はじまり
考えてみれば、今日は朝からおかしな日だった。
いつも通り日が昇る前に起きて身支度をしていると、母が静かに起き上がって窓の外を見ていた。いつも昼近くまで眠る母が起きていることに仰天して声をかけると、静かに窓の外を眺めた母がすっと指をさしたのだ。
「リン、街にでなさい」
まだ暗い外に何があるのか、母はじっと何かを見ているようだった。
「母さま、何か見えるのですか?」
最近はすっかり翳ってしまっていた母の瞳は強い意志で何かを見ていた。
「リン、今日は家のことはしなくてよろしい。今日は、今日だけは、街にでなさい。分かりましたね」
強く言い聞かせるような母の言葉に思わずこくりと頷くと、母は優しい顔をしてまた体を倒して目を閉じた。
街にはあまり出ないことにしている。私と母が暮らすこの家は国の片隅の森の奥深くにあって、他の人間はめったにここには来れないし、こちらからも人がいる場所まではとても遠くて街に行って帰るには丸一日かかるのだ。
次に街に出る予定の日までまだ随分日があったが、生活に欲しいものはいくらでもある。身に付けたエプロンを外して、急いで街行きの準備をする。
軽くご飯を作ってから、準備した荷物を入れた籠を待ってスカーフを手に取る。鏡を見ながら、闇を吸い込むような黒い髪を薄桃のスカーフで慎重に隠していく。
「よし」
髪が溢れていないことを確認して、窓を見ると日が出てきて空が白くなり始めていた。
「母さま、行ってきますね」
目を瞑ったまま横になる母に声をかけて外に出る。
いつもなら鳥の囀りがよく聞こえるのに、外に出てみても何も聞こえない。なんだかおかしい…と首を傾げてから、森の中へと進んで街を目指した。
**
リンとその母親は二人で森の奥深くにある青いレンガのボロ家に住んでいる。三ヶ月前に祖母が亡くなって、二人になったのだ。
「リン、リンや。こちらへおいで、今日こそは覚えてもらわにゃならん」
祖母は白い布の奇妙な襟の服と、赤いスカートのように見える長いズボンを着て私に舞を教えてくれた。
シャンシャンと美しい音を響かせる鈴を両手に持って、長い袖を揺らめかせて舞うおばあさまは何か精霊のように不思議な存在にでもなったかのようだった。ただひたすらに目を奪われて、綺麗だった。
「おばあさま、きれーです」
「ほほ、そうか。次はお前さんの番じゃぞ」
おばあさまの真似をして身体をよじってみても、おばあさまの舞とは何かが違うことは分かっていた。息を切らして膝をつくころになって、やっとおばあさまは水を差し出して下さった。
「ふむ、まだまだじゃが…。今日のところはこれでいいかね」
スパルタな稽古にも関わらず、おばあさまはいつも凪いだ海のような目をしていた。
おばあさまは稽古の後には必ずご褒美のようにお菓子をくれた。何か、人とは違うものを見ているような目が優しく細まる瞬間が私は一等好きだった。
優しいおばあさまは、私がそのお菓子を頬張っている間、いつも「リュウジン様」の話を語って聞かせてくれた。
「リュウジン様」はかつてこの世界の人々を守って救ってくださったのだと。この舞は、「リュウジン様」への感謝を込めた特別な舞なのだと、おばあさまはいつも遠くを見つめて穏やかにそう語っていた。やがて母が呼びに来るまで、おばあさまはいつも色んなことを聞かせてくれた。
色が抜けて白くなった髪と黒い瞳で穏やかな祖母は、私が幼いころから消えてしまいそうな儚い雰囲気を纏っていたが、私が舞を完璧に踊れるようになるとついにぱったりと亡くなってしまった。
母はおばあさまが亡くなると塞ぎ込むことが増え、家事は私の役割となった。しかし、
「今朝の母さまの様子は…」
穏やかなおばあさまとは違って、少々慌てん坊でそそっかしい性格の母が、今朝はおばあさまのようだった。
「街に、何があるのだろうか」
生き物の音がしない森の中を進みながら、久しい街に想いを馳せる。
とことこと歩いて森を抜けると、突然視界が明るくなって目を細める。
ガヤガヤと人の賑わう声が煩く聞こえ、街が近いことを悟る。スカーフから髪がこぼれ落ちていないことをもう一度確認して、息を吐いて足を進めた。
ドキドキと心臓が脈打つ。
いつも感じる緊張とも違う胸の高鳴りに、体が熱くなるのを感じた。