雨
梅雨に入ると、しとしとと雨が降る静かな日が増えてくる。雨が降るとさすがに中庭にいることはできず、僕達は自然と食堂にいるようになった。
食堂は広く開放的な空間だ。入り口で購入した食券をフードコートのように並んだ飲食店に持って行く仕組みである。それらに囲まれるようにして六人がけのテーブルが三列に十個ぐらいずつ置かれている。
食堂の他にも大学には部室棟というものがある。体育会や大学公認サークルには部室が割り当てられ、そこに所属している学生は自然と部室棟が彼らの居場所となる。
僕は食堂にひとりでいるのには抵抗があった。
周囲の喧騒に包まれるなか、自分だけの世界を作ることができなかった。周囲の声は自分のことを嘲笑い、貶し、蔑めているような感覚になる。自意識過剰と言われればその通りなんだけれど、その感覚はいつも僕を不安にさせる。
けれども、カオル君と真司も空いている時間は食堂にいるようになった。そのため僕がひとりでいることはほとんどなく、僕達の世界にいることができた。真司は見知らぬ学生と食堂にいることもあったけれど、彼は僕達を見つけると必ずこちらに席を移してきた。
一度そのことについて訊いてみると、あいつらは女と金のことしか頭にない、とぼやいていた。
確かに僕達はあまり異性やお金の話はしない。真司がロマンを語るか、カオル君が蘊蓄や謎めいた話を語るか、だった。それに異性の話をしたいと思っても、僕には何のネタもないのだからどうしようもない。
僕は今まで恋愛というものをしたことがなかった。ひとりの女性を好きになったことも、好きになられたこともない。もちろん健康的な男子ではあったので、同級生のことを可愛いだとか綺麗だとか、グラビアアイドルを見るような性的な目で見たことは何度もあるけれど、「好き」という感情は今までに持ったことがなかった。大学生になって初恋もしていないなんて、やはり健康的な男子だとは大声で言えないのかもしれない。
食堂で一緒に過ごす真司とカオル君を見ていると、僕の心配は取り越し苦労だった、ということがわかる。彼らはずいぶんと馬が合っているように思えた。カオル君は真司の友人にはいないタイプなのか、真司はカオル君の話をいつも興味深そうに聞いている。もちろん、カオル君のような人には僕も会ったことはないのだけれど。
「真司君は雨が好き?」
カオル君は食堂の窓から外を見下ろしながら訊く。
僕も釣られて見下ろすと、叩きつけるように雨が降る中庭で、銀玉が静かに佇んでいる。くすんでおり、滴のついた銀玉は灰色がかっているように見えた。
「足下が濡れるから嫌いだな。傘を持つのも面倒だしな。風も強いとより最悪だな」
「俊太郎君は?」
「僕も好きではないかな。靴下が濡れちゃうと何もかもやる気がしなくなるし」
そうか、というとカオル君は窓の外から視線を戻し、少し微笑みながら僕達の顔を交互に見る。
「僕は好きだね。雨が降ると世界中が静かになるからさ。一人部屋にいると聞こえてくるのは雨の音だけ、外野からの騒音は何もない。とても贅沢な時間だと思うよ」
カオル君は僕達とは違う面から物事を見ている。僕は彼のこういう考え方が好きだった。人とは違う、優劣とかではなく、異なる視点を彼は持っている。
「雨の日でも救急車はサイレンを鳴らすぞ? 雨の中だとあんなに大きな音が気にならないのか?」
真司の口角がニヤリと上がる。
「……それはなし!」
カオル君は顔をくしゃくしゃにして笑った。真司もカオル君に釣られ、大きな口を開けて乾いた笑い声を出していた。僕は彼の笑い声が好きになっていた。どんな深刻なことであっても、大丈夫だろ、と吹き飛ばしてくれるような、無敵感があった。
「今日さ、俊太郎の家行かないか?」
「なんだよ急に」
僕は持っていた缶コーヒーを落としそうになるが、上手く持ち直した。
「最近雨だから家で勉強してばかりでさ。何か気分転換したいなって」
真司は家でも勉強しているようだった。会計士になるという夢は口だけではなくどうやら本気らしい。彼の風貌と性格のギャップを、まだ埋めきれていなかった。
「賛成!」カオル君は右手を挙げる。
「別にいいけど。テレビもないし、遊ぶものは何もないよ」
「何もなくても大丈夫だろ。俺家にある酒持っていくから、駅で待ち合わせしようぜ。綱島駅だっけ? てかなんで俊太郎綱島に住んでるの? 日吉の方が楽でいいじゃん」
大学のある日吉駅ではなく、わざわざ隣駅の綱島駅を選んだのには理由があった。しかしこれは二人には言いたくなかった。
日吉駅に家があると、大学の休み時間などのちょっとした空き時間に友人達が押しかけ、皆の溜まり場になってしまう可能性があるからだ。これを言ってきたのは母だった。
これを聞いたとき、僕のことを全然理解してないんだな、と思った。
高校生の頃一度でも家に友達を招いたことがあっただろうか。実際僕には家に呼ぶような友人は今までにいなかった。
母は自分の物差ししか持っていない人だった。あの時母の言葉を無視して大学の近くに住んでおけば通学が楽だったのに、と思う。けど周りに同じ大学の学生ばかり住んでいる環境は、それはそれで嫌な気がしてしまう。
「綱島に良い物件があったからさ」
「それはどんな部屋か楽しみだな」
彼は立ち上がり、綱島駅に五時な、と言い残し食堂を後にした。黒いTシャツを着た真司の背中は大きく、雨の食堂でも人一倍存在感を放っている。
「僕も家から何か持っていくよ。楽しみにしててね」
カオル君はフラフラしながら食堂を後にした。不安定だがその足取りは軽いように見える。
僕は二人を見送った後、残りのコーヒーを一気に飲み干し、もう一度窓から中庭を見下ろした。雨は弱まりさらさらとしていた。
銀玉についた滴は一瞬の晴れ間を捉え、輝きを取り戻しているようにみえる。