自宅
「よし、ちゃんと二人とも時間通りに来たな」
真司はまるで引率の先生のようだった。手には瓶の首がはみ出した小さな紙袋を持っている。
「はーい!」
カオル君は体に不釣り合いな大きさのリュックサックを背負っていた。明らかに後ろに重心が偏っている。転がると亀のように立てなくなるかもしれない。
彼のリュックの中身は皆目見当もつかなかったけれど、真司が持つ紙袋に入っている瓶はウイスキーなのかもしれない。琥珀色の液体が歩みに合わせて波打つのが少しみえる。
「割りもの買いたいからどこかでコンビニに寄ろう」
「わかった。マンションの一階がファミマだから、そこに行こう。何か食べ物も買おう」
あれから何度かファミリーマートで勤務中の春山さんと会ったけれど、彼女が出勤しているのは今よりも遅い時間であった。
コンビニのシフトを完璧に把握しているわけではない。ただの予想ではある。
今日も彼女に会いたいと思う一方で、彼女の存在は真司達には知られずに、そっと僕の心にだけ留めておきたいとも思っていた。
僕達は傘をさしながらバス通りを歩いていく。先頭は僕で次に真司、少し離れてカオル君が後に続いている。
後ろのカオル君にふと目をやると、首を左右に振りながらついてきている。今日もカオル君は犬のようであった。
傘を差しながら歩くにはバス通りの歩道は狭すぎる。人とすれ違う時に傘を傾けるので、いつもよりも歩くスピードが遅くなってしまう。真司がイライラした様子で背中に声を掛けてくる。
「徒歩七分じゃないのか? もう十分は歩いてるんじゃないか?」
「雨の日は仕方ないよ。歩道通りづらいからさ。それに晴れてても僕が歩くと十分ぐらいかかるよ」
僕の住む七階建てのマンションまで、不動産屋は綱島駅から徒歩七分だと胸を張って答えていた。でも僕の足では十分がいいところだ。
でも、駅からバス通りをひたすら真っ直ぐ歩いて行けばいいのは楽だった。すぐに道を覚えることができる点と、一階にファミリーマートが入っている点は、母と一緒に物件探しへと来た際には魅力的に感じた。
赤信号で止まった。横断歩道は五メートルほどしかなく、車は来ていないようだった。僕は首を左右に振り、歩道を渡ろうとする。
「おい」後ろから真司の声がした。僕は振り向く。
「目の前見てみろよ」
目の前には黄色い帽子を被った、小学校低学年ほどの少年が信号待ちをしていた。深く帽子を被っており、その表情はよく見えない。
「別に急いでないんだから、待とうや」
さっきはまだ着かないのか、と言っていたじゃないか。僕は少し眉根を寄せて、信号が青に変わるまで待った。
横断歩道を渡り少年とすれ違うと、僕は真司の方を振り向いた。
「こういうときは赤でも渡ったりしない?」
「いつもは渡るよ。でもその姿を少年には見せられないだろ」
真司の声はいつもよりも落ち着いてあるように感じた。視界の隅で捉えたカオル君の口元は、少し緩んでいるように見える。僕は前を向きまた歩き出した。
ようやくファミリーマートについた僕達が自動ドアを通ると、いつもの抑揚のない声が響く。首を振り辺りを見渡してみても、彼女の姿は見えない。
良かったような、残念なような。
いや、やっぱり残念が勝る。
カゴを持つと、真司とカオル君が適当に商品を入れてきた。真司は飲み物、カオル君は食べ物担当だ。
カオル君はお菓子や惣菜の他にストッキングやペットフードなどをカゴに放り込んでくる。それを何度も戻しに行かなければならなかったけれど、無邪気に遊んでいるような彼を見ると怒ることができない。
来店が被り、レジには僕達の前にも客が並んでいた。
「俺がこのまま並んで買って部屋に持ってくか? 二階だったよな?」
「いや、たぶんすぐ進むよ」
いつもの南米系女性は手際が良い。すぐに自分の番が来るだろう。すると店の奥からひとり見慣れない店員がするすると出てきて、横のレジを開いた。
「お待ちのお客様こちらのレジどうぞー」
明るめな栗色で、少し重いマッシュルームカット。この女性は初めて見る店員だ。僕達は新しく開いたレジへと向かうことにした。
彼女は俯いてバーコードを通していた。その手つきは慣れており、入ったばかりだとは思えない。僕は顔を上げチラリと顔を覗き見ると、どうも春山さんに似ていた。彼女は黒のロングヘアーだったはずだ。髪型を変えたのか、似ているだけなのか。
気になって名札に視線をずらすと、確かにそこには春山と書いてあった。まだ姉妹の可能性もあるか。動揺を悟られることがないように支払いを終え、お釣りを募金箱に入れた。
「ありがとうございます」
彼女の眉尻が下がるのを見て、やはりあの春山さんであることを確信した。胸の内側をこちょこちょとくすぐられているようだった。そわそわとして、汗がどっと湧き出てきた。
出口に向かう途中、真司が名残惜しそうにレジの方を何度も振り返る。
「あの店員さんめちゃくちゃ可愛くないか? スタイル良いし、モデルみたいじゃん」彼は耳元で乱暴に囁く。
「そう? よく見てなかった。それより、後で割り勘ね」
僕は出口に向かいながら、あくまでも平然を装う。すぐにでも振り返り髪型の変わった彼女を目に焼き付けておきたい。
けれども、真司達のいる手前頑なに後ろを見ないようにする他なかった。
「俊太郎募金とかに興味あるんだな。今までおまえが募金したところ見たことなかったから、ちょっと意外だったよ」
真司の話を聞き流しながらカオル君を見ると、彼は僕達の話に興味がないのか、入り口横のコーヒーマシンを珍しそうに眺めていた。
「あそこでコーヒーも売っていて缶コーヒーも売っているなんて、どのコーヒーを売りたいのかわからないね」
二人を連れて静かに鉄骨階段を上がっていると、カオル君がボソッと囁いた。
「コンビニは色々あるのが良いんだろ。拘るのは専門店におまかせだ」
「みんな味の違いなんてわかるのかな。パッケージで判断してる人が多いんじゃないのかな?」
「ジャケ買いって言葉があるから良いんじゃないのか?」
「パッケージじゃなくて中身のコーヒーが欲しいんだよね?だったら中身で考えるべきだよ」
真司はそれ以上何も返さず、押し黙っていた。
僕は二人の話を聞いていて、あの外国人女性はもしかしたら日本生まれ日本育ちなのかもしれない、と何となく思った。
その日はそれからが大変だった。カオル君のリュックの中身はまさかの家庭用トランポリン。今は折り畳み式で持ち運び可能なものが売られているらしい。持ち運べるとは言っても、トランポリンは六畳の部屋に持ち運ぶものではないはずだ。
僕の部屋にはモノが少ない。脚付きのマットレスベッドと小さな丸いローテーブル、横置きにした三段のカラーボックスしか部屋には置いていない。なので六畳だけれどもそこまで狭くは感じないはずだ。
でもトランポリンを置くためにモノを少なくしているわけではない。部屋はコンビニの真上だから苦情は出ないだろうけれど、天井を叩こうとしているカオル君を抑えるのが大変だった。
一方真司は、ひたすらウイスキーのコーラ割りを飲んでいた。このウイスキーはジャックダニエルというアメリカのウイスキーのようで、ウイスキーはこの銘柄しか飲まないらしい。
本当かわからないが、コーラで割っても他のウイスキーとは味が全く違うと言っている。男は黙ってバーボンだ、と彼は言っていた。後で調べたところジャックダニエルはテネシーウイスキーでありバーボンとは違うようだった。
二人の相手をしていてお腹が空いた僕は、カップラーメンのお湯を沸かすためにキッチンへと向かった。
シンクはすでにファミマで買った惣菜のゴミで溢れかえっている。二畳のキッチンには火口が一口しかない。
でも男子学生の一人暮らしでは一口あれば十分であったし、五万円という家賃でバス、トイレが別なんて築年数が古くてもなかなか見つからない物件だ。
部屋で真司がただしっぽりと飲んでいるだけならまだ良いけれど、今日の彼は完全に酒に呑まれてしまっていた。さっきから何度も同じ話を繰り返している。
「だから俺はサークルの先輩を殴ったわけ。酒に酔わせて新入生の女の子ヤっちまおうなんて男のすることじゃないだろ。そんなの犯罪だよ犯罪」
さすがにこの話には聞き飽きていた。彼はこの話を今までに三回はしている。
「それで、その新入生の女の子を助けることはできたの?」
カオル君は何回目であってもちゃんと話を聞き、同じ返しをしてあげている。偉いな、と思いつつ疲れそうだな、と彼が心配になる。
彼はさっきあれだけ飛び跳ねて遊んでいたトランポリンの上に腰掛けている。
「一応な。でも最近その先輩とその女が手を繋いで一緒にいるのを見かけてさ。もしかしたら酔ったフリして抱かれようとしていただけかもな。俺は彼女の邪魔しただけだったな」
彼はガハハと大口を開けて笑う。
カオル君は立ち上がり真司に近づくと、
「真司君は間違ってないよー。すごいよー」
と何度も彼の頭を撫でた。
「真司はすごいよ。先輩のことを止められるのもすごいし、そうやってもしかしたら自分のしたことが余計なお世話だったかもって思えるんだから」
僕は本当にそう思っていた。
「自分のことを強引に正当化する人は世の中に多いからさ。見た目と違って真面目だよ、真司は」
「最後の言葉は余計だろー!」
真司は太い腕で僕の頭を締めてきた。
ごめんごめん、と僕が言うとカオル君は寝そべりながらプロレスのレフリーのように床を叩き、真司の勝ちを告げる。
僕達は笑った。
周りのことなんて考えず、変に気も使わない。
今この瞬間を、僕達はただ楽しんでいた。
今日という日は、初めて僕の部屋が笑顔で溢れた記念日となった。
この宴は思いの外長く続き、二人は終電で家に帰っていった。酩酊している真司が無事家まで辿り着けるか心配だったけれど、カオル君が日吉駅までは一緒だから大丈夫だろうと思い込むことにした。
二人を駅まで見送り家に戻ると、僕はそのままベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。初めて人を家に呼ぶ、という慣れないことをしたせいか、僕の体は重かった。
仰向けに態勢を変え天井を見上げる。髪を切った春山さんをなんとか頭に浮かべようとしたけれど、上手くいかなかった。
あのとき真司の視線なんか気にせずにじっくりと見ておけば良かった。
瞼が重くなってきた。右手を額に乗せ、腕の場所を変える。今日食べたファミマの惣菜は、どれもが食べ慣れているものであったけれど、いつもよりも美味しく感じた。
誰かと食べるだけでこんなにも味が変わるものなのか。いや、誰と一緒でもいいわけではない。彼らと一緒だからこそ、美味しく感じたはずだ。
そういえば、僕にとってのお袋の味はなんだろう、と頭に思い浮かんだけれど、瞼の重さに耐えられそうにない。もう何も考えずに眠ることにした。