27 だんなさまはいいにおいなのでどこにいるかはすぐわかります
アビゲイルが厨房へ行っている間にと、父と地下牢へ続く階段を降りている。
「――ステラはアビゲイルにドレスを選びたかったようだぞ。興味を勝ち取るにはカトリーナに及ばなかったがな」
「ありがたい配慮です」
狭い階段で斜め前を先んじて歩く父に、軽く頭を下げた。
くすりと小さく笑みをもらした父は、普段の厳格な顔つきを緩ませているのがその頬のラインでわかる。全く、その親愛が滲む表情を母にも向けてやれば話ははやいというものなのに。
義姉上も母も、この階段の先にいるモノからアビゲイルの興味をそらそうとしたのだろう。実際のところ本人は全く興味を持っていないが……。
アビゲイルが魔法を使ったことを確信しているわけでなくとも、いち早く危機を伝えたこと自体が稀有な天恵であることを示すし、侯爵領が受けた恩は大きい。――まあ、それだけでもないのもわかる。可愛いからなうちの小鳥……。
階段を降り切って重い扉を開けば、途端に響き渡る金切り声に、生理的な嫌悪がはしって思わずのけぞった。
あの女の様子は兵から報告があがっていたが、直接確認したいこともある。
「だから!あれは魔物なんだってば!なんなのあんな気持ち悪い子を気に入るなんて、ジェラルド様は惑わされているのよ。だから目を覚まさせてあげようとしたのに!」
「気分が悪い。それに俺の名を呼ばせるな」
地下牢でわめき続けるナディアを、尋問担当の私兵が鞘にはいったままの剣で打ち据えた。昨夜捕えられた時のままの薄汚れた茶色いローブから覗く、足首と手首には鎖が繋げられている。捕えたときなのかそれともここに入ってからなのか、元は手入れが行き届いていたであろう爪は割れ、あちこちについた細かな傷から血が滲んでいた。
王城の夜会から二か月近く。顔こそやつれてはいるが、まだ裕福であった名残はしっかりと残っている。俺のところにきたときのアビゲイルは、十六歳だというのに娘らしい丸みなどどこにもないくらいに小さく痩せていた。憐みどころかさらに憎しみが募るというものだ。
「ずっとこの調子か」
「ええ、元気なもんですよ」
合間合間にもったいぶろうとするたび兵にこづかせて、この地にくるまでの足取りと動機らしきものを聞き取った。伯爵は次の援助先を求めて去ったらしいが、ナディアは俺をあてにして残ったなどと妄言を吐いていた。正気を疑うが、そもそもがアビゲイルを虐げていた者だ。理解できなくて当然といえる。
アビゲイルの義母にあたるナディアの母が育ったのは魔物の多い森の傍だったらしい。そこでだけ咲く花が今回のそれだ。魔王の伝承とともに、けして焼いてはいけないと、見つけ次第摘み取っては乾かして埋めるのだという花は、いくら村人がそうし続けてはいても根絶やしにすることができない。
「あれは魔物が狂うからと、あの子の前で焼けば本性がでる、から、そうしたらジェ、ノエル子爵様だって」
「くだらん」
魔王の記憶を持っていようと、今のアビゲイルは人間だ。何気なくふるう力が、自分の身体を傷つけてしまうほどに人間なんだ。――何が本性だ。こんな輩がアビゲイルを語るなど悍ましいにもほどがある。
結局ナディアにあの花を渡した者の素性はまだわかっていないが、聞き出せることは全て聞き出したと判断して踵を返すと、「わ、わたしはいつまでここに……っ」という叫びが追ってきた。
「領で起きたことは領主に裁量権がある。仮にも伯爵令嬢であったのなら察してもよさそうなもんだが?」
言われた言葉を理解できないのかしたくないのか、それでも来るであろう未来の気配を振り切れないのか。今になってがたがたとナディアは震えだした。
「アビゲイルを!アビゲイルを呼んでください!わ、わたしはアビゲイルの姉ですから」
「あ?散々罵ったその口で縋る気か。――懺悔の時間を与える価値すらない」
父の視線を感じながら、さきほど降りてきた階段をまたあがっていく。俺だとて伯爵から援助を求められたときにはアビゲイルの意向を確認したのだから、父もまた考慮すべきかどうか判断しかねているのだろう。すでに侯爵領にとって恩人ともいえる存在なわけだし。
「父上、領主としての判断で構いません」
「……アビゲイルに聞く必要はないということでいいんだな?」
「ええ。妻は上に立つものの義務を知っていますから」
伯爵への援助を不要としたように、アビゲイルは義姉への配慮を不要とするだろう。
それはおそらく魔王であった頃の、いわば強い者である感覚からくるものだと、もう俺は知っている。
「……そうだな。お前がそういうのなら」
父からみれば、幼子のようなアビゲイルがそんな感覚をもっているなどと想像もつかないわけだから、何か言いたげではある。けれど最終的には頷いた。
「旦那様!」
階段と廊下を隔てる扉を閉じたところでアビゲイルが機嫌のよさげな空気をまとって現れた。
体調の悪い時にするようにどこかに隠れるほどでもないと思っているのか、それとも自覚がないのかもしれないが、身体は痛みを感じているのだろう。朝からずっと足取りが少しぎこちない。
「よくここがわかったな」
「?旦那様がどこにいるかはわかります」
「そうか」
聞かれたことが不思議だと言わんばかりのアビゲイルを抱き上げた。
使う魔法が大きければ体内をめぐらせる魔力も相応に大きく激しくなり、それを受け止める身体も疲弊する。筋肉痛とはいうが、あれだけの魔法を使ったのだから負荷は相当なものだったはずだ。
「旦那様」
「ん?」
「私市場のお魚を見たいです」
「市場は早朝のほうが賑やかだからな。明日行こう」
「はい!」
城の厨房がいかに広くて、たくさんの料理人の手際が魔法みたいだったかを囀るアビゲイルの額に口づけて部屋に戻った。
アビゲイルは、もう上位者の判断などしなくてもいいし、愚かで醜い人間のことなどもう視界にいれなくていい。にんげんでよかったというアビゲイルには、無条件で愛されることだけをもっと知ることのほうが先だろう。
もう魔王でもなんでもない、俺の可愛い小鳥なのだから。







