ブルドーザー
心地よい風が吹き、僕の黒い前髪を揺らす。五月の半ばにもなると暖かな日が増えてくる。新緑の香りを連れてくるこの時期の風が、僕は好きだった。
大学の中庭にあるベンチに座り、ひとり風を感じていた。
両手を思い切り上に挙げ伸びをする。だんだん後ろへと手の方向を変え胸を張ると、ひやりとした固いものに手が触れた。
後ろには学生達が「銀玉」と呼ぶ、銀色をした球体のオブジェがある。確か有名なデザイナーがデザインしたものだと話していた教授がいたけれど、そのデザイナーの名前は全く思い出せない。
その何者かがデザインした銀色のオブジェを守るように、背もたれのない二名がけの木製ベンチが一定の間隔を空けて一周している。
簿記の授業中にカオル君から話しかけられて、もう一週間が経つ。彼はどの授業であっても僕を見つけると、黙って猫のように横に座りにくる。
僕達はすでに何度も一緒に授業を受けていた。被っている授業は元々多かったのかもしれない。
一緒に授業を受けているといっても、授業中に僕らはほとんど話をしない。言葉を交わすのは、カオル君が描く下手くそな絵を僕が笑うときぐらいだった。一度、彼がまるで仕返しのようにきのこを描いて、俊太郎君の頭、と言ったときもあった。
彼とは中庭で会ったときにも挨拶を交わす。おはよう。元気?そんな短い言葉だけだけれど。
彼と中庭で会った何度目かのときに、
「何でいつもそんなに中庭にいるの?」と訊かれた。
「ここにしか僕の居場所がないからだよ」
本音だった。
彼は了解、とだけ答えると八重歯を見せて横に腰掛けた。それからは中庭にいてもふらふらと寄ってくるようになった。どうやら彼もひとりで行動しているようだ。
友達といえるほどではないけれど、大学で一緒に過ごす人間が初めて僕にできたのかもしれない。
けれども僕はまだ名前ぐらいしか彼のことを知らなかった。お互いの連絡先も知らない。彼は自分の話をしてこないし、僕のことも特に訊いてこなかった。
けれども、僕は彼とのこの距離感を案外気に入っていた。人同士の不快でない距離感というのは人によって異なる。自分が許せる距離よりも近づいてきた人は、異性だろうが歳が離れていようが少しギョッとする。
心の距離感も同様だ。僕は自分を中心として引いた円の中にすっと入ってくる人が苦手だ。この円の半径が人よりも大きいのか、友人と呼べる人間が今までにできたことがなかった。
歩み寄ってきた人も今までにはいたのだろうけれども、急に入ってこられるとつい弾き出してしまう。一度その円から弾き出されると、もう入ってこようとはしない。近寄ってもこなくなる。
最悪、僕を攻撃してくる。
じっくりと時間をかけて距離を縮めてくる人もいなかった。打ち解けるのに時間がかかると思われると、すぐに見向きもされなくなった。時間をかけてまで僕と親しくなろうとする人間は、今までいなかった。
カオル君は他の人とは違うようだった。彼は僕のひいた円の周りをふわふわと、海月のように漂っていた。無理に入って来ようとはせずに、離れても行かない。平面的ではなく立体的に、彼は僕の周りをゆらゆらと漂っている。
なんだか今日は喉が乾いていた。中庭の自動販売機で缶コーヒーを購入してベンチに戻ると、一気に飲み切った。喉を潤したコーヒーは体の奥までひんやりと浸透していく。大きく息を吐くと芳ばしく甘い香りが辺りに漂った。
ふと落としていた視線を前に向けると、目線の先では自動販売機全体が点滅を始めていた。前には大きな男性がひとり立っている。
ルーレットが当たったのだろうか。
当たった人を見るのは初めてだ。男性はかがみ込んで缶を取り出した。片手で二本の缶を掴むと、顔の前まで持ち上げる。どこか芝居がかっている。
急にこちらを向いた男性の視線と空中でぶつかった。僕に向かってくる。
男性は片手で二本の缶を持ち、黒い短髪は整髪料でしっかりと立ち上げられており、肌は浅黒く、スポーツ選手のようなガッチリとした体つきだ。黒い半袖Tシャツは肌にピッタリとくっつき、袖から伸びる腕には筋肉が盛り上がっている。
小さなセカンドバックと共に手元に持つ「朝専用」は、心なしか僕が持つよりも居心地が悪いように見える。この大きさのセカンドバックに教科書やノートは果たして入っているのだろうか。
「一本飲みませんか?」
男性は僕に缶コーヒーを一本差し出す。
「えっ、何でですか?」
彼の口調は非常に丁寧だったけれど、突然のことに驚きを隠せなかった。
「俺と同じやつ飲んでたんで。俺二本も飲めないんで」
「僕も二本はいりません」
そりゃそうだ、と軽く笑いながらも男性は強引にコーヒーを渡す。受け取ろうと仕方なく手を差し出す。熱い。手から落ちた缶コーヒーはアスファルトにぶつかり鈍い音が響いた。
「すみません」
すぐに地面から拾った。
「微妙な季節ですもんね。ホットだとは思いませんよね。すみません、一言添えれば良かった」
彼は微笑みながら僕の横に腰掛けた。彼が座るとベンチは軽く揺れ、悲鳴のような声を上げる。
他にもベンチは空いているのに、なんで横に座ってくるんだろう。彼と離れるように反対側へと少し座り直し、横目で見ながら彼の言葉を待つことにした。
もう心地よい風は止んでいた。風が連れてくる新緑の香りよりも、横からの整髪料の香りを強く感じる。
「何年生ですか?」
彼は缶コーヒーを開けると、正面を向いたまま口の中に垂らすようにゆっくりと傾けた。朝専用の開く音は、僕のときよりも陽気に感じた。
僕も釣られるように今日二本目の缶コーヒーに口をつける。芳ばしい液体がゆっくりと胸の内側を温める。
「僕は一年生ですけど……」
「そうか、俺も一年なんだよ。じゃあ敬語はやめよう」
僕とは対照的に、彼の口調はハッキリとしていた。男性は聞いてもいないのに真司と名乗った。どうやら同じ商学部らしい。次の授業まで時間が空いているけれど、友人達は皆授業に出ていると言う。
「まだ次の授業まで時間あるし、食堂行かない? 今日昼飯食べそびれちゃってさ。食堂の唐揚げ定食好きなんだよ」
真司は立ち上がり、両手を高く挙げて伸びをした。彼の襟足は綺麗に刈り上げられており、首は後頭部と差がないぐらいの太さがある。肩甲骨の辺りをみると、Tシャツの上からでも筋肉が浮かび上がっているのがわかる。
やめとく、と僕が返すと彼は、
「じゃあひよ裏のマック行こうぜ。この時間なら学生も少ないだろ」と返してくる。
「ごめん。僕はここにいるよ」
僕はベンチから立ち上がり、彼の方に目を向けず、自動販売機に向けて大きく一歩を踏み出した。
飲み終えた空き缶を自動販売機の横にある網目状のゴミ箱へと投げ入れると、乾いた音が響く。その音が合図であるかのように後ろを振り返ると、彼の大きな背中がゆっくりと校舎へと入って行くところだった。
僕はベンチに戻ると、両手を後ろについて胸を伸ばすように天を仰いだ。
また人を弾き出してしまった。
彼に悪いことしたかな。でも僕と二人で食堂に行っても退屈な思いをするだけだ。これで良かったんじゃないか。とも思えてくる。
自分と一緒にいる相手が見るからに退屈な様子だと、あまりいい気分はしない。同じクラスの何人かには大学が始まって話かけられたけれど、皆僕と話しているときは、味の無いガムを噛み続けているような顔をしていた。
いつ味が出てくるのか、期待と失望が入り混じった表情だ。だんだんと、僕に話しかける人間は減って行った。
何となくズボンのポケットからスマホを取り出し、ネットニュースを開いた。今日も政治家達による足の引っ張り合いや芸能人のSNSへの投稿情報が載っていた。
誰々がこう投稿してこういう感想が相次いだ、というニュースは必要なのだろうか。芸能人の不倫などは彼らの家族間の話であって、わざわざ全国に知らせなくてもいいんじゃないのか。
彼らの中身や事情などおかまいなしで、明確な言葉にだけ飛びつき、世間は判断し、批判する。
それに正直不倫や浮気なんて世に溢れかえっているのだから、取り上げるほどの話でもない。それよりももっとこう、世間に知らせるべきニュースがあるんじゃないだろうか。
それが何であるかは僕には思いつかないけど。
スマホをぼんやりと眺めていると、スマホ越しに大きな塊が近づいてくるのが見えた。
その大きな体は小さなセカンドバックを小脇に抱え、堂々とした様子でこちらに向かってくる。手には朝専用の代わりに茶色いビニール袋をぶら下げていた。
「売店で弁当買ってきた。初めて大学で弁当買ったよ」
真司は僕の横に腰掛けると、パキッと小気味良い音を鳴らし、割り箸を器用にバランスよく引き離した。