エピローグ
今日も【Katze】では、シルバーが定位置のテーブルへと腰を落ち着けていた。
キーボードつきの端末でなにやら打ち込んでいるところに、リュウが料理を運んでゆく。
今日のメインは煮浸しらしい。丁寧に湯剥きしたトマトを丸ごとコンソメスープに漬け込んで、冷蔵庫で長時間寝かせたものだ。いったん四つ切りにしたのを元の丸い形に合わせ直し、深皿に盛った上からとろみのある冷たいスープをかけてある。彩りも考えてか、香味野菜が数種類添えられていた。
栄養のバランスを取るためだろう。付け合せのクロワッサンには切れ目を入れ、細かく刻んだハムをクリームチーズで和えたものが詰められている。
置かれたトレイへちらりと視線をやりながらも、シルバーの手は動きを止めなかった。
「あまり温くならないうちに、召し上がって下さいね」
「ああ……これを終えたら、きちんと食べる」
その両手の動きは、心なしかいつもよりわずかに早いようだった。いっさいの迷いがないそれは、まるで型を定められた演舞か何かのようにすら見える。
「急ぎのお仕事ですか」
「いや……例の生徒が、不意打ちを仕掛けてきてな」
「例の生徒というと、先日の……?」
「ああ、鼠種のあの男だ」
キーを打つ音が間断なく響いているが、返答には全く遅滞がない。
「その、大丈夫なんですか」
トッポというらしいその男が仕掛けてきたのなら、それは端末への侵入行為のはずだった。それはこんな場所で、普通に会話しながら対処していて良いものなのだろうか。
シルバーの伎倆に対しては絶対に近い信頼を持っているリュウも、さすがに不安を感じてしまうようだ。
「問題ない。反応速度も判断も、まだまだ未熟だ。先日の課題に出したウイルスプログラムも組んでみたようだが、作りが粗雑すぎる。アンチウイルスなど使わずとも、手動で充分対処可能だ」
ひときわ大きな音でキーが押されたのを区切りとして、手が止まる。
「片付いた」
そうして何事もなかったかのように料理を引き寄せたのを見て、リュウも安心したのかその場を離れていった。
しばらくすると、テーブルに置かれている手帳サイズの携帯端末が着信を告げる。
シルバーが手に取り頭に近づけると、周囲まで漏れ聞こえる大音量の叫びが発せられた。
『てっめー! ふざけんじゃねえぞ!! なんだよこれっ。画面を鼠が走り回るとか、どんな嫌がらせだッ!?』
そんな反応を予測していたのか。端末と耳の間に距離を開けていたシルバーは、しばらくそのまま喚かせていた。
どうやらハッキング ―― ここはあえて、一般的なその表現を使う ―― を仕掛けてきた相手の端末に逆侵入して、画面内へ小さな鼠のグラフィックが無数、無作為に出現して動き回るというウイルスを仕込んだらしい。
「操作上は、なんら問題ない。マシンパワーの消費も最小限に抑えてあるし、仕事に支障は出ないだろう」
『んな訳あるかーーーーッ! ご丁寧に毛づくろいや鳴き声までつけやがって! この状態で仕事に集中なんざできねえわっっ!!』
「ならば頑張って駆除することだ。まあ、放置しておいても、72時間で消える設定にした。たとえ対処できずとも、お前達の不都合には ―― 」
『馬鹿にすんな! ぜってー直して、てめーにも同じことやり返してやる!! 覚悟し ―― ッ』
絶叫にも近い言葉の途中でなにやら鈍い音が響き、不自然に言葉が途切れる。同時に通話も切れてしまった。恐らくは、大騒ぎしているのを聞きつけた誰かから、何がしかの『指導』が入ったのだろう。
端末を置いたシルバーは、再び料理へと向き直りフォークを手に取る。切り分けられたトマトが運ばれる、その口の端がわずかに持ち上がっているのを、常連達の何名かは確かに見届けていた。
その理由が、果たして好物を食べたからなのか、それともまた別のことに由来するのかまでは、うかがい知ることができなかったけれど。
ドアベルが鳴り、新たな客が店内へと足を踏み入れる。
見上げるほどの巨体を軽々と運ぶ男が、当たり前のようにシルバーの向かいの椅子を引き、腰を下ろそうとした。
「……先約がある。その席は空けておけ」
クロワッサンをちぎる手を止めぬまま、シルバーがきっぱりと言い切った。
大男 ―― ニックの数歩後ろに付き従っていた男が、いかにも不愉快げに顔をしかめる。そうして何かしら抗議めいたことを言おうとするのを、ニックはただひらひらと手を振って制止した。素直に通路を挟んだ、隣のテーブルを選ぶ。連れの男も不承不承、ひとつ間を置いた席へと座った。
「なあなあ、ねーちゃん。こないだの話の続きなんだけどさ」
注文もそこそこに身を乗り出し、話しかけようとするニックを遮るかのように、またもドアが開閉した。
「こんにちわー! オレね、今日はハンバーガー食べたいっ」
店内にいる全員への挨拶と昼の注文をまとめて元気良く叫んだ子供は、小走りに駆け寄ってくると、シルバーの向かいの椅子へ飛び乗るように座を占めた。勢い余った両足が、ぷらんと大きく揺れる。ノートと筆記具と教科書を持って来ているあたり、またいろいろと教えてもらう気、満々でいるようだ。
先ほどは空けておけといったその席を使った子供を、今度はシルバーが咎めない。そのことに離れたテーブルにいた男は、ますます苦虫を噛み潰したような表情となる。しかしニックはむしろ面白そうに、その様子を眺めていた。
そんなニックを、子供 ―― 二〇三号室の住人でアンヌの甥であるルディは、不思議そうに見上げる。
「えっと、誰……です、か?」
ほぼ毎日【Katze】で食事を摂っている彼にとって、この店は第二の家と言って良い。たいていの客とは顔見知りだし、たまたま訪れただけの一見やまだ馴染みのない者は、すぐにそうと区別できる。それはそれで良いのだが、そんな人物に楽しそうに見られているのが不可解だったようだ。
「……私の、昔の友人だ」
「ニックってんだ。よろしくな、ボーズ」
シルバーの説明を補足するように、ニエルクーティアヌトスがにっかり笑って自己紹介する。
そうなのかと納得したルディは、名乗り返して挨拶した。
「ルディ=ダンです。よろしく!」
「おう! 元気でいいなっ」
ニックが太い腕を通路越しに伸ばし、ルディの髪をわしわしとかき回すように撫でる。アヒムの背を叩いた時とは異なり、その仕草は妙に手慣れたような、適度に加減の効いたものだった。ちらちらと様子をうかがう一同は、ちょっと意外さを覚えてしまう。
キーボード付きの端末を鞄へしまい込んで場所を空けたシルバーは、ルディが置いた教科書に手を伸ばしていた。
「今日は語学か」
「あ、うん。あのね、ここのところなんだけど……」
ぱらぱらとめくって内容を確認しているその手元を、向き直ったルディがテーブルに手をついてのぞき込んだ。
紙面を指さし、なにやら一生懸命説明する子供の話を、シルバーはごく真面目に聞いている。そうしていくつか質問を挟むと、しばし口唇を人差し指でなぞりながら思案し始めた。
そんな彼女の姿を、頬杖をついたニックは、どこか懐かしげな表情で見つめている。
「……ほんっと、ねーちゃんは変わんねえなあ」
そう独りごちる彼の眼差しは、目の前の光景と同時に、どこか遠い別の場所をも映しているかのようで。
そうやって彼は、ルディが勉強を教わっている光景を、飽きもせずいつまでも、隣の席で眺め続けていたのだった ――
〈 鵺の集う街でIX 終 〉




