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鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街で
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第六章 記憶と夢

 気がついた時には、腐臭にまみれてゴミの中に埋もれていた。

 全身の、どこもかしこが痛みを訴えて。少し身じろぎするだけで、こらえ切れない呻きが漏れた。

 苦痛には、ずいぶん慣れたつもりでいたけれど。それも思い過ごしだったのだろうか。


 ―― ああ、でも。


 もう、そんなことすら、どうでも良いのかもしれない。

 自分がいたのは、確かに根底から腐ったろくでもない場所だったけれど。それでも上辺だけは、きらびやかに飾り立てられていた。あそこでは、こんな臭いが漂っていることなど、けしてありえなかった。

 ならば自分は、ついに廃棄されたのだろう。未だに生きているのは不思議だったが、あるいは殺す手間すらも惜しまれて、他に捨てられている死体達と一緒くたに扱われているのか。

 なんにせよ、このまま目を閉じていれば、いずれは処分の順番が回ってくるはずだ。

 それで忌々しい、この人生も終わりを告げる。

 そう思って、遠のきそうな意識をそのまま手放そうとした、まさにその時 ――


「あんた、大丈夫かい! 生きてるのかい!?」


 甲高い声が、突き刺さるように耳へと届いた。

 続いて身体が激しく揺さぶられる。忘れかけていた痛みがぶり返して、喉の奥から悲鳴がこぼれ落ちた。


「ああ、死んでないね。待ってな。いま先生を呼んであげるから!」


 すぐ近くに存在する生命の気配に、なんとか意識の焦点を合わせようと試みる。

 錘を下げたかのような重い目蓋を、無理矢理にこじ開けて。かろうじて瞳に映すことができたのは、小太りの体型をした、年配の女性のキメラだった。洗いざらしの地味な服装に艶のないエプロンをひるがえし、今にもどこかへ走り去ろうとしている。

 そんなキメラなど、これまで見たことがなかった。

 特権階級を気取るあの人間共は、視界に入る獣人種が醜いのを、けして許そうとしない。

 太っているなど言語道断。年齢すら、よほど並外れた美形でもない限り、三十を過ぎる頃には処分の対象とされていた。

 まして、あんな粗末な衣服を着せられるなど、どんな下級の召使いであってもありえない。それではあの飼い主は所有するキメラを飾るセンスも財力もないと、他の人間達にそう見なされてしまうからだ。だからどれほど低級の、手酷く扱うことを目的としたペットであっても、人前での外見だけは豪華に取り繕わせているはずなのに。

 それとも自分は、夢を見ているのだろうか。

 死の寸前に訪れるという、現実とも見まごう、リアルな幻想。

 走馬灯とも称されるそれは、己の人生を振り返るものだと聞いていた。しかしまさか、こういった代物だとは思ってもみなかった。

 深く深く息を吐いて、全身から力を抜く。

 その耳に、バタバタという、複数の足音が近づいてくるのが聞こえてきて ――



 運び込まれた医師のもとで、事態を理解するのにしばらく掛かった。

 ここは、自分がいたはずの都市ではなかった。

 信じられないことにこの都市 ―― レンブルグでは、キメラにも基本的な人権が認められ、市民権すら与えられているのだという。お前の服に入っていた、お前のものだと渡された市民証には、知らない名前とともに、確かに自分の遺伝子情報が登録されていた。

 日付を聞けば、自分の認識している時間から、ゆうに二年が過ぎている。

 ドクター ―― 彼さえもがキメラだ ―― によると、全身の打撲や骨折、内臓の損傷に加え、頭部にもひどい衝撃を受けた形跡があったという。そのせいで記憶が一部、曖昧になっているのだろうと診断された。

 それでも市民証があるのだから、この都市で暮らすことはできる。保証人がおらず来歴も判らないため、忘れてしまったパスワードの再発行手続きや登録情報の更新こそできなかったが、それでも市民証を持っているだけで、最低限の身の安全は保証された。

 そしてありがたいことに、自分をゴミ捨て場で見つけたというカフェレストランの女将アウレッタが、寝る場所と仕事と食事まで世話してくれたのだ。

 そのままでは、ただでさえまともとは言いがたいキメラが就ける仕事や住める部屋の中でも、さらに表沙汰にはしにくいような、難や訳のあるものにしか関われないだろう。そう言って、自分が管理を任されている建物の物置を使うように言い、管理人としての仕事やレストランの手伝いをする代わりに、金銭と食事を与えてくれたのである。

 あれからもう、一年以上が経った。

 アパートの住人や常連客達と少しずつ顔馴染みになり、必要な時には話もするようになった。

 三ヶ月ほど前には、ビルの持ち主が建物全体を売り飛ばすという、職場と住処をまとめて失いかねない危険にも陥ったが、幸いにも買い手が現状維持を選択したため、変わらぬ生活を続けて行けている。

 とは言えそれも、いつ何時(なんどき)奪われるか知れないものだった。

 今の暮らしは、まるで薄氷を踏むかのような、あやういバランスの上に成り立っている。

 新しい家主であるあの人間(ヒューマン)。すべては彼女の気分、ただそれひとつに左右される程度の不安定な代物なのだ。

 できれば、いつまでもこの日々を続けていきたいと、そう願っている。

 かつてと比べれば、まるで夢のような、今の暮らし。

 ……それとも現在のこの毎日の方が、やはり夢なのだろうか。

 自分は今も、虚飾に満ちたあの都市の死体捨場で、腐臭をまといながら埋もれているのだろうか。

 そうして幸せな幻を見ながら、解体処理の時を、ひたすらずっと待ち続けているのだろうか ――



   §   §   §



「……リュ……さ……リュウさん!」

 名を呼ばれて我に返ると、もうもうと立ち昇る白煙と焦げ臭い匂いがあたりに漂っていた。

 マッシュポテトを混ぜた特製パンケーキになるはずだったフライパンの中身は、既に無残な黒い物体と化している。慌てて加熱調理器を止め、煙を上げるフライパンを流しの中に突っ込んだ。

「大丈夫ですか、リュウさん。顔色が良くないですよ」

 キッチンカウンターの向こうからそう尋ねてくるのは、二十代の初め頃と見える、美しい獣人種の女性だった。種族は第一世代のアフガンハウンドだと聞いている。癖のない真っ直ぐな白い髪が、清水の流れのように肩から胸へと流れ落ちていた。睫毛の長い瞳は淡い水色で、どこまでも清楚な印象を周囲に与える。

 ―― この美貌であれば、どんな飼い主でも上機嫌で側に(はべ)らし、会う相手すべてに自慢するだろう。

 とっさにそんなことを考えてしまい、かぶりを振って脳内から追い払う。

 彼女の名はクラレンス=シャン。ドクター・フェイの診療所で助手を務めている、看護師だった。

 以前は他の都市で人間に所有されていたが、扱いはそう悪くなかったらしい。飼い主だった老人が死を迎えるにあたり、レンブルグの市民権を与えて解放してくれたのだという。長らく老人の介護をしてきた経験から、フェイの元で勤め始めた時も、飲み込みが早かったそうだ。

 観察するようにまじまじと見つめてくる水色の瞳を、リュウは俯いてかわそうとする。

「……少し、考え事をしていた」

 小さくそう言ってみるが、クラレンス ―― レンは誤魔化されなかった。

「昨夜も眠れなかったんですか?」

 嘘は許さないと、伸びた前髪で半ば隠された顔を覗きこんでくる。

 リュウはしぶしぶ答えを口にした。

「眠った……と、思う」

 ただ、少しばかり夢見が悪かっただけだ、と。

 リュウは死体置き場の光景や過酷だった以前の生活を、今でも繰り返し夢に見た。夜中に一人で目を覚ますと、果たして昔のことが夢だったのか、それとも今のこの状態が夢なのか、判らなくなる場合も多い。

 自分はいま起きているのか、それとも眠っているのか。

 起きているのなら眠らなくてはいけない。しかし眠ればまたも、辛い記憶を追体験する。

 感情に任せて叫びたくなる夜もあったが、安普請のアパートで、他の住人に迷惑をかける訳にも行かなかった。仕方なく丸めた上掛けに顔を押し付けて、悲鳴を殺しながらひたすらに夜明けを待つ。

 今もリュウの目の下には、濃い隈が浮かんでいた。

 それを見て取って、レンは悲しげなため息をつく。持っていた紙の袋を、そっとカウンターに乗せた。

「追加のお薬です。今週お出しできる量はそれが限度ですから、くれぐれも飲みすぎないで下さいね」

「……努力する」

 睡眠薬の入った袋を持ち上げて、尻ポケットへ無造作に捻じ込んだ。

 夢さえ見ないほどに、深く眠りたい。そう思えばこそ、つい規定よりも多くの量を飲んでしまう。夜中に起きてしまった時は、特にそうだった。そんなことをすれば足りなくなると判っていても、やめられない。そうして一週間の終わりが近づく頃には、ほとんど眠れなくなる。結果としてカウンセリングを入れている定休日前にはミスが続きがちになったが、事情を知っているアウレッタや常連達は、見て見ぬふりをしてくれる。それがまた、ありがたくもあり、申し訳なくもある。

 ここ数日は、特にひどい悪夢が続いていた。そのせいで定休日までまだ二日ほどあるのに、手持ちの薬が切れてしまったのだ。本来なら自分で追加分を取りに行くべきなのだが、今日は何をするにも手間取って、どうしても時間が取れそうにない。しかし薬なしで夜を過ごすなど、とても耐えられるものではなかった。そこでドクターに連絡を入れ、わざわざ店まで届けてもらったのだ。重ね重ね迷惑をかけ続けている。

 ふ、と。

 息苦しさを覚えて、首元に手をやった。

 指に触れるのは、きつめに締めた、紺色のコックスカーフ。

 この街に住むキメラ達の多くは、首に何かつける行為を好まない。スカーフも、ネクタイも、可愛らしいデザインをした細身のネックレスでさえ、誰もができる限り避けようとする。リュウのように、常にきっちりとスカーフを巻いているのは、ひどく目立つ風体だった。

 その結び目に指を突っ込んでみても、息苦しさは変わらない。当たり前だ。首を絞めているのは、こんな布切れ一枚ではないのだから。

「リュウさん……」

 痛ましげに向けられる、レンの眼差しがどこか煩わしくて。

 リュウは蛇口をひねり、まだ熱いフライパンに冷たい水を流し込んだ。激しい音がして水蒸気が上がり、レンの瞳もリュウの表情も、すべてを覆い隠してくれる ――



 その日の夕食時には、初めて見かける客が何人もいた。

 どうやら常連がどこかで【Katze】の料理を盛大に褒めたらしい。それを耳にした者達が、仕事帰りや早くも一杯ひっかけた後に足を運んでくれたようだ。幸いどの客にもおおむね好評ではあったが、いつもよりも人数が多いだけに、ただでさえ寝不足のリュウにはいささか負担が大きかった。

 カウンターもテーブルも詰めるだけ詰めてもらって、それでも満席になった。オーダーストップの時間が近付く頃になって、ようやく一人二人と席を立ち始める。すぐ真上や近所に自宅があって、ゆっくりと居座ってゆくいつもの面々が、やっとのことで目につき始めた。

 そうして20時。

 計ったかのように、ドアベルが鳴る。

 常連の客達は、もはや顔を上げようともしない。きゅっ、きゅっと。杖先が床のタイルを擦る音が、かすかに響く。

 しかし ―― いつもであればまっすぐ奥の、カウンターに一番近いテーブル席に向かうその音が、半ばでリズムを変えた。

 その不自然さに気がついて、何人かが食事の手を止め目を向ける。

 今夜は明るい藤色の上下にオフホワイトのカットソーを合わせたシルバーが、左手に空になった保温ポットを提げ、混雑した店内をゆっくりと見わたしていた。

 そろそろ()き始めたとはいえ、まだどのテーブルも相席を頼んでいる状態だ。ひとつまるまる空いている場所など、あるはずもなく。

 だがさすがに毎日のように顔を合わせてきた常連達でさえも、彼女と同じテーブルを囲めるほどその存在に慣れ、また度胸を据えられた者は少なかった。いるとすればせいぜいルディ少年とドクター・フェイ、あとは見かけによらず豪胆な部分を持つレンぐらいである。その誰も、この時の店内には存在しなかった。

 空いた椅子があるテーブルの者は、慌てて視線が合わないよう、目を伏せたり明後日の方向を見たりする。まして今夜初めてこの店を訪れた客などは、突然現れた人間(ヒューマン)の姿に、硬直したり喉を詰まらせ激しく咳き込んだりしていた。


「……いらっしゃいませ」


 客をいつまでも立たせておく訳にはいかないが、アウレッタは会計が忙しくて手が離せないでいる。しかたなく空になった皿を下げていたリュウが、シルバーへと近づいた。

「ずいぶん混んでいるな」

「……申し訳ありません」

「席はあるか」

「それは……」

 どう答えるべきか迷う。

 ない、と断ったところで、あるいは彼女ならば怒らないかもしれない。しかしそれは、あくまでも希望的観測だった。そもそも、空いている椅子は少ないながらも存在しているのだ。それが彼女の目にも映っているのだから、ここで『ない』と断じるのは、こちらが彼女を迷惑に思っているという本音が、あからさまに透けて見えるだろう。

 そもそもだ。

 通常の人間(ヒューマン)であれば、たとえ食事中であろうがなんだろうが当然のように己を優先させ、キメラに席を空けろと一方的に命じるものだ。こんなふうに、こちら側へと判断を委ねる真似など最初からしない。

 ……いや、さらに突き詰めれば、普通の人間ならまずこんな店には足を踏み入れたりしないのか。

 速やかに何かしらの形で対処しなければならないのだが、疲労の蓄積した脳味噌は、なかなかこれといった方法を弾き出してくれない。焦る感情はますます焦りを増幅させ、リュウは同じ台詞を繰り返す。

「……申し訳ありません」

「謝罪の必要は、別にないが……」

 言葉を切って、シルバーは再度店内を見まわした。

 空席は確かに、いくつか存在している。ただしどうしても誰かと相席になる形だ。そして人間と席を同じくしたがるキメラなど、今の店内には一人もいなかった。

 ふう、とシルバーが息を吐く。その動作だけで、客の何人かが怯えたように身をすくめた。

「申し訳……」

 みたび繰り返そうとするリュウを、シルバーは身振りで制した。そうして薄い口唇を開こうとする。

 だが ――

 彼女が何かを言うよりも早く、すぐその傍らで、ガタンという大きな音が発せられた。

 表通り側の窓に面した四人がけのテーブルから、椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がったのは、金髪を長く伸ばした若い男のキメラだった。常連客ではない、初めて訪れた顔だ。ボサボサと大きく広がったその髪が、色も相まってか猛獣のたてがみを思わせる。よく日焼けした褐色の肌は、それでもなお判るほど血の気を昇らせていた。黒く丸い瞳孔が真ん中に浮かぶ黄色い目で、ぎろりとシルバーを睨みつける。


「なんだって、人間(ヒューマン)なんかが、こんなとこにいるんだよ!?」


 大声で叫んだ。

 その吐く息には、酒精の臭いが濃く混じっている。


「ここはキメラの街だぜッ? なんで人間ごときがえらそうなツラしてやがるんだ!!」


 呂律の怪しい口調でそう喚きながら、シルバーへと揺れる指先を突きつける。

 明らかに、紛うことなき酔っ払いであった。アルコールで理性や自制のたぐいを飛ばしてしまっているようだ。

「…………」

 いきなり見知らぬ相手から非難をぶつけられて、シルバーは無表情のまま、ただ男を見返していた。

 反論がないことに勢いづいて、男はなおも声を張り上げる。


「ここは! キメラのための店だ!! 人間なんぞが、来るんじゃねえよッ!」


 聞き苦しい胴間声は、店中に響きわたっていた。

 いつしか誰もが息を呑んで動きを止め、立ち上がった男とその向かいに立つシルバーへと注目している。


「テメエなんか、テメエなんかな。しょせんは弱っちょろい人間じゃねえか! この街に一人で来て、ただで帰れるとでも思ってんのか!?」


 静まり返った店内で、男の絡む声だけが空気を震わせた。

 男が主張しているのは、表向きだけを聞けば、多くの賛同を得られるだろう内容だ。

 人間は人間の街に、キメラはキメラの街に。基本的な生活区域をおのずと分けて、レンブルグの住民達は起こりうるだろうトラブルを事前に回避し、それぞれの心の安寧を保ってきた。故にこのキメラばかりが住む居住区において、シルバーの存在が異分子であることは、紛れもない事実である。

 酔いにまかせた前後を考えない物言いはとうてい褒められた行動ではなかったが、それでもその中身はまっとうと呼べなくもなかった。

 けれど、

「…………」

 シルバーとこの店の関係を知っている者は、男が撒き散らす暴言を聞いて、顔色を真っ青に変じさせていた。

 重ねて言うが、男の言っていることは正論だ。

 この店はキメラのために存在する店であるし、この街に人間が夜一人でやってきた場合、無事に帰れる可能性が低いのもまた事実である。

 キメラ居住区は、けして治安がいい方ではなかった。日が暮れてから女子供が一人歩きするのはできるだけ避けられるべきだったし、たとえ昼間でもうっかり迷い込んだ人間(ヒューマン)が、そのまま消えてしまう事件が時おり発生している。

 仮にキメラが人間を殺傷すれば、それは当然、大問題となるはずだった。しかし証拠もなく訴える本人も存在しなければ、誰がいつどこで行方不明になったかなど、そう簡単には証明できない。ことに目撃者となる周辺住人、すなわち事情聴取されるそれぞれは無関係なキメラ達すべてが、口を揃えて何も知らないと証言したならば。

 そうやって、年に何人かは闇に葬り去られる人間がいるというのは、決して公にならない真実である。

 獣人種達のほとんどは、皆が多かれ少なかれ人間によって虐げられた経験を持ち、人間という種族全体に恨みや憎しみを抱いているものだ。故にキメラの誰かが人間を害する様を見聞きしたとしても、助けるどころか、通報さえしないだろう。

 ……だが、それらの事情が適用されるのは、街の外からやって来た、獣人種を動物や奴隷同様に蔑んでみせる、傲慢な『人間(ヒューマン)』が相手の場合だった。

 シルバーは、既に三ヶ月をこの居住区で暮らし、ほぼ毎日この店に足を運んでいた。キメラ同士のように親しく打ち解けこそしていないものの、時間通りに現れない日には、何かありでもしたのかと、常連達の間で噂される程度には日常の中に馴染んでいたのだ。

 それに何よりも重要なのは、彼女がこの店と建物の持ち主だという点である。

 もしも今ここで彼女が行方不明にでもなった場合、今後この建物はいったい誰が所有することになるのか。新しい持ち主が決まったとして、その相手がシルバーと同様、現状維持を望んでくれる保証がどこにあるというのか。

 そもそも彼女には、血の繋がった身寄りというものがいないらしい。もしも彼女の後を相続する人物がいなかったならば、その時はここの土地も建物も、法律にのっとり公共財産として都市に接収されてしまう。そうなったら、この老朽化した建物が、果たして取り壊されずにすむものか。

「…………」

 どう考えても、この男をこのまま放置することはできなかった。

 現在までの暴言だけでも、既に充分行き過ぎているのだ。一刻でも早くこの男を店から追い出して、シルバーには少しでも損ねた機嫌を回復してもらえるよう、徹底的に謝罪するほか道がない。

 リュウは二人の間に手を伸ばして、突き出されていた手首を横から鷲掴みにした。

 持っていた盆は、気付かないうちにどこかへ放り出している。とにかく男を遠ざけることを考えながら、ひたすらにシルバーへと頭を下げ続けた。

「すみません!!」

 いつの間にかアウレッタも、レジから飛び出してきていた。彼女もまた必死に謝りながら、男の服を後ろから引っ張る。

 そんな二人の行動が、いっそう男の腹立ちに火を点けたようだった。

「お前ら! こんな奴にペコペコしやがるのか!?」

 リュウを振り払い、押しのけようとしたその手が、首に巻かれたコックスカーフに触れる。そこで初めてその存在に気が付いたのか。男は強い力で紺色のスカーフを握りしめた。

「なんだよお前、さては首輪付きだってのか!? そうかよ、人間サマに尻尾振って喜ぶ、躾けられた飼い犬って訳か!」

 あまりにも悪意に満ちた言い(よう)に、客のほとんどが反射的に眉をひそめた。

 人権を持つこの街のキメラ達が、ネックレスやネクタイなどを嫌っているのは、それが首輪を連想させるからだった。

 首輪とは、人間に所有されているという、隷属の印だ。人間に飼われ、使役される生き方を強いられている現状を、何よりも判りやすく示す象徴である。

 故に自由を得られた獣人種達は、まず首輪を外して捨て去ることで、解放された事実を己に実感させた。そうして二度と同じ境遇に陥るまい、縛られていた頃を思い出すまいと、少しでも似通ったものから極力遠ざかろうとする。

 自由であるはずのこの街で、なおも人間にへつらっている ―― と、男の目にはそう見えた ―― リュウの首に巻かれたスカーフは、彼をますます激高させた。しかしそれを口に出して揶揄の種とする無神経さに、客達は同族であるという立場をも越えて、不快感を隠せないでいる。

 男は言葉で罵るだけでは満足しなかった。そんな真似をしたら相手の首が絞まるかもしれないという当たり前の結果も考えず、力任せにスカーフを掴み、引きちぎらんばかりの勢いで強く引く。

 幸いにも、スカーフはかろうじて絞まることなく、引っかかりながらもほどけて男の手へと渡った。

 しかし……

 アウレッタを除く客達全員が、悲鳴のような甲高い声を上げた。

 リュウはあらわになった首元を手のひらで覆い、なんとか『それ』を隠そうとする。

 だが、隠しきれるものではなかった。

 スカーフを奪った男は、引きつった声を喉から漏らす。それは嘲笑のようにも、あるいは恐怖の呻きのようにも聞こえて。


「なんっ、で……なんで首輪付きなんかが、この街にいやがるんだよォッ!?」


 腹の底から発せられたその叫びは、シルバーという人間(ヒューマン)の存在を認めた時よりも、はるかに強い嫌悪に満ちていた。

 見開かれた男の両目は、リュウの首に装着されている金属製のリングへと向けられ、吸い付いたように離れない。

 鈍い金色に光る幅広のそれは、ほぼ首の皮膚に密着していた。表面には継ぎ目も穴も存在しておらず、のっぺりとした造りの完全な輪になっている。ただよくよく観察すると、隅の方にごく小さく、一連の文字と数字が刻まれていた。

 それは疑いようもなく、人間に所有されているキメラの、認識票であった。

「…………ッ」

 歯を食いしばるリュウへと、みなが恐怖の宿る目を集中させる。

 全てのキメラが ―― 建前上とはいえ ―― 自由であるはずの、この街で。

 出し抜けに見せつけられたその首輪は、既に解き放たれたはずの(くびき)を思い出させる、恐ろしい(やいば)となった。

 解放され、捨て、忘れたはずの過去が。いつかは再び同じことを強いられるかもしれない、そんな未来への恐怖を孕んだ、忌まわしい記憶が。

 目前に突きつけられた首輪が呼び水となって、たとえようもない恐怖が全員の心に掻き立てられる。

 穢れたものに触れたかのように、男がスカーフを投げ捨てた。震えるその手がテーブル上をまさぐる。そうして指先に触れた食事用のナイフを、すがるように握りしめた。

「は、外せよ……」

 肉汁で汚れたそれを、逆手に構えて振りかぶる。


「そんな首輪(もの) ―― ッ!!」


 絶叫の直後、リュウの身体を衝撃が襲った。

 呆然と目を見開いたその視界の中で、鮮烈な赤い色が広がって……

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