何度巡っても会えなかった君
人の声。人の動き。人の気配。
何度訪れても慣れない騒がしさに目を瞬かせて、紛れるように人混みの渦へと入っていく。
午前のマーケットになんとか間に合ったようで、乱雑に書き殴ったメモを手にテントを回って見ていく。
「いらっしゃいいらっしゃい!さあ、こっちだよ!」
「焼きたてのパンだよ!ふわふわでまだ熱いから気をつけな!」
「いらっしゃい!この辺りじゃ珍しい果実だよ!お客さん、ほら、サースグランドから取り寄せたんだよ!」
道は人で埋め尽くされ、あちこちからいい匂いが漂って、見るもの全てが目新しいもののように思えた。
店の前を歩くだけで飛んでくる大きな声に引き寄せられながらも、なんとか買い物を済ませた。
「リボンに糸、あとパンとお砂糖と…うん。全部買えたかな」
買い物の確認が済んで、ちょっと休憩でもしていこうかと周りを見渡すと、こじんまりとした可愛らしいカフェを見つけた。人もあまりいないし入りやすそうだ。
一番安いアイスティーを注文して、近くのベンチに腰掛ける。
カップルから老紳士まで、様々な人がカフェでお茶をしているようだった。
カフェからのおだやかな話し声を聴きながら荷物を置いてぼぅっと外を眺めていると、頭上に影が差し込んだ。
「やぁ、かわいいお嬢さん。あまり見ない顔だね、どこから来たんだい?」
見上げると、品のいいスーツを着てハットに手をかけながら、うやうやしくお辞儀をする紳士が優しげな眼差しでこちらを見ていた。ハットから覗いた髪は華やかな金で、男の人にしては線の細さを感じる佇まいであった。
「えっと…近くです」
「ええ、本当に?今まで会ったことはなかったよね?」
「ええ…」
大袈裟に不思議そうな顔をする紳士をよそに、グラスのティーを口に含む。私の住む森から一番近い街はここなのだ。多分嘘は言っていない。多分。
グラスに入った氷がカランと音がたてる。透明なグラスに紳士の穏やかな顔が映った。
「そうでしたか…。私もこの辺に住んでいるんですよ」
「そうなんですか」
何が面白いのかにこにこと笑う男に胸がざわざわする。なんだかこの人と話していると、不思議な気分になる。
懐かしいような、嬉しいような、哀しいような…今まで感じたことのない感覚だ。
ふわりと微笑む男の顔をなんとなく見上げたままでいると、頬に冷たい風を感じた。
目を動かして風が騒ぐ方を見ると、凄まじい速さで少年が走っているようだった。よく見ると、茶色い袋を抱えている。
「……、あれはっ!」
「どうされました?」
「あぁ、やっぱり…なくなってる!」
見覚えのある茶袋に嫌な予感を覚えて横を向くと、隣の席に置いておいた荷物が全てなくなっている。
窃盗だ。
「……まさか」
子どもの窃盗は、単独での犯行ではない場合が多い。大概協力者がいるのだ。
前に座る男を強く睨むと、驚いたような顔で手をぶんぶん振った。
「わ、私じゃありませんよ!」
「仲間じゃないんですか?」
「違います!…あ、そこ!」
男の指を指す方を見ると、丁度裏路地へと大きな紙袋を抱えた少年が消えていくところだった。
「…!待ちなさい!」
「あ、お嬢さん!」
絶対に逃すものか!
私はすぐさま立ち上がって、脇目も振らずに全速力で少年を追いかけた。
体力に自信がある方ではなかったが、こっちは小さい頃から複雑な森の中の経路を頭に入れて生きてきたのだ。路地の構造は三度も来れば大体わかるので、少年の行く道を予測して先回りをする。
人のそう多くない路地に入り、じっと息を潜めていると地を駆ける足音と幼い声が響いてくる。
「はぁ、はぁ、ここまでくれば…」
「お疲れ様。返してくれますか?」
「わぁーー!!!!」
後ろをチラチラと伺いながら汗を拭っていた少年が大きく声を上げて、腰をぬかしたように転んだ。
たくさん走ったのだろう、ガクガクと震える細い脚を少し気の毒に思いながらそっと手を差し出す。
「さぁ、荷物を返してください。今返してくれるのなら、憲兵に差し出したりしませんから」
「お、おおおお前!なんでここで」
「さあ」
目線を合わせるようにしゃがんでもう一度手を差し出す。
少年の腕に力が入りクシャっと音を立てた茶袋に眉を潜める。このあたりでは実らない珍しい果実も購入したのだ、潰れていないか心配になる。
少年は混乱した様子で差し出された手を見た後、キッとこちらを睨んだ。
そして私の肩を突き飛ばして、怒りを含んだ強い声で叫んだ。
「お前!お前みたいな旅行者は、どうせ金持ってんだろ!!これはおいらたちのもんだ!!」
とても子どもとは思えないほどの憎悪がこもった声だった。
派手に転がされて、腰を打った痛みでこぼれそうになる涙を抑えて、少年の怒声を聞いた。
何とも筋違いな言葉だったのに、体は固まるばかりだった。
身に覚えがないのに無条件に向けられる憎悪。
「懐かしいな…」
走り去っていく足音を聞いてから、腰をさすって立ち上がる。のろのろと動いて、スカートを整えていると頭に巻いたスカーフがはらはらと落ちてきた。
「あ、」
まずい。スカーフが解けてしまった。
急いで頭を手で覆いながら、もう一度屈んでスカーフを手に取る。人に見られないうちに巻き直さないと面倒なことになる。
「あ、いたいた。君、大丈夫かい?おや、」
「痛ぇって…、うわぁーー!!く、黒い髪!??」
耳馴染みのいい低い声と、さっき聞いたばかりの甲高い子供の声が響いた。
あぁ、今日はついていない。
長く伸びた髪を押さえて下を向き続ける。直ぐに走り去っていくだろう、人は何故かこの黒い髪を酷く嫌がるから。
予想した通り、小さな足音がバタバタと立ち去っていく音が聞こえて少し顔を上げる。
細い足が表通りの方に消えていったがもう一人、高級そうな黒い靴を履いた男は私の前で佇んでいた。
「大丈夫かい、立てる?」
「…は、はい」
大きな手が私の手を取って、ゆっくりと引き上げる。
背中まで伸びた漆黒の髪が、風で踊るように揺れた。
男の顔は、ベンチに居たときと同じように穏やかで微笑んだままだ。
「珍しい髪色だね。初めて見る色だ」
言葉とは別に、懐かしいものを見るかのように目を細めた男は、次いで瞳を覗くように顔を近づけた。
「やっぱり、君は…。そうか」
「あの、何か?」
「懐かしいな。嬉しいよ、また、会えて」
「あの…?」
泣きそうな顔をして私を見つめる男はどう考えても不審なのに、何故か嫌ではない。それどころか、私まで胸が熱くなるような哀しみを伴った懐かしさを覚えて瞼が熱くなる。
大きな手が私の髪をそっと撫でて、胸元に下げていたネックレスに触れた。
「これは…」
男はネックレスの黄色い石をみて、酷く驚いた様子だった。なんの変哲もないただの石のはずなのに、男が触れた途端鈍く光ったような気がして、驚いて後ろに下がった。
手から離れた石を名残惜しそうに眺めてから男はまた私をゆっくりと見て、語りかけるように優しい声を投げかけた。
「…君は、近所に住んでいると言っていたね。でもこの街ではないだろう」
「え、はい」
「君は、家族と住んでいるのか」
「はい…一族でずっと住んできた家があります」
「一族で…。他の人間に会うことはあまりなかった?」
「…あの、どうしてそんなことを聞くのですか?」
悪人だとは思わない。しかし、そこまで名前も素性も知らない男に明かすことは憚られた。
不審な目を向けられても男は気分を害した様子はなく、静かに笑って小さな手帳を見せた。
「ごめんね、自己紹介もまだなのに質問ばかりしてしまって。僕は、ジェラフ・ギーク。ウェスタリア王国王立学校の教員だ」
「先生…?」
「うん。君の名前は?」
小さな手帳には、男の端正な顔写真と王立学校教員である旨、そしてそれを国が認めた証の国印が押されていた。多分、本物だ。
「リン」
「そうか、リンか」
眩しそうに目を細めて男はリンの名前を呼んだ。
不思議な感覚だ。この人に名前を呼ばれると、心がふわふわとする。
「リン。学校に通わないかい?」
「学校…ですか?」
「うん。私が推薦をしよう」
「…何故ですか?」
「君は…そう、頭がいいだろう。何も知らないまま、この世界を生きて欲しくないんだ」
「…よく分かりません」
ジェラフは、何故なのか初めて会ったばかりのリンに強く学校を勧めた。こじつけのように賢いだなんて理由をつけてまで、リンを学校へと誘った。
男の琥珀色の瞳は強い光を放ち、真剣な面持ちだった。
しかし何を言われても、リンはジェラフの言葉に違和感を拭えなかった。
一つ息を吐いてから、落ちていたスカーフを掴んで立ち上がる。
「お話がそれだけなら、もういいですか?そろそろスカーフを巻きたいのですが」
「あ、ごめんね。私が影になるから、ゆっくりどうぞ」
シュルシュルと布のこすれる音がして、スカーフが巻き終わるまで二人は黙っていた。
「あの、もう大丈夫ですよ」
「あぁ。…君が街になかなか出てこないのは、その髪かい?」
「はい」
「やっぱり、他の人間に会わないようにしていたんだね」
今日会ったばかりの人なのに、やたらと色んなことを聞かれる。先生という身分がはっきりしていても、この人は話せば話すほどやっぱり不審だ。
あの奇妙な胸のざわめきと懐かしさは、気のせいだったのかもしれない。
もう、無視してしまおうと彼の横を通ろうとする。
しかし瞬間、腕を掴まれて立ち止まることを余儀なくされる。
「まって!」
「…もう行きます。さようなら」
「あ、違う違う!ほら、これ」
振り向いた男の片腕には、どうして気づかなかったのかあの少年に盗られた荷物が抱えられていた。
…そういえばあの少年は一度こちらに戻っていた。きっと彼が捕まえてくれたのだろう。
伺うように覗く琥珀をちらっと見てから、また目線を逸らす。
「…ありがとうございます」
「いいえ。…学校の話、君にとって悪くない話だと思うけど」
「それは、もう」
「知は力だよ。君も、ずっと、君の一族が続けてきたように隠れて暮らしていくのかい」
「……どうして、」
「リン。どうして髪の色でこんな扱いを受けねばならないのか、考えたことはあるかい?それはおかしいと、思ったことはあるかい?君たちは悪いことなんて何もしていないのに」
「それは…」
「…君は『白花』になれる力がある。『白花』となれば、誰も君たちを悪くいえない。隠れる必要は、ないんだよ」
今までは見せなかった強い意志を感じる声でジェラフがリンに告げた言葉は、リンを震わせるのに充分なものだった。
僕の住所だ、と立ち尽くすリンにメモを渡してジェラフは風のように去っていった。
**
夕暮れの赤い空を見上げてリンは考えていた。
今日は嵐のような日だった。これまでになかった色んなことが起きて、なんというかおかしな日だった。
しかし今となっては、そのどれもがあの人に会うための前触れだったように思える。
「学校か…」
惚けたような声が零れ落ちる。すぐに空気に消えた声であったが、口にするだけで心が揺さぶられた。
ずっと、こうなのだと思ってた。こうして生きて、死ぬのだと。
変えられるのだろうか。変わっても、良いのだろうか。