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鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街でVII ―― The right person in the right place.
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第二章 教える大人と学ぶ子供

 バスから停留所へと降り立ったのは、六人。大人が一人と子供が五人だった。

 いや、この場合は獣人種(キメラ)が五人と人間種(ヒューマン)が一人と、そう表現するべきだろうか。

 この停留所を使用するのは、ほぼ獣人種に限られている。わざわざキメラ居住区を訪れるような人間(ヒューマン)は、たいていが仕事絡みでやむを得ずか、あるいは興味本位で見物にくる考えなしの若者達だからだ。そのどちらもが、本数の限られたバスになど見向きもせず、自前の車を利用するものだ。

 獣人種の子供たちは、一人を除いてみなすぐ立ち去りたそうにしている。しかしなにやら理由があるようで、微妙な距離をとって人間(ヒューマン)女性と、そして例外になる一人の方を見やっていた。

 そんな一団とは、もちろんシルバーとルディ、そしてその友人たちである。

 再びルディの手を借りてバスを降りたシルバーは、そこから歩き始めるでもなく、停留所に置かれているベンチへと腰を下ろしてしまった。雨ざらしでところどころに赤錆の浮いた粗末なそれでも、立ったままでいるよりはマシであるらしい。

 足元へと鞄を置き、傍らにシンプルな黒い(ステッキ)を立て掛けた彼女の隣へと、今度はルディが遠慮の欠片も見せず、並んで座った。

 そんな二人が広げているのは、算数の問題が書かれた紙 ―― 抵抗するヨクから半ば無理やり奪ってきた、テストの答案だ。


「面積計算の公式は、覚えているか」

「えっと、底辺×高さ……÷2、だよね」

「そうだな。ならば三角形ABDと、辺を接する二等辺三角形ADCの面積比を求める場合、着目するべきはまず、両者の高さとなる」


 バスの中でベルとルディがそうしていたように、二人は額を寄せ合っている。

 しかし交わされているのは先刻までのような無意味な唸り声ではなく、しっかりと内容の詰まった会話だ。


「え、えっと、えっと……でもこっちの三角形、高さも底辺も書いてない、よ?」

「確かに明記されてはいないが、図形全体をよく見れば判るはずだ。そもそもADCは二等辺三角形だと、問題文にあるだろう」

「にとーへんさんかっけーって?」


 ルディの問いに、一瞬シルバーの動きが停止する。

 同じような質問をした場合の教師達の反応を思い出し、見守っている友人たちは息を呑んだ。

 けれど彼女は、顔を歪めて怒鳴りつけるでもなく、蔑むような目を向けるでもなく、しばし沈黙したのちに口を開く。


「……この答案は、もしかして違う学年のものか」

「うん。ヨク兄は二つ上で、七年生なの」


 レンブルグの義務教育は、六歳から十五歳までの九年制となっている。

 人間種(ヒューマン)はその多くがさらに先の高等学校へと進学するが、獣人種の場合はよほど特殊な環境にでもない限り、十五で卒業してすぐ働き始めるのが現状だ。

 しかも義務教育と言えど完全に無料で通える訳ではないので、獣人種の中には最初から入学しなかったり、途中で登校して来なくなる子供も一定数存在している。

 そういう意味では、この場にいる五人はまだ恵まれている方なのだった。


「二学年も先の問題となると、さすがにお前が理解するのは難しいと思うが」


 そう言って、離れた場所にいる子供たちの方へと顔を向ける。


「ヨク=クパというのはお前か」


 答案用紙の名前欄で確認したのだろう。いきなりフルネームで名指しされたヨクは狼狽した。

 白い部分の多い目でまっすぐに見つめられて、逃げることもできず、ただ年下の子供たちを背後へと庇う。


「学ぶ気があるのなら、説明をするが」


 その気がないならこれは返す、と。

 答案用紙をルディの手へと残し、指を離してしまう。

 え……と驚いたように見上げてくるルディへと、彼女は淡々と言葉を続けた。


「意欲のない者にいくら教えたところで、時間と労力の無駄にすぎん」


 素っ気ない言いように、ヨクはぐっと顔をしかめた。

 獣人である自分たちになど、最初から教えるだけ無駄だ。そう言い捨てられたと受け取ったのだ。

 だがルディは、ちょっと考えてから、右手の人差し指を立ててみせる。


「それって、勉強する気があるなら、時間がかかっても教えてくれるってことだよ、ね?」

「は?」


 思わず目と口を丸くしたヨクの前で、シルバーは小さくだがはっきりとうなずいてみせた。



   §   §   §



 いくつかの補助線を引き、書き込みを加えた上でようやく解くことができた問題を、ヨクは半ば信じられない想いで見下ろしていた。

 ベンチの座面を机代わりに、地面にしゃがむ形で必死にペンを走らせていた彼が、正解を出せたと気付いたのだろう。いつの間にか距離を詰めてきていた他の子供達も、わっと歓声を上げる。


「図形の面積と辺の長さの関係は、実生活でも役に立ってくるものだ」


 ヨクの耳に、ルディへ向かって説明している人間(ヒューマン)……シルバーの声が聞こえてきた。


「たとえば面積12平方メートルの四角い部屋を月に10万、15平方メートルの部屋を8万で借りられるとする。どちらを選ぶ」

「そんなの、広くて安い方に決まってるよ!」

「本当にそれで良いか」

「うんっ!」

「そうか……ただし12平方メートルの部屋は縦が3m、横は4mの形をしている。しかし15平方メートルの部屋は、縦1mで横15mだとしたら?」

「そんな、1mなんて、それじゃ廊下だけじゃない!!」


 叫んだのはまだ八歳のティーだった。虎種の少女は思わずと言ったように声を上げてから、はっと両手で口をふさぐ。青ざめる彼女へと、シルバーはただ静かな眼差しを向けた。


「その通り。とても住みにくい部屋だな」


 手袋の指先でベンチの座面をなぞり、極端に細い長方形を描いてみせる。


「だが契約はもうしてしまった。何も嘘は言われていない。話が違うと借りるのをやめるなら、8万よりももっと多額の違約金……約束を守らなかった金を払わなければならない」

「そんなの、ズルイ……」


 熊種の少女ベルもまた、不満げに小さく呟いた。

 ルディも唇を尖らせて、先ほど四角が描かれたベンチを見下ろしている。


「だが、たとえ面積が大きくとも、辺の長さによって部屋の形が変わると、いま知っただろう。それを覚えておけば、実際に部屋を借りる前に、単純な広さだけでなく部屋の形も確認する必要があると、思いつくことができる」

「……それが、この問題をやる意味……ってこと、ですか?」


 ようやく顔を上げたヨクの問いに、うなずきが返された。


「今の例はごく単純かつ極端なものだが、考え方のひとつではあるな」


 そう言って彼女は、いくつも書き込みがされた図形の横にある、問題文の方を指し示す。


「算数に限らず、テストの問題文そのものや、社会に出てから使う契約書などの内容を正確に理解するためには、読解力……国語や社会の知識も多く必要だ。そしてそういった様々な問題を何度も解くという経験は、発想……考え方を広げる訓練(トレーニング)にもなる。大切なのは正解を丸暗記することではない。正解を出すためにどんな方法があるのか、何をどう調べる必要があるのかと、思いつけるようになることだ。テストや勉強とは、そのためのシミュレー……予行練習と言えるだろう。私はそう、解釈している」

「れん、しゅう……」


 ヨクは以前から、学校の勉強などいったい何の役に立つのかと思っていた。

 成績はいつもほとんど最下位に近いし、教師に質問をしてもろくに答えが返ってこない。テストのたびに居残りを繰り返す羽目にはなるが、それもせいぜい数回。いつも最後には、多少の嫌味と共に解放される。

 どうせ学校を卒業して働くようになれば、それまでの成績など何の関係もなくなるのだ。あと数年を我慢すれば、それで済む話。そんなふうに考えながら、半ば惰性で学校に通っていた。

 けれど、この人間の言うことが本当ならば……


 錆びたベンチに触れたことで、手袋が汚れてしまったらしい。両方とも脱いで素手になったシルバーは、その指先で乱れていたティーの髪を整えてやっている。

 虎種の少女の髪は、明るい黄色を主体に数本黒と白の房が混ざった、特徴的なものだ。鮮やかな色合いのそれを()きながら、彼女はわずかに目を細める。


「柔らかい髪だ。……昔の友人に、よく似ている」

「友だちって、それ前にも言ってたよね。その友だちってキメラだったの?」


 ルディの言葉に、ヨクらはそんな訳ないだろうと内心で思う。

 しかし彼女の答えは、想像に反していた。


「……獣人種もいたし、人間種もいた。人数的には、獣人種のほうが多かったな」


 白い指先がゆっくりと、どこか名残惜しげな仕草でティーから離れる。


「私はこの通りだから、みなの中でも足手まといになりがちでな。だから知恵を出す……考える役をしていた。適材適所というやつだ」

「てきざいてきしょ」


 左膝を撫でながら言う彼女へと、意味が判らなかったらしいティーが、言葉の最後を繰り返す。


「得意なことは、ひとりひとりで違う。だから得意なことを、得意な者にさせる……手分けするといった意味合いだ。たとえ一人ではできないことでも、みなで協力して補……助けあえれば、できる事柄はとても幅広くなる」


 いまひとつ言い回しが難しいが、それでも怒られず静かに答えてもらえるのが珍しいのだろう。ティーは少しずつ大胆になって、質問を重ねてゆく。


「でも、テストは一人でやらないとダメだって。ほかの子のを見たら、怒られちゃうし」

「……それは手分けではなく、盗み見……泥棒のやることだ」


 泥棒という強烈な単語にショックを受けたのか。目を見開く少女へと、彼女は再び指を伸ばし、そっと頬をなでる。


「テストは練習だと、さっき言っただろう。それは早く走ったり、高く跳ぼうとするのと同じで、自分でやらないと意味のないことだ」

「で、でも……あたしキメラだから……バカだから、勉強してもわかんないんだもん」


 目が潤み始めたティーへと、彼女は静かに続ける。


「獣人種は必ずしも馬鹿ではないし、人間種の中にも馬鹿はいくらでもいる。どうしても理解できないというのであれば、他で努力するしかないが……少なくともお前は字が読めるし、足し算もできるだろう?」


 先ほど、バスから降りる際に、小銭を数えていたのを見たのだろう。そう言われて、さすがにそれはバカにし過ぎだと、ティーは出かけていた涙を引っ込めて叫んだ。


「かっ、かけ算だってできるもん! わり算だって……たまにちょっと、まちがえたりするけど……」

「その歳でそれならば、まだ馬鹿とは言わん。本当に勉強ができないという者は、大人でも字が読めないし、6÷2という計算さえできないものだ」

「え……6÷2って……」


 3じゃない、の? と。

 お互いに顔を見合わせる前で、彼女は答える。


「3だ」

「え、なんでそれがわかんないのっ? 大人でしょ!?」


 仰天するルディへと、シルバーは冗談の色など欠片もない、大真面目な表情で告げる。


「誰にも何も教えられていなければ、大人であってもそんなものだ。獣人種でも人間種でも、それは何ら変わらん」


 きっぱりと言い切るその内容は、これまで幾度も言われてきた ―― 優れた人間種が作り出した獣人種は、人間に比べてはるかに劣っているのだという話とは、まったくかけ離れていて。


「え、……人間(ヒューマン)で、わり算できない人なんているの?」

「いたな」


 またも断言するその表情は、どこまでも静かでまったく動いていなかった。それでもルディは、どこか気遣う顔をして、その手を伸ばす。

 きゅ、と指先を握りしめられた彼女は、ゆっくりと一度まばたきした。それからルディの方を改めて見返す。


「……そもそも本物の馬鹿とは、たとえ勉強ができても、それを役に立てることができない者。そして勉強をできる環境にあっても、そんなものが何の役に立つと、最初から身につけようとしない者だ。たとえ大人になってからであっても、改めて学ぶことを選べる者や、他に得意な何かを見つけてそれを活かせる者であれば、けして馬鹿とは言わん」


 たとえば、と。

 一度言葉を切って、しばらく考え込む。


「リュー……私より年上の獣人種だが、三年前まで掛け算ができなかった」

「え」

「足し算も怪しくてな。指を折ってやっていたから、最初は十を越えるとかなり間違えていたな」

「は?」

「簡単な絵本ぐらいなら読むことはできたが、書く方はまったく駄目で、まずペンの持ち方から教える羽目になった」

「もちかた……」


 この人間より年上だというのなら、たとえ三年前でも立派な大人のはずだ。

 それでティーどころか、下手をすると一年生のスナ以下というのはどうなのだろう。


「リューは馬鹿だと思うか」

「バ、バカじゃないよ!! だっていっつもなんかむずかしい本読んでるし、それに料理だってうまいし。前にレジが壊れちゃった時も、ちゃんとお金の計算してたよ!?」

「……そう。リューはけして馬鹿ではない。ただ、学び始めるのが遅かっただけだ。もしも人間種が彼と同じ環境に置かれていれば、同じように読み書きも計算もできずに育つだろう。種族による優劣など、その点では存在しない」


 ふう、と。

 彼女は一度、大きく息をつく。そうしてティーの、中心に向かってわずかに緑の混じる黄褐色(ヘーゼル)の瞳を覗き込んだ。


「お前は幼い。勉強ができるかできないか、何が得意なのかを決めるのは、まだこれからだ。焦る必要はない」


 少なくともこの都市(まち)では、それが許される程度の環境が整っているのだから、と。

 飲み込まれたそんな言葉を、子供たちは知る由もなく。


 ただどう反応すれば良いのかと子供同士で顔を見合わせていたところへ、急に呼びかけてくる声があった。


「あーっ! シルバーさん、いたーーーッッ!?」


 かなり遠くから発せられた大きな声に、一同はいっせいにそちらの方を振り返った。

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