第一章 襲来
打ちっぱなしの壁がむき出しになった殺風景な部屋には、しかし座り心地の良さそうな背もたれ付きの椅子と、広い机が設置されていた。
その上には多くの端末が並び、さらに足元や床にまで置かれた機材と、何本ものケーブルで接続されている。いずれも旧式で、けして性能の高いものではなかった。しかしそれらをいくつも繋いで増設することにより、それなりの水準に到達させているようだ。
椅子に座り、背を丸めるようにして画面を覗き込んでいるのは、獣人種の男だった。
灰色の髪を首の後ろで束ね、細めた糸のような目で流れる文字を追っている。両手が舞うかのごとく動き、よどみなくキーボードを操作していた。
薄い口唇の端が、にやりとつり上げられる。
「 ―― 舐められたモンっすね。この程度のセキュリティなんて、軽い軽い」
次々と情報を引き出しては、自身の端末へと複写してゆく。そんな男の傍らには、ひとりの女が立っていた。
胸の前で腕を組み、画面と男を見下ろしている。モニターの光を反射して明るい茶に輝く瞳は、瞳孔が縦に長い。
その瞳からも表情からも、彼女が何を考えているのかは伺い知れず……
いつものように、作業部屋の座り慣れた椅子で仕事をしていたシルバーは、絶え間なくキーを叩いていた指を、前触れもなく停止させた。
「 ―― ふむ」
いくつかの操作を試みたのち、わずかに首を傾ける。後ろでひとつに束ねたその黒髪が、さらりと肩口からこぼれ落ちた。
それから彼女は、再び入力を再開する。その速さは、先ほどまでよりもいくぶんか増しているようで……
§ § §
昼を過ぎて空席の目立ち始めた【Katze】に、新たな客が訪れた。
入口をくぐった所で足を止め、物珍しげに店内を見まわしている。
この時間帯、店にいるのはたいていが顔見知りの、常連達である。その誰もが、その男には見覚えがなかった。見上げるほどの ―― それこそニシキヘビのジグよりもさらに高い長身に、胸の厚いがっちりとした体格。半袖シャツからのぞく二の腕の筋肉が太く盛り上がり、太ももに至っては、ちょっとした女性の腰回りほどもありそうだ。
短く刈り込まれた黄色い髪に、黒と白の房が混じっているあたり、虎の獣人だろうか。いかにも腕っぷしの強そうな男である。
ジグなど一部の客達は、わずかに警戒を滲ませた。
体格のせいか、やけに目を引く存在感がある。ひと目見たら絶対に忘れないだろうと思わせられる、そんな雰囲気を男が発散させていたからだ。
しかし当の本人はと言うと、そんな自覚などまるでないようであった。
しばらくきょろきょろと首を動かしていたが、やがておとなしく手近なテーブルを選ぶ。あまりの体格に椅子を軋ませてしまい、慌てたように腰を浮かせる様などは、意外と普通の、むしろ子供っぽささえ感じさせる行動だ。
単に、初めて訪れた店が珍しかっただけなのか。
落ち着きなく黒板のお勧めメニューを覗き込んだり、水を運んでいったアウレッタへと日替わり定食を注文している男に、客達もやがて興味を失い、それぞれの手元へと注意を戻していった。
それから、どれぐらいが過ぎただろう。
ドアベルがまたも揺れる。
少し遅めの昼食にと現れたのは、もはや常連みながその存在を ―― 少なくとも負の方向には ―― 特別視しなくなった、このビルの家主であった。
いつもの時間、いつもの席へ向かって、タイル張りの床へと杖をつきながら歩む。左足を引きずりながら、上体をわずかに左右へ揺らすその歩き方も、もはや誰もが見慣れたもので。
しかし ――
それまで旨そうに定食を口に運んでいた男が、勢いよく立ち上がった。
ただでさえ大きな丸い目を、さらに大きく見開いている。シルバーを凝視した男は、その全身をわなわなと小刻みに震わせていた。
店内にいた者達は、思わず舌打ちする。最近はさまざまな噂が広まったせいか、人間種嫌いの一見客はとんと現れなくなっていた。たまに訪れる新顔は、逆に変わり者の人間をひと目見てやろうという、度胸試しめいた場合が多く。面倒を起こす輩もある程度はいたが、それも一人や二人であれば、みなで力を合わせて追い払うのに苦労はなかったのだが。
しかしここまで体格のいい男が相手となると、さすがに面倒なことになりそうだ。
ひとまずは間に入ろうかと、数人が椅子から立ち上がりかける。しかしその判断は、少しばかり遅かった。
みな、最初は罵倒からだろうと予想していたのを裏切り、男は目にも止まらぬ速さでシルバー目掛けて突進していったのだ。
その太い両腕が、掴みかかるように細い身体へと伸ばされる。
そうして男は ―― 彼女を高々と両腕で抱え上げた。
「生きてた! ほんとに無事だったんだなッ!!」
明るく朗らかな声でそう叫ぶ。
そこには、負の感情など、ひと欠片もなく。
両脇に手のひらを差し込んで、まるで天へと掲げるようにしたシルバーを見上げて。男は輝かんばかりの満面の笑みを、いかつい顔に浮かべてみせた。
「 ―― セルヴィエラ、ねーちゃんっ」
そう言って、彼女の身体を大きく上下させる。
まるで羽毛でも扱っているかのごとく、重さを感じさせない仕草だった。あまりにも軽々としすぎていて、今にもシルバーの頭部が天井にぶち当たるのではないかと、見ている者達は別の意味で気を揉んでしまう。この店がもともとホテルの食堂で、空間を広めに作られていたのがもっけの幸いであった。
そんなことを考えてしまったせいで、男が放った呼びかけの意味に、気づくのが遅れる。
え? え!? と一同が混乱し始めた頃、今度はシルバーを持ち上げたまま、男がその場で回ろうとした。
まるでお気に入りの玩具を手にした幼子が、あたり構わずはしゃぎまわっているといった風情だ。
そんな彼の頭髪を、シルバーが掴む。
かなり無造作に髪を引っ張られて、大男はようやく動きを止めた。強引に上向かせたその顔を、シルバーは真顔でまじまじと見下ろす。男は特に怒るでもなく、無邪気な表情のまま見上げていた。
瞳孔の区別も難しい漆黒の瞳と、明るい茶色の丸い目が、互いの姿を間近から映し合う。髪を離したシルバーの右手がつとすべり、男の左耳へと触れた。獣人種特有の、先端が尖った長い耳。その先端が、少しばかり欠けている。
「……ひとつ、訊いてもいいだろうか」
「ん、なに、ねーちゃん」
シルバーの問いかけに、男は一瞬の躊躇もなく首肯する。
「…………五丁目の角の、二番目の溝蓋が裏返っていたら、お前はどうする?」
その瞬間、店内にいた者達の脳裏を飛び交ったのは、盛大な疑問符であった。
まったく意図の掴めない、ふざけていると怒りを買ってもおかしくない言葉だ。けれど男は、待ってましたとばかりに口を開く。
「今日のメシは確保できたから、無理をしないですぐ戻る!」
高らかに告げられた内容は、さらに輪をかけて意味不明であった。
それを聞いたシルバーは ―― ゆっくりと一度、目蓋を下ろす。
そうして深く、深く息を吐いてから、再びその目を開いて男を見返した。
「お前こそ、よく生きていたな。……ニエルクーティアヌトス」
まるで呪文か何かのような、長く発音しにくい、その呼びかけ。男はどこか照れくさそうに、声を立てて笑った。
常連達は完全に置いてけぼりとなっていたが、シルバーはふと気がついたように視線を動かし、男に抱えられたまま傍らを見下ろす。
「問題ない。知己だ」
言われてその視線を追うと、いつの間にそこまで近付いていたのか。どこからか特殊警棒を取り出したジグと、カウンターから飛び出してきたリュウが、すぐにでも組み付ける位置で男を睨みつけていた。
そんな二人へと、男は何のてらいもない態度で声をかける。
「おう! あんたらが、今のねーちゃんの【ファミーユ】か?」
突っ込みどころがあまりにも多すぎたが、とりあえず最後の単語だけをリュウが繰り返した。
「ファミー、ユ?」
「『仲間』で、『家族』ってことさ!」
飾らない、ごく当たり前のことを言う口調で返される。
「な、ねーちゃんっ」
確認をとってくる男の肩を、シルバーは軽く数度叩いた。それからまずは降ろせと端的に告げる。
すると男は、抱き上げた時の激しさとは裏腹に、思いの外そっと、まるで壊れ物を扱うかのような手付きでシルバーの身体を低くした。その靴底が床を踏んだのを確認しても、太い腕を胴体へと回したまま、支えるのを止めない。
「あ、あの……オーナー、これ……」
恐る恐るといった様子で近付いてきたのは、アヒムだった。その手には、抱き上げられたはずみに手放してしまったらしい、シルバーの杖が握られている。
「ああ、ありがとう。誰かに迷惑をかけは ―― 」
「や、それは大丈夫ッス、けど」
シルバーは、律儀に礼を言って手を伸ばす。アヒムもそれにはもう慣れていたが、正体不明の大男が恐ろしすぎて、完全に腰が引けてしまっている。できるだけ端の方を持って、精一杯遠くから渡そうとするアヒムへと、しかし男の方が敏感に反応した。
「あ、三毛猫の男ってことは、お前がねーちゃんを守ってくれたってヤツだな? ありがとうよっ!」
大きな手のひらで、ばんばんと背中を叩いてくる。
その怪力に、アヒムは簡単によろめいてしまった。息が詰まって咳き込みそうになる。
シルバーが、わずかに目を細めた。
「……ニエルクーティアヌトス」
低い声で呼ばれ、男が腕の中を見下ろす。
「それだけ成長したのなら、力加減は適切に行え。相手が怪我をするぞ」
「あー……それ、よく言われるけど、そんなに強くしてねえよ?」
途端にきまり悪げな表情になった男へと、シルバーは淡々とした抑揚の少ない ―― それだけに威厳を感じさせる声音で続ける。
「お前にとってはそうでも、相手とは身体構造が違うということもある。それから、なにかしら行動を起こす際は、いったん立ち止まってよく考えてからにしろと、何度も教えたはずだが」
「う……ご、ごめんってば」
大きな身体を縮めるように背中を丸め、男が謝る。
眉尻を大きく下げた表情は、完全に叱られる子供のそれであった。
「で、でもさ。だって、ねーちゃんが見つかったって、そう聞いたから……」
「 ―― 会わせる場所と時間と面子は、こっちで決める。そう伝えたはずだぜ?」
唐突に割り込んできたのは、怒りを孕んだ低い低い男の声だった。
耳にするだけで、背筋に冷たいものが生じるほどの迫力。とっさにジグと男が身構え、他の客達はわずかに後ずさったほどである。
「てめえ、俺の行きつけの店で、俺の患者に何してくれてやがるんだ」
店の入口に立っている白衣姿の青年は、向かいにある診療所の主だった。騒ぎを聞いて駆けつけたのだろうが、その形相と黒に近いワインレッドの開襟シャツ、そして無造作に掴んだ治療用のメスが相まって、それこそ裏社会の人間にしか見えない。
「事と次第によっちゃあ、その耳、左右お揃いにしてやっても良いんだぞ」
丸いレンズ越しにも判る尖った眼光と、持ち上げたメスの鋭い刃先が重なる。
さすがにたじたじとなった男が口を開こうとした時、そこへ被せるようにして、さらに別の声が発せられた
「……その点に関しましては、重ね重ね、謝罪申し上げますわ。ドクター・フェイ」
どこか焦りを滲ませながらも、気品を失わない落ち着いた発言。
フェイが振り返ると、その背後には若い女が一人と、彼女を守るようにして立つ数名の男達がいた。
§ § §
フェイを制止した女性は、落ち着いた色のスーツをまとった獣人種だった。赤みがかった金髪を髪留めできっちりと結い上げ、スクエアフレームの眼鏡をかけている。その目は大男と同じ明るい茶色をしていたが、輪郭を含めことさら丸みが際立つ男のそれとは異なり、切れ長で瞳孔も縦に細かった。
連れの男達もみな、獣人種である。
控えめに一歩退いてこそいるが、有事の際はいつでも飛び出せるよう備えているのが、ドクターやジグなどには見て取ることができた。
「どういうことだ、リリ。話が違うじゃねえか」
大男と彼女の両方が視界に入るよう、フェイは数歩店内へ移動し、立つ角度を変えた。まだ低い声のまま、メスを胸元に構えている。
医師であるフェイにとって、己の患者の容態こそが、最も優先すべき事柄である。つい先日誘拐されたばかりで暴行すら受ける寸前だったシルバーは、たとえ外面的には平静を保っていたとしても、心身共にかなりの負荷がかかっているはずだった。そのうえ様々な事情も鑑みると、もう少し時間を置き、信頼できる相手と安全な場所を確保してからでなくては、とうてい他者と引き合わせるなどできないと考えていた。
そして彼女は、それで良いと確かにうなずいたのだ。覚えがないだの口約束だなどと、ふざけたことは言わせない。
怒気をあらわにするドクター・フェイへ、リリと呼ばれた女性は深くその頭を下げた。両手を腹の前で重ね、きれいな姿勢で謝意を示す。
きっちり数秒その体勢を維持してから、ようやく面を上げた。薄化粧を施された顔には、真摯な表情が浮かべられている。
「本当に、申し訳ありませんでした。そちらからの連絡をお待ちする間に、こちらでもそれなりの段取りを整えようとしていたのですが……」
そう言って、ちらりと大男の方を見やる。べっ甲を模した樹脂製の眼鏡越しに、その目がわずかにすがめられた。
「担当の者が打ち合わせているのを、偶然『それ』が耳にしてしまいまして」
穏やかだった声に、わずかに苛立ちのようなものが混じった。
それを取り繕うように、リリは一度うつむく。
「こう申し上げてはなんですが、彼にはいささか直情径行なところがありますの。それで、話を聞いた途端、居ても立ってもいられなくなったようで……」
「『普通に、直接顔を見に来た』ってか?」
先日の通話で告げられた言い回しを、ドクターが当てつけのように引用した。
「はい。まことに失礼をいたしました」
素直に受け入れ詫びを繰り返す。そんな彼女の態度に、背後の男達はどこか不満めいたものを漂わせていた。たとえ相手がドクターとは言え、どこまでも下手に出ているのが気に食わないようだ。その原因となる目的の人物が、人間種であるというのも理由の一端なのだろう。
しかしリリは丁重な態度を崩さぬまま、視線をドクターからシルバーの方へと移動させる。
大男 ―― ニエルクーティアヌトスに支えられて立つ、黒髪の人間女性。その右手には、U字型のカフのついた杖が装着されており、不自由な左足を補っている。
リリはゆっくりと右手を上げ、眼鏡を抜き取った。あらわになったその素顔は、意外なほどに若々しい。年齢的にはシルバーよりも、わずかに下。アヒムと同年代ぐらいだろうか。背後に男達を従えるような、それなりの立場にある存在だとはにわかに信じがたい。
右目の下、ちょうど眼鏡の縁で隠れるあたりに、小さな傷痕があった。ミミズ腫れとなって盛り上がったそれを、化粧だけでは誤魔化しきれないのだろう。
あらわにされた傷を目にしたシルバーは、大男の腕の中でわずかに身じろぎした。そうしてゆっくりと一度、瞬きをする。
「……メイリールゥリリアラルーナ?」
またも呪文を思わせるその響きに、リリの背後に立っていた男達が、いっきに殺気立った。それまで抑えていた不満を爆発させたかのように、大きく口を開け何かを叫ぼうとする。
「おやめなさい!!」
わずかに早く、リリの鋭い一喝が空気を震わせた。
「……で、ですが」
「あの呼び方は ―― 」
肩越しに振り返った彼女に対し、男達は口々に訴える。
「ええ。わたくしをそう呼んで良いのは、ごく限られた人物だけ。他の者が口にするのは許さないわ」
そう告げて、彼女は再び前方へと視線を戻す。
シルバーに向かってまっすぐに ―― まるで花が咲きほころぶかのような、美しい微笑みを浮かべる。
「だから、良いの。そうでしょう? セルヴィエラ……姉さま」
万感の思いが込められた呼びかけに、シルバーは小さくため息を落とした。
「……お前もまだ、私をそう呼ぶのか」
「当然だわ、姉さま」
リリはその場で両手を広げ、シルバーへと質問を投げかける。
「再会を、喜んでも構わないかしら?」
どこかいたずらっぽい口調での確認に、シルバーは一度その動きを止めた。が、すぐに再起動すると、右腕から杖を外し、傍らのテーブルへと立てかける。
空いた両腕を、リリと同じように広げてみせた。
それを許可と、受け取ったのだろう。
リリはパンプスの踵を鳴らし、シルバーへと全力でぶつかっていった。
似たような体格の相手に突進されて、シルバーは当然ながら受け止めきれない。しかしそんな彼女ごと二人をまとめて、背後の大男 ―― ニエルクーティアヌトスが抱え込む。
「本当に、生きてたなんて……!」
「それは、こちらの台詞だ」
「会いたかった! ずっと、ずっと……っ」
感極まって肩に顔を埋めるリリの後頭部へと、シルバーの手が静かに乗せられた。きっちり整えられた髪を乱さぬよう、不器用に撫でる。そんな彼女の逆の肩に、背後からニエルクーティアヌトスが額を擦り寄せた。
「へへ……おれも、会いたかった……会いたかったんだよ。ねーちゃん……」
くぐもったつぶやきは、わずかだが鼻声になっている。
そんな、予想外すぎる展開に、男達はもちろんのことドクターを含めた店内の全員が、困惑したように立ち尽くすしかできずにいた。




