉妬に狂って疎遠になっていたので、友人は側にいなかった。アラン様はわたしが転落した後に慌ててやって来たと聞く。つまりその場にはわたし一人だったのか、或いは謎の第三者が存在したのかは不明だ。夜会で周りに人がいない状況って?
「貧血ではなくて気を失うほどの事って何なのかしら?ワインに眠り薬でも仕込まれていたとか、まさかね」
口に出すと、恐ろしい事にそれこそが真実なのではないかという気がしてきた。
まずはコニーに確認しなくては。転落した時に着ていたドレスはどうなったのか、そしてワインの染みについても尋ねてみよう。
*
「え!処分してしまったの?」
わたしの話し相手はコニーではなく家令のガイウスだ。フランソワ伯爵家には先代から勤めているベテランさん、穏やかで優しい人のようで、記憶のないわたしをきちんと奥様と扱って大切ににしてくれている。
「はい。縁起が悪い、倒れた奥様に肝を冷やしたからもう2度とこのドレスを見たくないと、旦那様が仰られました」
「あ、そうなの。染み抜きをしてから処分したのね」
「さようでございます。早々に対処いたしましたので、ワインの跡は残ってはおりませんが、旦那様は目にしたくないご様子でした。奥様にとっては尚更でございましょう」
ガイウスは鎮痛な面持ちで真面目に答えてくれた。確かに記憶を取り戻した時、ドレスを見て恐怖が蘇る可能性はある。だけどわたし、全部忘れちゃってるから今のところ問題はないのだ。
「それにしても変な話ね。ワインは嗜まないのに、どうしてドレスに染みが残っていたのかしら」
「それは私にはわかりかねますが、断り切れないお相手から渡されたのかもしれませんね」
「貴方もそう思う?そうとしか考えられないわよね」
わたしは礼を述べると、またもやマリーカを呼び出す事にした。こちらから出向きたいのだけれど、アラン様の許可が出ないのである。アラン様にしたら、妻がまた倒れたなんて事になると醜聞ですからね、お気持ちはわかりますわ。
幸い、マリーカは2日後に来てくれると言う。ついでに他の友人にも声を掛けてくれるらしい。なんだか少し進展しそうでわたしはワクワクした。被害者はわたしだけれど、謎を紐解くようで心が踊る。
「リアーナ様、こんな事言いたくはないのですけれど」
「なあに、コニー。わたしが貴女の話を聞いて叱責した事なんてある?寧ろいつも怒られてるのは、わたしの方じゃない?」
「マリーカ・オズワルド子爵夫人とのお付き合いはお考え直していただけませんでしょうか」
「どうして?何を言うかと思ったら。今の記憶喪失のわたしには彼女が頼みの綱なのよ」
「真面目に申し上げております。お倒れになる前は絶縁状態でしたし、あの方が時折見せる目つきが、わたくしは不安でございます。底知れない闇のようなものを感じるのでございます」
「闇って……そんなもの誰もが胸に秘めているのではなくて?」
「いえ、リアーナ様に限ってはその様なものはございません。貴女様はつねに能天気で明るく、生命の危機に陥っていたにも関わらず、そんな事すっかり忘れたかの様に振る舞ってらっしゃる、それはまあ図太い神経の持ち主でいらっしゃいますから」
「能天気って、コニー酷いわよ。覚えていないだけなのよ」
「とにかくリアーナ様に長くお仕えしているこのコニーの言葉を信じてくださいまし。オズワルド子爵夫人は何か企んでいる気がして仕方ないのです」
「考えすぎよ。確かにマリーカって不思議な雰囲気の人だけど、今回は随分と親身になって色々と教えてくれるし相談にのってくれているわ。
わたしね、マリーカの言うように離縁した方がいいのかもしれないと思っているの。結婚相手の事を忘れているなんて、旦那様からしたら屈辱だと思うの。アラン様は口にはしないけれどね。
わたし達子どももいないし、これは別れるべきなのではないかと思うの」
わたしが考えていた事をコニーに告げると、いきなり扉が開いてガイウスが飛び込んできた。
「奥様!離縁はいけません、どうか考え直してください。旦那様を見捨てないでくださいませ!」
え、聞いていたの?びっくりするわ。あら、侍女長までいる。
「コニー、これはどういうつもりかしら?」
「奥様、コニーは悪くございません。ワインの染みを気にしておられたと聞いて、私共は居ても立っても居られなくなりまして、コニーに頼んで扉を薄く開けてもらい待機していたのです!」
侍女長は泣きそうな顔である。一体全体ワインの染みが何だと言うのだろうか。想像したように眠り薬が含まれていたとでも?
「何故そのような事を?」
「ドレスに染み込んだ赤ワインから……」
「やめなさい、奥様に不安を与えてどうする。とにかく奥様、どうか離縁などと仰らないでください。旦那様は奥様をそれは大切に思ってらっしゃいます。
今、奥様がこの家を出ていかれたら、旦那様はどうなってしまうのか……」
そんなに大事なの?確かに心配はされているのは身に染みてわかるけれど、アラン様からは燃えるような強い思いは感じられない。それなのに、周りの人たちは、わたしは溺愛されていると言う。実際のところ、わたしたちは一体どんな夫婦関係だったのだろうか。
言葉に詰まって4人で顔を見合わせていたところに、別の侍女が駆け込んできた。
「走るのではありません!」
我に返った侍女長に注意を受けるも、彼女は悲壮な顔をしている。
「も、申し訳ございません。フ、フローレンス様がいらっしゃって、奥様に合わせろと。お止めしたのですが無視されて」
フローレンス様、誰だろう?
お読みいただきありがとうございます。
家令 ガイウス
侍女長 名前はまだない
リアーナの侍女 コニー
そして謎のフローレンス
8/30 語尾など微修正




