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英雄

「君はいつもこの席にいるね」


 顔を上げると、そこには見たことがない男性が立っていた。

 本当に大学生なのか、その顔立ちには中学生のようなあどけなさがある。目の上で切り揃えられた前髪や肩まで伸びた亜麻色の髪も、その印象を後押ししているのかもしれない。針金のように華奢な体つきは、朝顔のような薄水色のパーカーを羽織っていてもわかる程だった。


「何か用ですか?」


「用というわけじゃないんだけど、隣座っていい?」


 彼は返事を待たずに、後ろの机に付けられた椅子をパタンと前に倒し、僕の右側の席に腰を下ろした。

 鼻が少し熱を帯びる。

 彼の髪が揺れ、白い薔薇のような香りが辺りに漂う。たまらず手元の缶コーヒーに手を伸ばした。


「そうか。この席からはイチョウ並木が見えるんだね。今の時期イチョウは常盤色だね」


 彼は僕越しに外を眺める。彼の横顔からは長く柔らかそうな睫毛がよく目立つ。この中世的な顔立ちも、彼のあどけなさに拍車をかけているのだろう。

 でも、常盤色なんて普通は言わない。常盤色と言われても、思い浮かばない人のほうが大半ではないだろうか。馴染みのない言い方をする人だな。


「教室広いんだからさ、ひとつ席空けてよ」


「まぁいいじゃん。誰か後から来るわけじゃあないんでしょ?」


 また鼻に熱を感じ、コーヒーに口をつける。


「誰も来ないけどさ」


 二○○人は入るであろう教室で、必修授業をひとりで受けているのは周りを見渡しても僕ぐらいのものだった。

 コミュニケーション能力が多少なりともある人間は、大学に入って一ヶ月も経てば、どこかのコミュニティで友人を作っている。サークル、クラス、必修授業。友人を作ることのできる機会はいくらでもあるはずだった。


 けれども、サークルに所属すらしておらず、クラスの輪にも入れていない僕には、まだどこにも居場所がなかった。


「ほら、早く写さないと次の章に進んじゃうよ」


 彼は簿記の授業中であるにもかかわらず、黒いリュックからスケッチブックを取り出した。

 見当もつけずに開かれたページは真っ白で、まだ何も描かれていない。そこに黒板の内容をつらつらと書き写し始めた。


「罫線なしなんだ」


 僕の言葉は口から漏れた。


「線の上を書いていかなきゃいけないのが嫌なんだよね。もし絵を描きたくなったら邪魔だし」


 彼は子供のように唇を尖らせ、鼻の下に鉛筆を挟む。

 この時代に鉛筆を使っている学生も珍しい。彼は僕の視線に気づいたのか、鉛筆をガリガリと削り出す。

 彼の香りは次第に薔薇から木の香りへと変化する。懐かしい香りだ。鉛筆を削るときに漂う独特な木の香りが、僕は好きだった。


「この鉛筆のカスが剥がれていくのって良いよね。あとこの音がなんとも言えなくてさ」


「それはわかります。でも簿記の授業中に絵を書く必要がありますか?」


「……君名前は?」


 彼は一瞬ムッとした表情をしたかと思うと、何も答えずに質問で返す。精一杯の低い声を出しているようだ。


「僕は松本です」


「下の名前は?」


 俊太郎です、と訝しげに返すと、彼は一度大きく咳払いをした。

 彼の亜麻色の髪は微かに揺れたけれど、鼻に熱さは感じなかった。


「では俊太郎君。確かに僕は授業中に絵を書く必要はないよ。でもね、書きたくなる可能性もあるんだよ」


 彼は止まらずに続ける。まるで演説だ。少し芝居がかっているように感じる。


「しかも、もしかしたらすごく上手くて、その絵は億単位で売れてしまうかもしれない。その億万長者になる可能性を潰す気なのかい?」


 子供みたいな人だな。彼への第一印象だった。

 なんだか話し続けるのが面倒で、ごめん、とだけ返すと、肩を竦めながら彼は笑った。少し見える二本の八重歯のせいもあって、まるで犬が笑っているようだった。


 この時にはまだ彼と友人になるとは思っていなかった。ただ少し話を交わしただけ。周りのみんなと一緒で、すぐに僕の側からはいなくなるだろう。そんなふうにぼんやりと感じていた。


 けれども彼は違った。すぐに僕の体内を満たす、酸素のような存在になっていった。

 それだけでなく彼は、僕を変えてくれたヒーローだった。彼のおかげで、僕は前に進むことができていた。

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