第37話 妹のお願い
前屈みになってカップを置こうとした瞬間、手元が狂って傾いた口縁から大量のお茶が宙に散乱。「あっ!」と待ったをかける焦りの感嘆詞は虚しくも届かず、一瞬でローテーブル及びソファは水びたしになった。
不幸中の幸いにも俺への被害は………ちょっとあった。しかも誤解を招く箇所にかかっている。だがそれよりも俺の注目は別の一点に集まった。
「ご、ごめんっ!服とか濡れてない!?」
「多少浴びたけど問題ねえよ、気にすんな」
「そういうわけにはいかないよ、少し待っててね、タオルとお兄ちゃんのズボン取ってくるから!」
慌ててアクシデントを対処しようとその場を離れる──が、そうはさせない。反射的にひと回り小さい掌を両手で包み込む。
覆った中からビクッと小刻みに反応が返ってくる。
「モアイ?…早く取りにいかないと…」
「着替えはいいから、少し落ち着け」
「で、でも…風邪引いちゃうよ…」
「いいって、それよりなんか我慢してるだろ?」
手を拘束(両手で被せている)しているから体の方向転換が出来ない。本心を誤魔化すようにローテーブルの水溜りを流し目で見ている。
その仕草から残された妹が今感じている気持ちを理解した。
「え?何のこと?」
「さっきから話してる時、手が震えてるんだよ」
「風引いちゃって、寒気がとにかくひど─」
今にも壊れてしまいそうな表情は見るに堪えない。頭をふんわりと撫でてあげると、小さく体全体を震わせて嗚咽を漏らし始める。
「っ…寂しい……よぅ…」
「だから言ったろ、困ったことがあるなら言えって」
「でもでも…っ………迷惑……っになるし…」
「バーロー、まだガキの癖にいっちょ前に気なんて使うな。小学生の特権を今の内に有効活用しとけ」
まあ、そりゃあそうだよな。俺でさえモチベが低下して、部活動をサボって人様の家に上がり込む有様だ。それが身内であるなら尚更だろう。今まで当たり前に日常にいた存在が突然いなくなるのだから。ショックの振り幅は計り知れない。
──タオルで濡れた箇所を拭き、お兄さんのズボンを貸してもらった。股下のサイズは丁度ぴったりだ。
泣き腫らした目には明るさが戻り、お得意のジョークをひねり出せば笑い上戸の麗亡。とりあえず元気になったから今日もぐっすり眠れるな。
そんな安心も束の間、お願いという名の試練を与えられる。
「じゃあお言葉に甘えて一つお願いしてもいいかな?」
「なんでもこいや」
「走りで日本一になった姿みてみたいな」
「なんだ、そんなことでいいのか?」
「うん!けどモアイ1番になれたことないよね?」
「気合で何とかなるさ」
これ以上妹を悲しませたらナベチに合わす顔がなくなるからな。理屈なんてクソ食らえ、気力でどんなランナーもねじ伏せてやる。




