序章
乾いた風が古ぼけた校舎をすり抜け、大学の中庭に佇む僕の頬を撫でる。
肌寒い季節になってきた。
僕は軽く身震いすると、マフラーをゆっくりとずらし、顎の下を隠す。この群青色のマフラーは、悩んだ末に押し入れの奥から引っ張りだしてきたものだ。この色が群青色だということは、彼から教わったことだった。
このマフラーをつけるのは一年ぶりのことだった。ということは、あれからまだ一年しか経っていないということか。時の経過は遅いのか早いのかわからない。
僕の宝石のようだった日常は、砂の城のように簡単に崩れていった。煌びやかに光ってはいたけれど、ハリボテのようなものだったのかもしれない。
日常とはただ過ごすものではなく、守るべきものだったんだ。
見慣れた自動販売機のボタンを押すと、鈍い衝突音と同時に規則的に並んだボタンが順々に光り始めた。ルーレットが回る。当たった人なんているのだろうか。いつものようにルーレットが止まるまで見届ける。
屈み込んで悴んだ手に触れたコーヒーを取り出した。
温かい。
赤い缶を左手に持ち替え、人差し指に一点集中して一気に引き上げ小気味良い音をさせる。僕は口をつけ喉を一度鳴らすと、熱い液体が体の奥底へと落ちていった。
そういえば、当たりのコーヒーを一度だけ飲んだことがあった。あれもホットの朝専用だったように思える。
朝専用というキャッチコピーのコーヒーを朝には飲んだことがない。実際飲んでいる今も、四限前という中途半端な時間帯だ。周囲を見渡しても中庭には誰もいない。土曜日でしかも四限の授業なんて、履修していてさらに出席までしている学生の方が珍しい。
半分以上残った缶コーヒーを持ち、教室へと足早に向かった。階段で二階に上がり教室へ入ると、ほのかに木の香りが漂う。この大学の机や椅子は未だに木製のものが大半だ。
ゆっくりと首を動かして辺りを見回すと、見覚えのある顔ぶれが点々と席についている。彼らは一度僕の顔を一瞥するように視線を上げると、すぐにまた目線を落とした。
春には埋まっていた教室も、冬になると空席の方が多くなっていた。この授業が不人気ということだけではない。どの曜日、どの時間帯の授業でもだいたいは同じ状況だ。
学生達は授業に出るよりも大切なことがある、と思っているのだろう。けれども二年生の僕にとって、この閑散とした教室はもう見慣れたものだった。
授業が終わると、すぐに日吉駅へと向かった。
駅へと向かう並木道にはしっかりと定められた間隔をとったイチョウ達が並んでいる。
彼らは決して群れず、適切な距離を保って存在している。
逆に彼らはその距離がないと、お互いに枝が当たってしまい上手く育たない。
健全に育つためには、彼らにはその間隔が『必要』なのである。
初めてこの黄色い並木道の途中で空を見上げたときのことは、今でも覚えている。雲ひとつない快晴の青を背景として、イチョウの鮮やかな黄色が浮き上がる。
美しい構図だった。その二つの色調は対照的だったけれど、非常に相性が良いように思えた。
あのときの心の震えは、今でも忘れられない。
お互いを補い合うことによって、一体感のある一枚の絵となっているようだった。
僕は一度マフラーを直して口元を隠し、彼らを見上げる人々の横をすり抜けるように駅へと向かった。
並木道を抜けひとつ信号を越えると、すぐに日吉駅に着いた。
平日と違い閑散としている改札へと向かって歩き出そうとすると、ぼんやりといていた視界で何かが動いている。
正面から亜麻色の髪を肩まで伸ばした女性が向かってきた。
僕に向けて手を振っているようだ。右手を上げようとしたけれど、僕の右手が上がるのを待たずに女性は僕の横をすり抜けていく。
男女の弾んだ声が後頭部に響く。
僕は胸元に垂れ下がっていたマフラーを右手で後ろに流した。
どこか懐かしい香りが漂ったように思う。それが何の香りか、体が導き出す前に改札へ入り、今日もひとり雑踏の中へと溶け込んでいった。
どうやら今日は、彼らのことが頭から離れないらしい。
彼との出会いは大学入学後、イチョウがまだ常盤色だった頃だった。この常盤色、という馴染みのない呼び方も、彼から教わったことだった。