誤解
セミが忙しなく鳴き続け、夏の訪れを感じさせてくれる。涼しい部屋で聞くセミの声には風情を感じるけれど、蒸し暑い中庭で聞くセミの声はまるで僕への嫌がらせのように感じる。
この一週間は長かった。
明日香さんに手紙を渡してからようやく一週間が経つ。連絡をくれないということは、残念ながらそういうことなのだろう。一度しか話したことがない冴えない男に連絡先を渡されても、気持ち悪がられて終わりだ。あの河川敷の夜は夢だったのだろうか。
この一週間は彼女と顔を合わせるのが怖くてファミリーマートに行けなかった。面倒だけれど、少し遠くのスーパーにまで買い物に行った。怪我の功名というべきなのか、ここのスーパーのオムライスが絶品であることを知った。ファミマで弁当を買わないときは迷わずここのオムライスを買おうと心に決めた。
「そろそろコンビニ行ってみろよ。手紙をなくしちゃっただけかもしれないぞ?」
「そうだよ。白ヤギさんが読まずに食べた可能性もあるよね」
二人は僕にファミマへ行ってみろ、と言う。確かに彼女のことは気にせずに開き直ってもいいのではないか、と思えてくる。
「そうだよね。このままじゃファミマの上に住んでいる利点がないよね」
あの物件の魅力がひとつなくなってしまう。俯いていた僕が顔を上げると、カオル君のTシャツの裾が目に入る。
「そういえばカオル君暑くないの?」
真司は半袖Tシャツの袖を捲り上げてタンクトップのようにしているけれど、カオル君はこの暑さの中でも長袖のTシャツだ。しかもカオル君はこんなに暑いのにずいぶんと涼しい顔をしていた。
「細い腕を見せるのが恥ずかしくてさ。小さい頃から夏でも長袖だから、多少の暑さは大丈夫なんだよ」
彼は誇らしげに胸を張った。彼でも他人の目を気にすることはあるんだな。そう思うと少し彼との距離感が縮まったように思える。
そうだ、僕は間隔を急に詰めてくる人間は苦手だった。明日香さんと河川敷で話してから、僕は自分を見失っていたのかもしれない。真司やカオル君と過ごしているうちに、自分が別人になったとでも思っていたのだろうか。僕がするような行動じゃない。自分を見失うなんて、まるで中学生の初恋だな。僕は小さく鼻を鳴らす。
明日香さんから連絡が来ないことは残念だけれど、なんだか僕は清々しい気分になった。
一週間が経ち、ようやく心に平穏が訪れたような気がする。もう何も気にせずに、あのファミマに行ってみようと心に決めた。
授業が終わると、僕はすぐさま家に帰る。彼女が出勤しているであろう時間帯まで、家で本でも読んで過ごす予定だった。
部屋に帰ると、横向きに置いたカラーボックスから本を取り出す。ベッドの上であぐらをかきながらしおりを挟んだ頁を開いた。
なかなか頁を捲ることができない。本の世界に集中しようと頭に言い聞かせても、内容が全く頭に入ってこない。ただ目で字を追っているだけだった。心は部屋にいない。よりにもよって今読み進めている本がミステリーものだった。このままではまったく推理なんてできやしない。
本を閉じテーブルに置くと、ベッドに体を投げ出して天井を見上げた。クリーム色の天井には灰色がかったシミが二つある。そのシミは掌ぐらいの大きさで、五センチほど離れている。
眠れない夜によくぼんやりとこのシミを眺めている。このシミを眺めていると、不思議とその二つはゆっくりと近づいていくように感じ、ひとつになるであろう頃には眠りについていることが多かった。
このふたつのシミは、これから混ざり合っていくのだろうか。実は僕がいない間はひとつのシミになっていて、僕が帰ってくるとすぐに離れているのではないだろうか。いや。恋人同士のように、離れたりくっついたりを繰り返しているのかもしれない。いや、待てよ。一緒になる為に近づいているのではなく、実は一触即発状態なのかもしれない。
今考えていることは、全て予想でしかない。
自分がその場にいなかったら、どれもただの予想であって、真相はわからないものだ。
急にブルっと体が震え、エアコンの風を感じると、暗い天井が見下ろしていた。寝てしまっていたのか。ふたつのシミは距離感を変えず、僕を見下ろす。
適当な上着を羽織り窓から外を見ると、すっかり陽は落ちていた。ぐぅとお腹が鳴る。お腹だけではなく、胸の鼓動も高鳴っていた。
階段をそろりと下りてファミリーマートに入ると、すぐに栗色の頭が視界に入る。するとすぐに、僕の周りは甘い香りで充満したように思える。中毒性があり、いつまでも嗅いでいたくなる。麻薬的な香り。
僕は無理やり本売り場の方へと首を動かす。平然とした素振りで、いつものようにお弁当売り場へと回り込んだ。
カルボナーラ、唐揚げ弁当、親子丼、カツカレー……今日は何にしようか。腰を折り曲げ弁当を選んでいる間も、レジにいる彼女からの視線は襲ってくる。
視線を受けている背中は熱く、腰はジンジンと痛む。ここで悩んでいると、いつまでも視線を受けることになってしまう。すでに僕が弁当売り場の前に来てから二人、横から弁当を持っていった。
「旦那。今日は唐揚げ弁当がオススメですぜ」
うわっ。手にしたカツカレーが片側に寄る。福神漬けの入った窪みにルーが少し漏れてしまった。
僕の耳元で唐突にそう呟いた彼女は、すぐにレジへと戻って行った。僕はレジの方を向いて眉根を寄せた。でも意識は、耳に集中させている。彼女の吐息の名残が残っているからだ。耳がほんのりと温かい。彼女の囁きは、まだ僕の頭に響いていた。
寄ってしまったカツカレーを持ったままレジへと向かうと、彼女は意地の悪い笑みを浮かべていた。
急に耳元で囁くなんてなんだ。店員のすることじゃない。いや、でも、本当はそんな行動も可愛らしい。
彼女の目は見ず、ぶっきらぼうににカツカレーを彼女に差し出す。何も言葉を発しなかったが、彼女は僕の考えていることを察したようだった。
「連絡先渡されたからって、顔も名前も知らない人に連絡するわけないでしょ」
彼女はさらっと涼しい顔で言いのける。
待てよ。顔も知らない?
「顔は知ってますよね?」
「知らないわよ」
どうなってるんだ。頭の中が混乱している。深い意味での顔なのか?上辺でない本当のあなたという意味なのか。
「……僕ですよ?」
恐る恐る訊くと彼女の動きは止まった。僕の顔をじっと見つめ、口は小さく開いたままになっている。
「あなたの連絡先なの?」
「それ以外に何があるんですか?」
彼女は突然声を出して笑い出した。周りを見渡したが、幸い他に客はいない。店員を突然笑わせる客とはなんだ。お腹に手を当てていた彼女は目に浮かんだ涙を拭いた。
「あんたの友達の連絡先かと思ったのよ。友達が飲みたいって言ってるから僕に連絡してくれってことね」
彼女は涙を吹きながら、後で連絡すると言った。
心臓は高鳴り、口から溢れ出しそうだった。溢れないように口を抑えながら僕がコンビニを出ようとすると、彼女は背中に声をかけた。
「募金君、募金しないの?」
彼女の口元からは綺麗な白い歯が覗いている。僕はコソコソとレジに戻ると一○○円を募金箱に入れる。コツンと募金箱の底に当たる音がした。そんな簡単な勘違いだったのか。店を出る僕の後ろ姿に、後でね、と彼女は付け加えてくれた。




