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ライブ

「明日香のバンドのライブ行かない?」


 早紀さんから電話があったのは、九月も終わりに近づき風が冷たくなってきた頃だった。あの河川敷での一件以来、明日香さんから連絡は来ていなかった。僕から連絡をすることもできたけれど、しなかった。いや、僕にはできなかった。何に謝ればいいのかも、追いかけられなかった理由も僕にはわからなかった。

 早紀さんは最近明日香さんが僕の話をしたがらないことが気になっていたのだと言う。それもあって僕を誘ってくれたらしい。それに真司は夏休みに遊び過ぎたと思っているのか、最近は勉強に精を出しているようだった。


 僕と彼女は渋谷駅ハチ公口近くのドトールで待ち合わせた。

 ドトールに着きレジカウンターでカプチーノを受け取ると、彼女が奥の方から手を振っているのが目に入った。


「早紀さんお誘いありがとうございます」


「よいよい、気にするな」


「僕ライブハウスなんて行ったことないんで、システムとか全然わからなくて。一緒に入場してくれるの本当に助かります」


 彼女は顔の前で手を振り、微笑みかける。


「そんなことより。明日香とは何かあったの?」

 いきなりだな。


 早紀さんの口調は優しく、悪意のあるニュアンスを感じない。彼女はグラスに入ったストローを手にとり、カラカラと音を立てて氷を回す。


「ちょっと地雷を踏んでしまったようです」僕は苦笑すると、河川敷での出来事を早紀さんに話すことにした。


「……それから会ってないとは言っても、もちろん恋人ではないですし、別に普通のことですけどね」


 早紀さんは僕の言葉を噛みしめるように、何も言わずに話を聞いていた。彼女のグラスの氷は溶け、ほとんど水のようになっていた。

 彼女がストローに口をつけると、ストローからは、何も吸い込むものがない、という音がする。彼女はゆっくりと話し始めた。


「私は俊太郎君脈アリだと思うけどな。明日香はサバサバしてそうだけど、彼氏とかはあまりはっきりさせないからね。本人が付き合ってるつもりになったりはあるし、その逆も然りなんだよね」


 なかなか難しい人ですね、と僕は手元のカプチーノに口をつける。唇にふわりとクリーミーな泡が触れ、シナモンの香りが鼻に抜ける。


「僕達は男女の関係というよりは姉弟の関係に近いですけどね。明日香さんが僕を恋愛対象としてるようには思えないですよ」


 この言葉には早紀さんはただ笑顔を返しただけだった。


「あとね、私から言って良いかわからないけど、彼女は音大に行きたくなかったわけじゃないのよ」


「えっ?」僕は少し身を乗り出す。


「小学生の頃に諦めたのよ」


「小学生でもう諦めたりするものなんですか?」


「音大は才能の塊みたいな人が集まるからね。まず入るまでが大変。入れたとしても、お目当ての先生から指導を受けられるとは限らない。しかも明日香はずっと優秀なお兄さんと比べられてきてるから」


 早紀さんはストローに一度口をつける。ほんの少しの水を吸い上げ、ゆっくりと彼女の喉が上下した。


「小学生の頃にね、ピアノが上手な子しか入れないレッスンに入れなかったんだってさ。ピアノが上手だったお兄さんは二年前に受かっていたレッスンだったんだけどね」


 早紀さんの話し方はとても丁寧で、明日香さんの気持ちになって話をしているように思えた。


「試験の前にたくさん練習して、課題曲を自分なりに完璧に弾けるようにしたんだけど、落ちちゃったんだって。そんなに落ち込むことじゃないと思っちゃうけど、それは本人にしかわからないことよね。きっと。そのときに自分には音楽の才能がない。音大なんて無理に決まってるって思ったらしいよ」


 小学生の頃に既に自分の道を諦めたというのか。小学生の頃なんて、叶えられるかどうかなんて気にせず、夢があれば大人から褒められるような時期だ。

 そんな小さい頃に、もう挫折を味わっていたのか。


「……僕はとても無神経な発言をしてしまいましたね」


 思わず僕は頭を抱える。何もわかっていない奴がそんなこと言ってきたら、シャクに触るに決まっている。


「それでそんなに怒らなくても、とも私は思うけどね。でもそれがどんなに嫌なことかは、本人にしかわからないからね」


 僕は何も言わずに顎を引く。


「まぁ実際選ばなければどこかの音大には入れると思うんだけどね。倍率も高くないし」


 そうなんですか、と僕は呟くように言うと、膝に置いた手に視線を落とす。


「でも音大であればどこでもいいわけではないし。いくら有名な音大を卒業しても、必ず音楽の道で成功できるわけでもないからね。音大に行けたとしても、その先自分では成功できないと感じたのかもしれない」


 でも、彼女の歌はどうなのだろう。あんなに上手くても、上手いだけでは成功できないのだろうか。

 僕はカプチーノに手を伸ばし口に含んだ。エスプレッソの苦さが口の中に広がる。もうクリーミーさは感じなかった。


「でも彼女は結局音楽の道は諦められなかった。バンドを始めてみたらやっぱり楽しかったんだろうね。でも、明日香はバンドをやっていても、自分の音楽には自信がないのかもしれない。劣等感が残ってしまっているのかもしれない。だから彼女は彼女なりに成功するための武器を今も模索しているの」


「成功って……何なんでしょうね?」


 早紀さんはそれには答えず、小さな声でそろそろ行きましょ、と言うと席を立った。僕は残りのカプチーノを一気に飲み干し、早紀さんの後を追い店を後にした。

 

 ライブハウスは文化村通り沿いにあった。一〇九を左手に見ながら進み、一階にドーナツ屋が入っているビルの地下だった。渋谷には数えられるほどしか来たことがないけれど、この通り沿いの映画館には入ったことがあった。

 ビルの外階段を降りて地下へと向かうと、異様な香りが漂ってきて足が止まる。煙草と香水が雑に混ざり合ったような香り。少し躊躇したけれど、思い切って重厚なドアを開けた。

 すぐに腹の下に重低音が響き、周囲の空気の震えに気がつく。明日香さん達の出番は時間的にまだなはずなので、先に違うバンドが演奏中のようだ。


 ドアを開けると目の前には受付のようなものがあった。早紀さんは髪を緑色に染めたお姉さんに二枚のチケットを見せている。どうぞー、という気のない返事を合図に、早紀さんは僕を手招きして歩き出した。流れるように進む彼女の後に続いて、フロアへと向かった。。

 一○○人強が入るであろうフロアに足を踏み入れると、正面にステージが現れた。今演奏しているバンドは男性四人組だった。いかにもパンクバンドといった風貌で、ボーカルは街で見たら二度見してしまうような赤髪のモヒカンだ。大きな輪っかのリングピアスを耳にぶら下げ、黒いTシャツを着た首元からはタトゥーが覗いている。

 耳を押さえたくなるような轟音でギターはかき鳴らされ、ドラムの低音が床を揺らす。歌詞は英語なのか日本語なのか区別がつかないが、モヒカンさんの声量が凄いことだけは伝わる。


 縮こまっていた耳が一気に解放されていく。

 演奏が終わったようだ。

 フロアからはまばらな拍手が起こった。フロアには五○人近く客がいたが、壁に寄り掛かっていたりお酒を飲んでいる人ばかりだ。客はそのほとんどが男性だった。ステージ上に吊り下げられているグループ名を見る限り、今日のライブを主催しているバンドのようだけれど、あまり盛り上がっているようには見えなかった。

 モヒカンさんは意外にも律儀にステージ上で頭を下げると、次のライブの告知をして片付けを始める。


「次は明日香達だよ」


 僕は固唾を呑む思いだった。自分の知り合いが、こんな人前で演奏するなんて信じられない気持ちであった。これは演奏するのが彼女だからではなく、もし真司やカオル君がここで演奏するとしても僕は同じ気持ちになったと思う。

 モヒカンさん達が裏へ引き上げると、一度ステージは暗転した。


「俊太郎君。前の方行こうよ!」


「ちょっと盛り上がり方がわからないので」彼女は首を傾げていたけれど、僕はひとり後ろに残ることにした。


 早紀さんがいなくなるとすぐに、ベースの重低音がフロアにテンポよく駆け抜ける。その旋律は僕には聞いたことがないものだった。同じフレーズを二度繰り返すとドラムの音が重なっていく。もう一度同じフレーズを繰り返すと、ギターの音色が重なり、明日香さん達が一瞬で目の前に現れた。

 ステージ上はスポットライトで照らされ、明日香さんが中央でスタンドマイクの前に立ち、彼女から一歩下がった両隣に他の二人のメンバーがいる。

 彼女がマイクに向けて歌い出すと、会場は沸いた。フロアにいるほとんどの客は明日香さん達目当てなのかもしれない。モヒカンさん達に対して興味なさそうにしていた客や酒を飲んでいた客もステージ前方に集まり、僕だけが後方にポツンと取り残されていた。

 彼女の歌声はやはり音色だ。

 ギターの音は喧しいし歌詞は英語で意味はわからない。でも彼女の歌はやはり僕を惹きつける。

 彼女の話す声は何度も聞いているけれど、歌声になると別物だ。あんなに刺々しい人なのに、その声質は澄んでいて柔らかい。腹の内側まで響き、空気まで揺れさせる。

 ステージ上で眩い光を浴びながら歌う彼女は、自分とは別の世界にいる人のように感じた。彼女は、僕とは違う。彼女はちゃんと自分の目指す場所がわかっている。その世界にいつづけるために、自分の居場所を見つけようと必死に模索している。

 僕はおのずとステージに歩み寄り、集団の一番後ろに溶け込んでいた。最初の曲が終わると、フロアには大歓声が響く。僕は、彼女の歌をもっと聞いていたかった。

 彼女達の出番が後半に差し掛かったぐらいだろうか。歌の合間から聞こえるヤジが、徐々に僕は気になっていた。


「明日香! そろそろヤらせろよ!」


「歌ってないで脱げよ、ストリップだストリップ!」


 品のない笑い声が響く。彼女達は意にも介さずといった様子で演奏を続け、彼女はヤジのする方へ向けて投げキッスまでしている。僕はなんだか居心地の悪い思いをし始めていた。

 最後の曲の前に、明日香さんがマイクの前で次のライブの予定などを話しはじめた。


「パンツ見せてー」


「その可愛い顔にぶちまけさせてー。ぎゃははは」


 話している最中にもヤジは飛ぶが、彼女は笑顔でかわす。その笑顔は強く少しも揺らがない。けれども、その笑顔と河川敷を歩く彼女の笑顔を重ねると、僕は歪みを感じずにはいられやかった。体中の水分が顔の中心へと集まってきた。

 もう、見ていられなかった。

 早紀さんに一言メールを打つと、ライブハウスを後にすることにした。

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