... After that
完全に夜が明け、目を覚ましたリュウが【Katze】へ出勤するかどうかを迷っている間に、ドクター・フェイが早々と往診にやってきた。
「ん、熱は完全に下がってるな」
バイタルチェック用の計測器を確認して、満足げにうなずいている。
なおリュウはと言うと、とりあえず一時間はしっかり横になってこいと、強引に自室へ戻らされていた。朝の掃除には間に合わなくなるが、そのあたりは常連達が手伝ってくれるらしい。即効性の睡眠薬まで用意されていて、その周到さには素直に尊敬の念が湧いた。
それから倒れた時の状況やその時に考えていたこと、これまでに同じような経験があったのならば共通事項など、いくつかの質疑応答を挟みつつ、呼吸音を確認されたり、身体のそこここを触診される。
その手付きは極めて事務的でありながら、こちらへの気遣いも確かに存在していて。
他人に触れられる不快さや、医者というものに抱く生理的嫌悪を、この男に対してはあまり感じないのが正直ありがたい。
口調こそ軽く装っているが、その内容はこちらの反応を観察しながら、慎重に吟味しているのだと理解できるのも好感を覚える。
「あの長下肢装具だけどよ、ちょい預からせてもらって良いか? いろいろと勉強になるし、うちの患者のリハビリにも、参考にできそうでよ」
礼と言っちゃアレだが、調整はこっちで適当にやっとくわ、と。
そう提案されて、別に不都合などないので、うなずきを返した。
どうせ普段は収納の中で、埃を被っている代物だ。他で誰かの役に立つというのならば、その方が良い。
「それから、そろそろこっちの治療も考えたいんだが」
肘の内側から採血を行っていた男は、注射器を丁寧にケースへ収めてから、止血テープを貼った。そうしてひょいと、軽い動きで右腕をひっくり返させる。
これまで下になっていた、前腕の外側があらわになった。
そこには以前、リュウを刺そうとした男によってつけられた、肘から手首近くに至る長い傷痕が存在している。
手当てを受けるのこそ早かったものの、使用済みの食事用ナイフで力任せに切られたせいで、かなり派手に残ってしまった。今はまだいいが、冬になって気温が下がると、引き攣れた皮膚に動きを阻害されるかもしれない。
「人間用の人工皮膚を使えば、跡形もなく消せる。定着も早いから、術後三日もあれば ―― 」
「いらん」
意識するよりも先に、口が動いていた。
己の顔から、ただでさえ乏しい表情が抜け落ちるのを自覚する。
「……シルバー?」
「移植の必要はない。これは、このままであるべきものだ」
男の手から右腕を取り戻し、起こした上体の胸元へと引き寄せる。
その動きを、男はいったいどう受け取ったのか。
しばしの沈黙の後、小さなため息が落とされる。
「 ―― 判った。とりあえず、軟膏だけ出しとこう。朝晩や風呂上がりに使ってマッサージすれば、炎症や拘縮はある程度抑えられる。それぐらいなら、続けられるか」
恐らくは、相当な妥協の末の提案なのだろう。
職業医師として、目の前の、それも己が治療した手術痕を中途半端に放置するなど、矜持が許さないに違いない。
それは理解、できた。
理解は、できるのだ。
腕を引き寄せる指に、力が籠もる。
赤く盛り上がった創傷に、わずかに爪が食い込んだ。
「シルバー」
こういう時のこの男は、声を荒げようとしない。
無遠慮に手を伸ばしてくることもせず、ただ静かに呼ぶだけで、やめるよう促してくる。
だから、こそ。
「…………」
声には出せないままに、それでも小さくだが頷くことができた。
「ん」
ごくごく短い答えには、穏やかな許容が存在している。
本来の医師とは、こういうものなのかもしれない。
少なくとも、かつて己が接してきた者達こそが、特異な存在であったことなど、疑いようもなく ――
あれらとは何の関係もないこの男に対してさえ、こんな態度を取ってしまうことに、引け目を感じなくもない。
この男は、これまで何も、自分達に対して害を及ぼしなどしていないのに。
むしろ、記憶を失い大怪我を負ったリュウを善意で保護し、仕事と住む場所まで与えてくれていた。そして現在でも丁寧なカウンセリングを続け、その心身を尊重してくれている。
人間である己に対しても、最初は警戒を抱いていたようだったが、それでも理を説けばその態度は軟化し、さまざまな助力をしてくれた。
その恩は、返さねばならないと常々思っている。
自分にできることであるならば、可能な限りその要請に応じたいと思っているのだ。
けれど、
それでも、
「まあ、無理は言わんさ」
おいおい、な。
そう言いながら、使ったものを診療鞄へと片付けてゆく男に、己は言葉を返すことすらできない。
だって、
―― 移植などという技術があったから、『本体』と『予備』だなんて、そんな違いが生じたのだから。
そんな手段さえ、そもそも存在しなければ。
そうすれば、きっと、自分達は。
―― お前なんかに……!
熱は既に、下がっているというのに。
呪詛を思わせるあの言葉が、また繰り返し耳の奥で、谺しているような気がしてならない。
―― だから、
移植手術なんて行為を、受けることはできないのだ。
もう、二度と。
そう内心で呟く彼女の脳裏には、かつて己とリュウを傷つけ貶め……そして今はとっくにその手で破滅させた男への感慨など、欠片のひとつも残されてはいなかった ――
〈 鵺の集う街でVI 終 〉




