40 それもまったくぜんぜんきにしたことがありませんでした
魔物のことは大っぴらに言わない約束を守るアビゲイルに耳打ちされた内容は、もっと詳しくと叫びたくなるものだった。
「えっ、先輩まで部屋に戻るんですか!?この空気感の中!?」
「新婚なんで!」
「待って待って待って!嘘でしょ!ほんとそんな先輩、僕知らない!」
「すぐ戻ります!」
「すぐなの!?」
抱きかかえるのと同時に階段を駆け上がれば、タバサとロドニーはぴったりと追ってくる。護衛たちは残したままだ。取り繕えてる気があまりしないが、これは仕方がない事態といえる。竜て。あれか。機嫌が悪いとか言ってた奴か。
「お水飲みたいです!」
客室に戻ってからの一声にタバサが応え、水差しからカップに水が注がれる。ソファで飲み干して息をついたアビゲイルの足元に跪いて見上げると、金をぱちりと瞬かせて「どうしましたか」の顔をされた。どうしましたかじゃない。
「いや、さっきの話なんだが」
「ああ!そうでした!竜がこっちに来ます!」
タバサは空になったカップを受け取ろうとしたまま固まったし、ロドニーは茶葉を缶からすくう体勢で口を開けている。何か察してはいただろうけれど、さすがにこれは想定を超えていたはずだ。
「お、おう。それでな、竜はどうして、何をしにくるのかわかるか?ご機嫌悪いと言ってた竜だろう?」
「はい。なんで怒ってるのかはわからなかったんですけど、多分カガミニセドリが勝手にここに連れてこられてたからなんだと思います。あの竜、森のボスなので」
「……なるほど?」
「はい」
重々しく頷いてみせたアビゲイルだけれど、これあれだな、全部説明しきったつもりになってるな。何から聞き出したらいいのかわからんぞ。
「奥様……?ここの森のボスって、今はその竜なんですね?」
「前からです。ロドニー、ハーブティ淹れないのですか。飲みたいです」
「あっ、失礼しました。少々お待ちを」
「はい!タバサタバサ、お花の飴は」
困惑をにじませながらもロドニーはポットに湯を注ぎ、タバサは「ひとつだけですよ」と寝室から飴を持ってきた。
「前からって、アビー、君が魔王だったときは」
「魔王はボスじゃなかったです」
「ボスとは……竜の方が強かったの「違います!魔王のが強いです!」お、おう」
ふんすと鼻を鳴らすあたり、そこは譲れないのか……。いや待て今それは重要じゃない。はずだ。ソファに背を預けて、口から飛び出ている飴の棒をふるふる震わせている顔はやけに満足気で、俺も力が抜けてくるけれど。
「怒ってるということは、竜は報復に来るんだな?」
「ほうふく……やられたからやりかえします。にんげんだってちっちゃいのをやっつけられたら、森にたくさんでやってくるのです。なんにもしてない魔物だって、いっぱいやっつけられたりしました」
「……そうだな。確かにそうだ」
「魔物だってにんげんを食べるのいます。にんげんのとこにわざわざ行ってやっつけられるのは仕方ないです。にんげんだって森にわざわざ来たらやっつけられたりするのも仕方ないです。食べたり食べられたりするのは仕方ないのですから、竜だってそんなことでは怒らないです」
仕方がないことだと告げるアビゲイルの表情には、なんの感情も浮かんではいない。怒っているのは竜であって、自分ではないからだろう。さっき文官を殺したカガミニセドリのことを問うた時だって、平坦な声音でしかなかった。ただそれでもその声にはいつもの小鳥のような軽やかさがなく、代わりに厳かな静けさがあったのだ。言い逃れようとあがいていたあいつらには響かなかったようだが、あれは確かに何度も俺たちに魔物のことを語った魔王のものだった。
そして今も。
「でもあれはちがう。おまえたちなどのものではない」
それは、アビゲイルにだけ聞こえる竜の言葉だろうか。それともアビゲイル自身の言葉だろうか。
ロングハーストでの采配も、ドリューウェットへの助言も、いつだってアビゲイルの解決方法は魔物を殺すことではなかった。
狂乱羊の大群の進路を好物のカジュカの実でつって変えさせようとしたし、水源を塞いだ金剛鳥は好きな巣の材料であるエリ松の葉で気をひいて動かした。魔物を魔物の領域へとそっと戻すようなそれは、確かに双方に被害を出さないためでもあるけれど、どちらかといえば魔物を守るほうに軸足があるものだったと言える。
「……アビー、俺はここの人間がどうなろうと知ったことではないと思っている」
「はい」
使い方も、と、あの下種はそう言った。まるで使い勝手のいい道具のように。
ここの奴らは、アビゲイルを攫おうとしたり、殺そうとしたりと、一枚岩ではないのは予想できていた。奴は攫おうとした方に属しているのだろう。カガミニセドリを暗殺の手段として使ったように、アビゲイルを都合よく利用しようとした。
邪魔になる俺たちの排除を企んだ結果が、あのお粗末な武装と包囲だったと思えば納得だ。
どっちにしろクソなことに変わりない。
「なんなら竜の報復はもっともだとすら思う」
「はい」
「ただ、竜は人間の区別がつくのか?」
「……」
口を半開きにしてるのは、考えたこともなかったからか。覚えたことは忘れないとよく豪語してるが、興味のない人間のことはそもそも覚えてないんだよな……。雑魚は視界に入らないとばかりの感覚は実に強者らしいもので、おそらく竜も同じなのではないだろうか。
「つまり俺たちとあいつらの区別というか」
「あの子は賢いほうだと思うんですけど、気にしない、気がするかもしれません」
「だよなあああ!?俺たちもまとめてやられるんじゃないか!?」







