エピローグ
右の手が、なにか暖かなものに包まれていた。
動かすことこそうまくできないが、それはけして、苦痛を伴う感覚ではなくて。
ぼんやり天井を眺めていた視線を、のろのろと右側へ向ける。そうして一度、ゆっくりまばたきをした。
「…………」
寝台をのぞき込むような姿勢で、銀髪の青年が椅子に腰を下ろしていた。
うつむいたその両目は閉じられていて、どうも眠っているらしい。背もたれのない椅子で、上掛けに突っ伏しもせずに寝ているとは、ずいぶん器用だと感心するべきだろうか。
ただその両手だけが寝台の上にあり ―― そうして己の右手を握っている。
温かいと感じたのは、それ故にだった。
カーテンの隙間から差し込む日差しは、薄暗い。しかし光の方向からして、夕方ではないようだ。
おそらくは早朝 ―― 夜明けの時間帯か。
どうやら己は、またも熱を出し、彼に看病させてしまったらしい。さらに記憶を辿れば、ドクター・フェイが訪ねてきて、会話をしたことが思い出される。職務に忠実かつ有能なあの医者が、その後で彼に連絡をして呼び戻したのかもしれない。
―― 【Katze】に迷惑をかけたのであれば、のちほど謝罪をしなければ。
やるべきことを脳内リストへインプットしておき、さてどうしたものかと思案する。
こんなふうに、彼が看病の途中でうたた寝をしているのは非常に珍しかった。人の気配に敏感なこの青年は、自分が目覚めそうになるとすぐ気が付いて、呼びかけてくるのが常だ。それをしないということは、相当に疲労しているのだろう。つい先日まで、風邪で寝込んでいたのだ。無理もない。
うかつに動けば、手から振動が伝わり、起こしてしまうと予想ができた。
故にできるだけ身じろぎを少なくし、〈銀狼〉の青年の寝顔を観察する。
顔色は、さほど悪くないようだ。病み上がりに超過労働をさせて、体調を悪化させるといった愚行は避けられたか。
伏せられた長い睫毛が、なめらかな頬に影を作っている。
―― こんなふうに、無防備な状態で過ごせるようになったのは、出会ってどれぐらい経った頃からだったか。
なんとなく、そんなことを思った。
熱を出したあとは、とかく過去の出来事へと思考が向きがちだ。しかも身動きができない状態では、働かせられるのは脳ばかり。そのためか、益体もないことを考えてしまう。
―― 愛玩用とはいえ獣人種の、しかも成人男性。体格も腕力も、とうてい叶うものではない。
それは、廊下の隅で倒れていたその身体を、持ち上げるどころか引きずりさえできなかったことからも明白であった。
この青年がその気になれば、自分などたやすく組み伏せられるだろう。
自明の理とも言えるその結論は、特別な感慨もなく、ごく淡々と弾き出された。
骨の一本や二本は簡単に折れるはずだし、打ち所が悪ければ一撃で昏倒 ―― あるいは死亡する。それが男と女、獣人種と人間種の間に厳然と存在する、身体能力の差だ。
現在は洗脳に等しい状態で萎縮しているようだが、いずれ教育を施し、判断力を身につけさせたならば。いつかはその事実に気付く日が来るだろう。
人間種の優位とは、けして絶対的なものではないのだ、と。
当時の己は、当たり前のようにそう分析した。
―― それでも。
教育しないという選択肢はなかった。
飼い続ける意思がない以上、いずれ手放すことは確定していた。そして側近く使役する獣人種に対し、若さと美しさと目新しさを求めるあの都市において、二十代の半ばに差し掛かった彼は、もう何年もしないうちに廃棄処分とされるはずだった。生物としての獣人種の寿命は、人間となんら変わらないというのに。
実際、もしも自分が受け取りを拒否した場合、彼はそのまま処分場へ送られる手はずになっていたというのだ。
それが判っていて、それでも他の持ち主に譲るなど後味が悪すぎる。そもそも下手な相手に譲渡などしては、余計な柵を作る羽目ともなるだろう。それはできるだけ避けたかった。
ならば、獣人種でも市民権を取得できるという、他都市へ送り出すしかない。そうすれば彼は、自分の知らぬところで彼なりの天寿をまっとうするはずだ。
そのためにはまず、自分自身で物事を判断し、日々の糧を得て、一人で生きていけるだけの能力を持たせる必要がある。故に最低限の教育は、絶対に施さねばならない。
たとえその過程において、いずれブレスレットに組み込まれた電撃装置の発動機構を、必要とする日が来るのだとしても。
最初の頃はそう思い、いざという時には遅滞なく操作できるよう、幾度も手順を確認したものだ。
けれど、
―― はっきりと自覚したのは、あの時だったか。
過ごす日々の中で、そうと意識しない内に互いの距離が縮まっていた。
たとえ同じ空間にいても、その存在を警戒しないことが増え、いつしか義父だけが使っていた略称を教えていた。彼の方も、こちらを窺うような卑屈さが減り、自分の考えや疑問に感じた内容を、素直に表現するようになってきていた。
閉ざされた『家』という空間の中で、穏やかに過ぎていった時間。それは今になって思い返してみれば、ひどく平和な ―― そしてあの都市においては、とても歪なそれだったのだろう。
ゆっくりゆっくり、音を立てぬよう息を吐き、そうして目蓋を下ろす。
訪れた闇の中で思い出されるのは、胸の悪くなるような光景だ。
どうしても断れなかった催しに参加した結果、目を離したほんのわずかな間に振るわれていた、以前の所有者による暴行。
なんとかその場は収められたものの、その男が目的としていたのは、単にかつての持ち物を嬲って遊ぶことではなかったのだと、気が付けなかった。
―― あなたは獣人がお好みなようですから、いろいろと揃えてみましたよ?
いつものように、
注文した品が届いたので受け取りに出た青年が、なかなか戻らないなと思った時には、既に遅かった。
血まみれとなった彼を、護衛と思しき獣人達に引きずらせて。あの男は堂々と自分達の家へ侵入してきた。宅配業者を買収し、顔を出した彼が事態を把握するより早く取り押さえたのだ。そうしてその生体情報を使って、強引に電子錠を解除させた。
だらりと力なく垂れた腕は、遠目からでも脱臼しているのが判った。
いったいどれほど、抵抗したのだろう。
そう思いながら、最低限の動きで最低限の対処を行うことしかできなかった。
―― なに、大切なのは、既成事実というやつです。証拠さえ作れれば、あとはゆっくり楽しませて差し上げますから。
下劣な笑みを浮かべる男は、義父の遺した資産が目当てであるらしい。
責任を取ると称して婚姻を結ぼうというのか、それとも単純に脅迫の材料にでもするつもりか。引き連れた獣人種のうち幾人かが、記録装置を携えている。そうして、ネクタイを緩めながら近づいてくる男に先立って、屈強な獣人達がこちらの手足を拘束しに来た。
非力で走ることもできぬ己が、多少あらがったところで、それらから逃れられるはずもなく。
―― サーラ、様っ!
床に押さえつけられた青年が、絞り出すように叫んだ。
あちこちから流れる血で真っ赤に染まり、既に輪郭が歪むほど腫れ始めているその顔を、別の獣人種がさらに殴りつける。
それでも抵抗を止めようとはせず、喉が破れるのではないかと思えるほどに絶叫する。
その形相の、必死さに、
―― お前は黙って、目を、閉じておけ。
低くそう告げながら、己はどこかで安堵していたのかもしれない。
いつかこの青年に対して、電撃装置を使用せねばならぬ日が来るのだろう。どこか憂鬱さを感じさせるそんな懸念は、もうとっくに消えてなくなっていたのだ、と。
既に妨害装置を作動させており、記録など残らない状態になっているとは知らぬ男達とのその後など、ようやく気がついた事実に比べれば、ごく些細なことでしかなかったから ――




