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鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街でX ―― Pay it forward.
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第七章 別れと恩

 黒塗りのワゴン車の中は、どこか緊張を孕んだ沈黙に満たされていた。

 運転しているのは例によってトッポで、助手席にはリリがいる。後部座席にはニックとシルバーとリュウ、そして六人の子供達。ニックがいささか窮屈そうではあるものの、それでも子供達が小柄なおかげで、なんとか全員座ることができていた。

 最初は大型車両の乗り心地や、窓外を流れる見慣れぬ景色にはしゃいでいた子供達だったが、しかしキメラ居住区を出て一般居住区へと町並みが変化してゆくにつれその口数が減り、今ではみな複雑な表情で黙りこくっている。

 手帳サイズの端末へと目を落としたシルバーは、画面から目を離さぬままに口を開いた。


「……『設定』は、ちゃんと覚えたか」

「は、はい……覚えて、ます、けど……」


 黒髪に褐色の肌を持つ、一番年かさの少年 ―― テジュンが、ためらいがちに答える。

 その他の子供達も、不安げながらもどうにか頷いてみせた。


「お前達の話に齟齬……ズレがあったなら、いずれ不審を招……おかしいと思われるだろう。くれぐれも間違えるな。これからはその『設定』を真実として生きろ」

「わ、わかりました」


 膝の上で両拳を握りしめる少年へと、シルバーはようやく視線を向ける。


「……なにか問題が起きたり、理不じ……ひどい目に遭うようなことがあれば、先ほど渡した番号に連絡しろ。この二人か、そうでなければ私がなんとかする」


 端末を持った手で、リリとニックを指し示す。

 ニックが笑顔で胸を叩き、助手席から振り返ったリリも微笑んで見せる。

 そんな表情を向けられて、子供達の顔が途端にくしゃりと歪んだ。


「そろそろ着きますぜ」


 空気を読みもせず、そっけない口調でトッポが告げる。

 目的地はもう、すぐそこに見えていた。



  §   §   §



 約束の36時間ちょうどに連絡を入れようとしたシルバーを、夜明け前だと制止したリュウにより、二人が再度【Famille(ファミーユ)】の組事務所を訪れたのは、午前中の常識的な時間となった。

 子供達はまだ会議室で過ごしていたが、リリとニックにはだいぶ心を開き始めているようだった。しかし他の獣人種が部屋を訪れると、怯えの色を見せるらしい。トイレやシャワーなどにも常に二人のどちらかが付き添う必要があり、しかも全員で固まって動くことに固執していた。

 それは恐らく、つい先ほどまで共に暮らしていた仲間が、気がつくと姿を消しており ―― そしてすでに生きてはいないのだという、残酷な現実を知らされてしまったトラウマから来るのだろう。

 一度目を離せば、二度と会えないかもしれない。殺されてしまうかもしれない。そういった恐怖が拭いきれないのだ。

 そんな彼らが居場所としているマットレスへと、シルバーは数枚の書類を広げてみせた。

 読み書きができるのは年長のテジュンだけ。それもごく簡単なものにとどまる以上、それは形だけの行為だ。しかし子供である彼らには、判りやすい方法で成果を披露したほうが良いと考えたらしい。


「お前達の、市民権を取る目処がついた」


 そう口火を切ったシルバーは、子供や素人にも判るよう、専門用語を噛み砕くことにいささか手間取りながらも、大まかな内容を説明していった。

 要は、経歴の詐称なのだと。

 彼らはホーフェンゲインで隊商に潜り込み、この都市へも不法に侵入した浮浪児だ。元の都市の市民権は持っていないし、この都市でそれを取得しようというのであれば、相応の保証人なり後見人を必要とする。もちろんそれ以前に、まずは密航と不法侵入の罪を償わなければならない。いわば前科者からのスタートとなる。それでは彼らを保護した意味がない。

 そこでシルバーは、不法侵入自体を『なかったこと』にしたのだ。

 ホーフェンゲインで臓器密売を行っている、当の組織の構成員。その中からごく最近行方不明になった ―― すなわちもはや語る口を持たない者を選び出し、その人物と既に養子縁組が行われていたという形に情報を改竄。そうして義理の親と共にこの都市へ移動してきたのち、親が急に失踪したという偽の記録を作り上げた。

 これにより、不法侵入は行われておらず、その手段となった密航の事実とも繋がりは切れることとなる。

 さらに養子縁組したことでホーフェンゲインの市民権を得てはいたが、カード型の市民証は、親が管理していた。故に失踪と同時に紛失してしまったと主張することで、再発行手続きが可能となる。

 情報(データ)上には偽装した市民権を挿入することができても、市民証という現実(リアル)の物体を偽造することは難しい。ならば正規の手順を踏んで、本物を作らせてしまえば良いという考え方である。

 ちなみに親として、問題の組織 ―― マクダーモット商会に属する人間を選んだ理由はというと、ごく簡単な話だ。間もなく消える商会に関する情報など、どうせすぐあやふやになるというだけのこと。わざわざ掘り下げてまで調べようとする者もいないだろうという話だ。

 付け加えるならば、子供達にはその商会が出資していた『福祉施設』と称する場所で、生活していた実績がある。そこで見初められたのだと拙い態度で言葉にすれば ―― 嘘にもいくらかの真実を混ぜ込めば ―― 捏造した過去の信憑性も増すだろう。

 ちょうどよく行方不明になった者がいたことについては、これもまた不思議でもなんでもない。相手はホーフェンゲインの裏側で、非合法な商売に手を染めていた商会である。死者も行方不明者も、どれにするかと選べる程度には潤沢に存在していた。

 子供達が口裏を合わせるべきなのは、義理の親の名と苗字(ファミリーネーム)、レンブルグに移動してきたとするだいたいの時期、そしてはぐれた親を探している間にキメラ居住区に迷い込んでしまったという、その三点だけだ。この年齢であれば、最低限それだけ覚えておけば、あとはよく判らない、時間の経過と様々な出来事のショックにより記憶があやふやになったで通すことが可能だ。

 そうして行き場もなく彷徨っていたところを善意の第三者に保護された彼らは、自然な流れでこの都市の児童養護施設に入居することができるようになる。

 もちろんのこと、まっとうな運営を行っている場所をシルバーが入念に厳選していた。身元のはっきりした人間種(ヒューマン)の後見がなければ、門戸を叩くこともできない。そんなレベルの施設だ。悪いようにはならないだろう。

 念には念を入れて、ある程度の寄付も添えておけば、この都市出身の通常の孤児達と同程度の扱いは受けられるはずだ。

 なおその『寄付』という名目の袖の下は、リリとニックの懐から出ている。例の『予備費』というやつである。



 淡々と一連の計画を説明したその日の午後には、シルバーは子供達を連れて一般居住区の行政区画まで赴いた。もちろんその際にも車を出したのは【Famille】のトッポだ。しかし役所内まで付き添ったのは、リリとリュウの二人だけに留まった。大柄なニックはあまりにも目立ちすぎるし、組織のトップ二人がそろっていつまでも、ひとつの案件に手を取られている訳にはいかなかったからだ。

 渋々といった表情を隠しもせず送り出したニックと対象的に、リリはいかにも仕事ができる秘書といった風情で、どこか誇らしげにシルバーの斜め後ろを歩んでいた。ロングタイトの上質なビジネススーツで洗練された所作を見せるリリと、同じように身なりを整え上級使用人然としたリュウを従えたシルバーは、どう見てもそれなりの立場にある、無碍に扱ってはならぬ人物と映ったようで。

 保護者と市民証を失った子供達を保護したと窓口で説明し、身元確認と再発行を要求した際にも、係の者は文句ひとつつけることなく丁重に対応した。

 身長の足りぬ子供達のために踏み台まで用意し、順番に手のひらを読み取り機器のプレートに触れさせる。それから端末を操作し、読み取った遺伝子情報と姓名をもとに検索した結果、『 99.99% match(一致)』の文字が表示される。それでホーフェンゲインからレンブルグへと所属を移した市民権の実在が、六人ともに証明された。

 もちろんそれは、シルバーが前もって各所の管理端末に侵入(ハッキング)し作り上げた、偽の ―― しかし形式としては正規のものと等しい ―― 情報(データ)である。

 それらを確認した係員は、親を失くした子供達に同情の目を向けつつも、定められた手続きを事務的に遂行した。

 そうして数分後には真新しいカード型の市民証が一人に一枚ずつ手渡され、拍子抜けするほどあっさりと再発行手続きは終了した。

 珍しげに顔へ近づけたり光にかざす子供達の行動に不審を抱かれぬよう、その日はさっさとキメラ居住区の組事務所へ戻り、その翌日にはもう、こうして養護施設へと向かっている次第である。

 こういったことは、妙な横槍が入らぬうちにさっさと済ませてしまうに限った。下手に時間を置いては、しっかり痛むところのある腹を探られかねないし、【Famille】の日常業務を滞らせるのにも限界があるからだ。



 今回も車に残ったトッポを除く大人四人と子供達が通された応接室は、とても児童福祉施設のそれとは思えぬ、豪奢過ぎない程度に見栄え良く整えられた内装となっていた。それだけでこの施設が、経済的に困窮することもなく、過不足ない資金をもって運営されていることが見て取れる。

 事実この施設に入居しているのは、事故や病気などで庇護する者がいなくなった中産階級の子供達がほとんどで、路上生活をしていた浮浪児など本来なら受け入れてもらえるような場ではない。そのあたりは捏造した、『義理とはいえ以前は親がいた』という経歴と、シルバーの存在が物を言った。


「大変な目にあったね。ここなら、贅沢はさせてあげられないけれど、みんなで仲良く暮らしていけるよ。もう心配しなくて良い」


 温和な面差しの男性職員が、子供達と視線を合わせるように膝をついて、穏やかに話しかける。

 大きく取られた窓の外には、手入れされた庭で、同じような年頃の子供達が他の職員とともに、楽しげに洗濯物を干しているのが見えた。中には転んでしまい、洗い物もろとも泥まみれになってしまった子供もいるが、当人も職員も笑顔のままでいる。

 三人を背後に、一人ソファに腰を下ろしたシルバーが、目を細めながらその様子を眺めていた。

 そんな彼女へと、向かいに座した施設長の老婦人が声をかける。


「確かに、お預かりしましたわ。もしなにかあれば、そちらにご連絡をしても……?」

「ああ、構わん。その折りには、こちらの二人が対応するだろう」


 獣人種であるリリとニックを指し示されて、老婦人は心得たように頷いた。


「見ず知らずの子供達を保護して、こうして連れてきて下さっただけでも、充分にお心を砕いて頂いておりますもの。けして(いたずら)にお手を煩わせるつもりはございません」


 老婦人もまた、彼らをシルバーが雇用している獣人種だと認識したのだろう。細かな雑務は使用人に任せ、主人である彼女はもっと重要な仕事に携わっていると考えたに違いない。むしろ忙しい身でありながら、この場に自身で立ち会っていることに、この施設長は感動すらしているようだ。

 その言動に、裏はない……はずである。彼女を含めた職員の経歴や周囲の評価、施設内の金の流れから、過去にここを利用した者達のその後にいたるまで、徹底的に調べあげたうえで問題がないと判断したからこそ、シルバーはこの施設を選んだのだから。あとはその調査に漏れがなかったことと、彼らが変わらないことを祈るしかない。


 (いとま)を告げ立ち上がったシルバーに続き、他の三人も軽く一礼して応接室を出ようとする。


「あっ……」


 身を寄せ合いながら職員の話を聞いていた子供達が、その姿に思わずと言ったように声を上げた。

 幾人かは無意識にだろう、手を伸ばし、引き止める格好になっている。

 四人は振り返り、子供達を見下ろした。

 しばし複数の視線が交わるが、子供達はなんと言って良いのか判らないらしく、ただ口を開いたり閉じたりしている。

 そんな状況には慣れているのか、職員と老婦人が背後から子供達の肩へと手を回した。


「さあ、お別れを言いましょうね」


 優しい声で促されて、もっとも幼い少女がついに目をうるませた。ふっくりとした丸い頬を透明な雫が伝う。

 わずか数日の間、面倒を見てもらっただけ。それも一人を除けば相手は獣人種だ。

 けれど、かつては路上で大人達から虐げられ、ホーフェンゲインで一時的に暮らした施設でさえも、衣食住こそ保証されていたものの、優しい声をかけられたり、まして抱きしめられたりなどは一切なかった彼らである。そんな子供達にとって、リリの慈母のような態度や、ニックの豪快だがてらいのない笑顔はどれほど心に沁みたことか。

 それはまた、シルバーの素っ気ないながらも真摯に語られる言葉や、リュウのぎこちない気遣いも同じように。


 やがて、リリが一歩を踏み出した。


 ロングタイトの裾を整えながら子供達の前で両膝を落とし、わずかに見上げるような角度で順繰りに全員と視線を合わせてゆく。


「もし、少しでもわたくし達に感謝してくれているのなら……ひとつだけ、覚えていて欲しいことがあるの」

「……ひとつ、だけ?」


 不思議そうに聞き返すテジュンへと、リリは花が(ほころ)ぶように微笑んでみせる。


「『ペイ・フォワード』」


 ゆっくりとそう、口にした。


「前にも姉さまが言ったでしょう? “|Pay it forward.《恩送り》”って。いまは意味が判らなくても良いの。でも、いつかあなた達が大人になった時、その言葉の意味を調べて、そして実行してくれたら、わたくし達はとても嬉しく思うわ」


 その背後では、ニックがうんうんとうなずいている。シルバーとリュウは無言のままだったが、その視線はどこか穏やかな色をたたえていた。



  §   §   §



 先ほどまでとは異なり、空席の目立つワゴン車の中で、みながどこか思わしげに窓の外へと視線を向けていた。

 運転しているトッポだけが居心地悪そうにしているが、他の者達はそれぞれに思うところがあるようだ。

 やがて、口火を切ったのはシルバーだった。


「あの子供達は、この街で学校に入り、一人の人間(ヒューマン)として生きていくだろう」

「……そうね」

「まあ、最初は追いつくのに時間がかかるだろうけど、なんとかなるんじゃねえの」


 今はまだ読み書きも満足にできない状態だが、あの優しげな老婦人や職員らの元でなら、衣食住だけでなく学びに関しても問題はないだろう。あとは本人達のやる気次第だ。そればかりは他者にはどうにもできないことだ。


「……この地区から通える学校には、獣人種が数名在籍している」


 肘掛けに頬杖をつき、外を眺めるシルバーの表情は、誰の目にも映らなかった。


「仲良くやれると良いが」


 リリとニック、そしてシルバーという、人種の隔てを持たぬ存在を知った彼らが、それを覚えていてくれるのか。それとも忘れ去ってしまうのか。

 それもまた、彼ら次第でしかなく。

 それでも、と。

 呟くようなその言葉は、どこか祈りにも似て ――



  §   §   §



 ペントハウスの作業部屋からは、通話装置を使用しているらしい、話し声が聞こえてきていた。

 聞くともなしに聞こえてくるそれを耳にしながら、リュウはリビングのソファで分厚い書籍へと視線を落とす。今日の表紙の飾り文字は、『Aesop’s fables』だ。


「……そうか。こちらでも時おりモニターしているが、今のところ大きな問題は起きていないようだ。自動監視用のプログラムを組み終えたら、あとはそちらに任せようと思っている」


 シルバーの義父が遺したという数々の紙書籍は、さまざまなジャンルの物がとり揃っていた。リュウはその中でもはるか過去の ―― 旧世界においてすら昔と呼ばれた時代の、架空物語を好んでいる。

 どうせ想像もつかぬ世界のことならば、いっそ振り切るほどに現実離れした、それでいて娯楽性に富んだもののほうが面白い。そうしてできれば、幸せに終わる話が良い。そう思い、この都市に移住する際にもそういった傾向の書籍を優先して運び込んだのだ。

 乾いた音をたてて紙面を繰りながら、ゆっくりと文字を追う。


「……そういえば、そちらで借りた設備はなかなかのものだった。汎用品を絶妙なバランスで組み合わせることで、本来の仕様(カタログスペック)以上の性能を引き出している。良い参考になったと伝えておいてくれ」


 会話が終わりそうな雰囲気を感じ取り、リュウはめくったばかりの見開きに、銀色のカードを差し込んだ。飲み物を用意すべく席を立った後では、独特のデザインで狼と月が彫り込まれたそれの、端に結ばれた艶のある黒いリボンが空調の風に揺れている。



 ちょうど区切りがついた時点でリュウが差し入れたミルクたっぷりのカフェオレを口に運びつつ、シルバーは構築中の監視体制を見返していた。

 例の児童養護施設の防犯カメラに連動したそれは、院内で異常と思われる事案 ―― 暴力行為や、不自然に動かないでいる生き物など ―― が検出された際に、警告を発するようプログラミングしてある。なお施設側の許可は、当然取っていない。

こういったプログラムは、エレベーター内などの限られた範囲での運用はそう難しくなかった。しかし活動的な子供が何人も気ままに動き回っている施設全域をカバーするならば、基準値をどの程度に設定するかが考えものである。

 感度を高めすぎて誤検出が多くなれば、どうしても『またか』という先入観(バイアス)が生じてしまい、対処すべき警告を見落とす危険性がある。さりとて検知ができなければ、そもそも設定する意味がない。

 とりあえず現在は、施設内のカメラ映像を解析し、一般的な日常生活における平均的な動きを数値化している最中である。

 画面内に配置したいくつものカメラ映像には、元気に走り回る子供達が様々な角度で映り、その中には見覚えのある顔が満遍なく存在している。どうやら新入りだからと遠巻きにされるような事態は起きていないようだ。

 黒髪に褐色の肌を持つ少年が、弾けるような笑顔を見せている。一番年長だからと気を張っていた彼も、さらに年かさの者や頼れる大人がいる環境で、肩の力を抜くことができたらしい。


「…………」


 本来の名を捨て、選んだその道が、より幸せなものであったならば、良い。

 家族を失い、親族の手で死亡届を出されていたかの少年が、新たに生き直す一助になれたのであれば、それこそが己にとっては恩返し ―― もとい、恩送りとなるのだから。


 そう。

 かつて、今は亡き義父がしてくれたのと同じように。


 この時代、遺伝子情報によって住民の管理を行う都市部において、一度登録された情報は電脳(ネットワーク)上でデータベース化され、複数の都市で共有されている。そして犯罪者の身分詐称などを防ぐため、同じ遺伝子情報を使用した市民権の多重登録は、申請を試みたその時点で該当人物を拘束、事情聴取を行う仕組みが構築されていた。


 しかし ―― 電脳を扱うのは、最終的にヒトだというところに、付け入る隙がある。


 そもそも遺伝子情報、いわゆるゲノムと呼ばれる塩基配列は、人間(ヒューマン)とチンパンジーのそれとを比較した場合でも、わずか1.2%ほどしか差異がない。ましてや同じ人間(ヒューマン)同士であれば、赤の他人であっても99.9%は一致しているという。それぞれの個性は、それ以外の ―― たった0.1%のDNAによって、左右されているのである。

 故に、出生時登録や市民権取得時に必要となる遺伝子情報も、その0.1%の部分のみが使用されていた。

 実際、日常生活で生じ得る様々な手続きにおける本人確認、あるいは扉の鍵や端末のロック解除などで生体認証を行うその都度、共通すると判りきっている99.9%までいちいち照合していては、手間も時間も資源も浪費されるばかりである。必要な部分を必要なだけ利用するというのは、理にかなったシステムだろう。

 ただ電脳というのは、妙なところで融通が効かない。

 DNA全体では、およそ32億文字列ほども存在する塩基対。そのうち個人確認に使用するのは、0.1%の320万対。その中で、わずか一箇所でも一致しない部分が検出されれば、それはもう別の個体なのだと機械的に判断するのである。

 ゆえにあの少年 ―― テジュンの新たな市民権も、遺伝子情報のほんのごくわずか ―― 塩基対十数個ほどを書き換えることで、ホーフェンゲインの管理端末に死者のそれとして記録されているものと、新たに偽造したデータを矛盾なく両立させることができた。


 そしてそこからが、人間心理につけ込む手法である。


 技術的に言えば、ヒトゲノム及び獣人種のそれは全て解析が完了しており、その読み取りも100%可能となっている。しかし一部の研究機関などを除いた世間一般に広く普及し利用されている、いわば廉価版とも言える遺伝子読み取り装置は、常にある程度の誤検知を生じることが想定されていた。何故なら日常的に多くの者が高頻度で触れるその表面に、目に見えぬほどの汚れが付着していたり、読み込ませる試料 ―― 体液や触れさせる皮膚など ―― の状態が、必ずしも万全ではなかったりするからだ。

 たとえ必要なのは全情報のごく一部とはいえ、それでも含まれる塩基対の数は百万単位。そのうちの1つや2つを読み取りきれないことなど、日常茶飯事なのは当然だろう。その度にいちいち警告(アラート)が鳴り、やり直しなどということをしていれば、それこそあらゆる場面で支障が生じてくるのは想像に(かた)くない。

 故に、普段の生活で使用される読み取り機器には、ある程度の『遊び』が設定されていた。

 すなわち、既に登録済みの情報と照合された情報とが100%完全には一致せずとも、99.99%一致していれば、それは登録者本人として認証する、と。

 それが現状、社会を円滑に運営していく上での標準仕様となっているのだ。


 しかし、だ。

 これを逆から考察すると、こうも結論できる。

 遺伝子情報全体の0.1%、その中のさらに0.01%、イコール0.00001%。塩基対に換算して数百個ほどまでであれば、登録済み情報と読み取り情報が毎回一致していなくとも、手続き上は問題なく本人確認が成立するのだ、と。


 行き過ぎた警告が日常的に生じては、『またか』という先入観(バイアス)が働き、逆に信用ができなくなる。

 これはそんな一種の怠惰とも効率優先とも呼べる、意図的な過失(ヒューマンエラー)を利用した抜け道だった。


 ほんのごくわずか、最大でも塩基対百個程度の遺伝子情報を改竄した状態で、テジュンの新たな市民権データを偽造。そして人の目で行われるチェック ―― 99.99%の基準 ―― に引っかかるだろう受付窓口を通すことなく、電脳を介して既存のデータベース内へと直接紛れ込ませる。

 そうすれば、全てが一致することを求める電脳(ネットワーク)上では同一人物を別人と認識し、遊びを許容することで社会を円滑に回す現実(リアル)においては、微妙に異なっている情報を同一のものだと判断する。

 紙 ―― どころか薄紙一重と称してもまだ足りない。しかし一度成立させてしまえば、膨大な情報の中に埋没し、まず露見することのない詐術だった。

 無論のこと、言うほど簡単に行える細工ではない。この方法を思いついた義父の発想も、それを実現させたその技術にも、シルバーはただ驚嘆と敬意を評して(こうべ)を垂れるほかない。

 今回己がやったことなど、ただの猿真似。あと出しの模倣に過ぎないのだから。


 ぐっと、力を込めて膝頭を握りしめる。

 ズボンに皺が寄るほどに強く、渾身の力を指に込めて。


 本当に、あの人は偉大な義父であった。

 身も心も傷つき果てた己を拾い上げ、何を訊ねることもせず。それでいて全てを完膚なきまでに調べ上げ、己が今の己として生きるために必要な手立てを、一片の瑕疵なく遂行してくれた。

 あの義父がいなければ、己などとうにこの世にはいなかっただろう。


 ―― お前さえ、いなければ……ッ!!


 けして忘れることのない、忘れるなど許されぬ叫びが、脳裏で再生される。


 ―― お前なんかに……は、渡さない……!!


 すがるように伸ばされる、包帯だらけの腕。

 己とよく似た面差しの少女が、驚愕に目を見開きながら遠ざかってゆく。

 絶望に満ちた黒い瞳が、最期の最期まで映していたものは……


「…………ッ」


 シルバーは、息を呑んでその背を丸めた。

 左膝を押さえた両手の甲に、額を押し当てる。


 ―― 返せぬ恩は、他の誰かに送ればいい。そういうものであるならば。

 送ることすらできぬそれは、いったいどうすれば良いというのか。


 噛み殺したその苦鳴は、誰の耳に届くこともなく――

この世界における遺伝子情報の取り扱いと、現代日本のDNA鑑定は全く別物です。

この世界ではこういう技術なのだと思って下さい。

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