10 おもったよりもうみはひろくておおきかったです
湯あみを終えて主寝室へ入るとアビゲイルの姿がなかった。
海を一望できるテラスへと続く外開き窓から夜風が流れ込んでくる。
「アビゲイル?」
月明かりが赤髪を銀に縁取り、穏やかな風が薄手の寝衣をはためかせ。
寄りかかることなく手すりに手をおいたアビゲイルは、夜空と溶け合う水平線をまっすぐ見つめていた。
部屋からガウンを取って戻り、その細く薄い肩にかける。
「海風は冷えるだろう」
「旦那様」
そのまま抱き込めば見上げてくる金色が、月のように静かな光を湛えている。
「森と同じ音がします」
「森と同じ?」
「はい。魔王のいた森です。ざぁざぁって、葉っぱを風が撫でる音です」
視線を遠くへとまた戻し、俺の胸に預けきる背中が信頼と安心を伝えてくると思うのは自惚れではない。けれど同時に、こうして魔王の森を語るアビゲイルはどこか違うところにいるようで、この細い身体の頼りない感触にらしくもない不安が沸く。
「魔王は翼もあって飛べたので、時々空から森を見下ろしてました。見渡す限りに広がる木のてっぺんを風が揺らして、ほら、あんなふうにきらきらする波と同じです」
今夜の月は明るくて、打ち寄せる波頭は瑠璃色の空が映り込む海に輝きを乗せている。
魔王自身の感情や思考は覚えていないというアビゲイルだけれど、魔王が見ていたものを語るときの口ぶりは魔王を俯瞰して見ているようでいて、しっかりと魔王自身の目線だ。
布団の中で居心地のいい場所を探るときのように、自分の前に回った俺の腕に頬を摺り寄せ、首から下げたサファイヤ魔石を片手でいじりながら、また金色の視線が俺に戻ってくる。
「月の周りの色は、波の間の海の色と、それから旦那様の色と同じです」
視線を絡ませたまま、もっとよく覗き込むように首を傾げて。
「森の泉とも同じです。鏡みたいに空色を映して、若い葉っぱの緑がちょっとだけ溶けてる色」
魔力量の多い者の瞳は、色の濃度を変えて炎のように揺らぐ。揺らぎの幅が大きいほどに、魔力量を重視する貴族の間では特に称賛されるもので、俺自身そう称えられるのは珍しいことでもないから慣れているはずなのに。
「魔王は、しょっちゅう空や泉をじっと眺めてました。ずーっとです。その間はなんにも食べないくらいで、あ、でも襲ってくる魔物は一口でぱくんとしましたけど」
「お、おう」
「私はきらきらとかぴかぴかが好きですから、きっと魔王の時も好きだったのかもしれません――どうしましたか旦那様」
「いや――なんでもない」
俺の色だといってサファイヤ魔石を気に入ってるのは知っている。綺麗だとか美しいだとかそういうのはわからないと言いつつも、好き嫌いがはっきりとしているアビゲイルの言葉は、時々こうして不意打ちのように俺を羞恥で悶えさせる。なんだって俺の方が顔を熱くさせているんだ!
海風が頬を冷やすように撫でていく。すっぽりと腕の中におさまったままで見上げてくる金色は、強く艶やかに色味を変えて揺らいでいる。金は色の濃度差があまりない色だからわかりにくいけれど、きっとこの小さな身体に内包する魔力は俺のそれより強く多い。思えばアビゲイルが魔王の生まれ変わりだと、早い段階で理解できたのはこの魔力量が感じられたからというのもある。アビゲイルに言わせれば、魔力は魂に紐づいているものだからだそうだ。
「今、君の色の魔石を探してる」
「私の色の魔石」
「そう、金よりも魔石の方がずっと君の色になるだろう?見つけたら、そうだなぁ、俺は剣を持つから指輪は常時つけていられないし、ピアスにでもしようか」
「私が旦那様色のを持つのと同じに、旦那様も私色のを持つのですね」
「うん。俺は君の夫だからな。だけど、君の色ほど綺麗な石はなかなか見つからない」
「綺麗、ですか」
ロングハーストでは、貶められたことこそあれ、褒められたことなどないだろう。もちろんこっちに来てからというもの、タバサをはじめ母からだって何度でも綺麗だと言われ続けているし、俺も俺なりに言葉を惜しんでたつもりはない。だけどどうしたって、アビゲイルにはなかなかぴんとはこないようだった。
昼間の襲撃者たちが放ったような罵倒をずっと受けていれば、綺麗だとかそういった感性が育つわけない。
それでも俺の色が好きだというアビゲイルが、自分の色も好きになってくれはしないだろうかと思う。
「旦那様」
わずかに眉を下げて俺を呼ぶ声が少し沈んでいて、俺の心臓までざわりとする。
今日はロングハーストからの襲撃まであった。いつも通りに気にしていないようだったけれど、普通ならあんな罵声を浴びて平常心でいられるわけがないんだ。
冷たい風が少しでも当たらないようにと抱え込む。
「――どうした?」
「やっぱりサーモンはどこにいるかわかりません」
「さーもん」
「はい。山とか森ならわかりますのに、海はわからないみたいです。魔物っぽいなぁっていうのが大体どのあたりにいるかはわかるのですが、サーモンは……」
「お、おう。そりゃあ……残念だったな……」
アビゲイルは、なかなかないほど残念そうにため息をついた。そうかー。サーモン探してたのかぁ。ジャーキーもスモークサーモンも大好きだもんな。サーモンはすごいとも言ってたもんな。
「はい……十匹は捕まえたかったのに」
「多いな?」
「私と旦那様と、タバサとロドニーと護衛と、御者と」
「アビー、サーモンは一人一匹じゃなくていい」
「えっ」
ほっと胸の奥がほどける感覚にまかせて、細く柔らかい身体をもう一度抱きしめる。じわじわとわき腹が痛くなってきた。一人一匹て。
「くっ、ふっふふふ……そ、そうだな、船にも乗ってみるか?さほど沖までは出られないだろうが」
「船!あの!あの辺にある船ですか!」
「ああ、うちの事業で使ってる船もある」
「わぁ……船に乗るの初めてです!」
わあ、わあ、と呟いてるのが愛しくて、どうやら跳ねたいようだけれど離せない。
「明日ですか!明日乗りますか!」
「あー、天気が良ければな」
「良いです!明日のお天気は良いです!早起きですか!」
「うんうん」
あー、うちの小鳥可愛い。
「じゃあ早く寝なきゃいけません!旦那様!ベッドに行きます!閨をします!」
「うんう、いや、んん?」
ぐいぐいと腕を引かれるままに、部屋に戻って寝台に座らされた。
アビゲイルはぴょんと飛び乗ってちょこんと膝を揃えて座って両手を広げて。
「妻は!旦那様にお任せすると習いましたので!どうぞ!」
うん。ほんと俺の妻は愛らしくて凛々しい。知ってた。
stay, stay, stay
言いたいことはわかります
次回は朝チュンからスタートですよっ全年齢なのでっ
 







