45 わかればいいのです
ついさっきまで強く森を揺らしていた強い風はぱたりとやんで、何事もなかったかのように月の光は静かに落ちている。
竜は舞台の主役ばりの風情で月を見上げていたかと思うと、おもむろに前足を地につけた。白い鱗を赤く染めたのは、あれは、うん、桑の実なんだろうな……。
すっかり覇気は薄れて、なんならしょぼくれてさえ見える。俺たちにも興味を失ったのは間違いない。逃げるなら今だ。
(……主?)
ロドニーも裾をひいている。わかってる。あれはアビゲイルがやらかしたに違いない。どれほどの魔法を使ったのかと思うと、すぐさま戻って体調を確認したくてたまらない。そのつもりで踵は返したんだ。だけど何の気なしに振り向いて見てしまった光景に足が止まった。
地面に落ちたどんぐりをかき集めて短い両前足で持ち抱え、一歩進んではまたさらに拾い上げようとかがんで、持っていたどんぐりをとりこぼし、それをまたかき集めて、を延々と繰り返している竜。
俺の視線の先に気づいたロドニーが勢いよくしゃがみこむ。あああ!もう!
指笛を鳴らし呼び戻した馬で一気に街中を駆け抜け領主館を目指す。森を出たところで行きつ戻りつしていた護衛とも合流していた。まだ若い奴らゆえの迷いを頭ごなしに叱るのもどうかとは思うが、落ち着いたら鍛えなおす必要はあるだろう。現に後方で遅れがちだ。先に行くと合図を出して速度を上げる。
「もー、急ぎたいくせに竜の手伝いなんてするからー」
「……すぐだっただろ」
問題なくついてくるロドニーに茶化されるけれど、あれは本当に仕方ないだろう……。距離を保ったままではあるが、風魔法でさくっとまとめたどんぐりをずた袋に入れてやった。別に仲良くないとアビゲイルは言ってたが、どう考えても竜の方はそう思ってないぞ多分。
夜明けまでにはまだもう少しかかるといったところだけれど、どの家も扉を固く閉ざしたままながら窓から薄く漏れる灯りで息をひそめていることが窺える。
アビゲイルは無事だろうかと気ばかりが急く。前に鼻血を出した時よりもずっと体力もついているし、ひどいことにはなっていないはずだけれど、なんだあのどんぐりは。何がどうしてああなるのかわからん。季節じゃないとかもうそれ以前の話だ。ああ、だけどきっと俺の小鳥はまたなんでわからないのかわからないって顔をするのに決まっている。
「旦那様!」
領主館前に停めた馬車の開いた扉から飛び出してきたアビゲイルの足取りはふらついていた。馬をロドニーに任せて駆け寄り、転ぶ寸前のアビゲイルを抱きとめる。ここを出た時の服と変わっていないから鼻血も出してはいないはず。
「魔法を使ったな?顔をよく見せ――え?」
両の頬を包んで仰向かせようとした俺の手をぎゅっと両手で掴んだアビゲイルは、可愛らしいしわを眉間につくって俺を真っ直ぐに見上げる。は?なんでつむじに手を置かせる?
「アビー?やっぱりどこか痛いのか?」
「痛いです!痛いですけど!そうじゃないのです!」
滅多にすることのない不機嫌な顔で痛みのせいじゃないと言うが、だったらなんだ。いや痛いのは駄目だろう!
「痛いのか!どこだ!」
「ちがいます!」
抱き上げようにもアビゲイルはつむじの上に乗せさせた俺の手を離さない。
自分自身、何がどうなのかわからないような顔をしたまま、だんっと片足で地面を叩いた。
「痛い!旦那様私を忘れていきました!」
「……は?」
「ぶふぉ」
「タバサのお手伝いして!痛い!戻ったら!もう旦那様いませんでした!痛い!」
だん!だん!と足を踏み鳴らすたびに痛いと叫ぶ。何をしてるんだ。まさかこれ怒ってるのか。すねたことはあっても怒るってのは初めてのことだ。……もしかして自分でも持て余してるのか。
馬の首に抱き着いて震えてるロドニーは論外としても、タバサまで口元に手を当てて視線を合わせてこない。
「アビー、アビー、忘れてない。忘れてないけど」
「いませんでした!」
「うん!俺が悪かった!すまん!悪かったから、痛いんだろう?やめよう?な?」
俯くアビゲイルの顔をかがんで覗き込むと、やっと俺の肩口に額を預けてきてくれた。
そのまま抱き上げれば、ぐりぐり頭を肩に押し付けて。
「旦那様は私をおいてっちゃ駄目です」
俺の首に両腕をまわして、きゅうとしがみついてくる。
「――っうん、ごめん。すまなかった」
ほんとこれだから油断ならん!俺の小鳥はこうしていつもいつも心臓を握りつぶしに来る!
背中をさすり額や頬に口づけを落としているうちに、すぴすぴと寝息が聞こえてきた。こんな夜更かししたことがないもんな……。
しっかりと抱きかかえなおし、つややかな赤髪の感触を頬で確かめていたら、所在無げな顔をした殿下と目が合った。
「えーっと、先輩、もういい?」
「……なんでサーモン・ジャーキー食べてるんですか」
「なんでだろうね……」
なにやってんだこの王子。







