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鵺の集う街で  作者: 神崎真
前日談 ... Netherlandish Proverbs.
60/95

前編

時系列的にはIVの直後で、Vでシルバーが一般居住区へ外出するよりも以前です。

【ネーデルラントの(ことわざ)( Netherlandish Proverbs )より】


  Hij geeft er niet om wiens huis in brand staat, als hij zich maar aan de gloed kan warmen.


   ―― 暖まることができるなら、燃えているのが誰の家でもかまわない。




 1.暖まるために自分の家へ火をつける。馬鹿げた行為への比喩。

 2.自分の家が燃えている時に、せめて身体だけでも暖まろうとする。大きな損失の中にも小さな利益を求めようとする行為。

 3.燃えている他人の家で、自分の身体を暖めるエゴイスト。他人の不幸を利用する者。




  前編


 それは、ニシキヘビの獣人ジグラァト=オークが、人間種(ヒューマン)家主(オーナー)へと、己の人生を賭けた相談を持ち込むよりも、少しばかり前。

 銀狼種の青年が、悪質な風邪からようやく回復し、店へと復帰した直後の話である。


 とん、とん、とん。


 指先で規則的に机を叩く音が、静かな診察室に響いていた。

 苛立たしげなその仕草を続けているのは、椅子に深く腰を下ろした、黒髪に小麦色の肌をした青年だ。クッションの効いた背もたれへと白衣に包まれた上体を預け、もう片方の手で肘掛けに頬杖をついている。室内に患者はおらず、彼は無言でひたすらにモニターを見つめていた。

 患者が座る位置からは内容が読み取れぬよう、偏光設定してあるそこには、いまとある人物のカルテが表示されている。

 彼はすでに30分近くそれを眺めており、もはや暗記するほどに幾度も読み返していた。

 その耳に、小さな電子音が届く。

 画面隅に視線をやれば、事前にセットしておいた時間 ―― すなわち昼休みを半分過ぎたことが ―― 示されている。


「…………」


 キメラ居住区唯一の医師たるフェイ=ザードは、深々とため息をついて、後頭部で束ねたその黒髪を掻きむしった。

 そうして机に両手をつくと、勢い良く立ち上がる。


「レンッ」


 内線を起動させて呼ばわると、すぐに看護師がやってきた。彼女が多くの時間を過ごす受付とこの診察室は、薬品保管庫を挟んで裏で繋がっている。故に患者達の目に触れる廊下を通らずとも、直に行き来が可能なのだ。

 アフガンハウンドの獣人であるクラレンスは、癖のない流れるような白髪を揺らしてフェイを見やる。わずかに寄せられた細い眉には、隠しきれない憂いの色が宿っていた。


「タイムリミットだ。もう待ってやらねえ。今から行ってくる」


 尖った犬歯をむき出しにして、唸るように宣言する。そんなフェイへと、レンはこくりとうなずいた。

「緊急の患者があれば、ご連絡しますね」

 それはつまり、緊急を要さない患者ならば、しばらく待ってもらうよう手配するという意味である。

 彼女もまた、フェイがどこへ何をしに行こうとしているのかを理解し、そして賛同しているのだった。

「おう、頼まあ」

 丸眼鏡の奥の目を座らせた医師は、低く告げるとあらかじめ用意してあった鞄を持ち上げる。

 そうして白衣の裾を翻して、大股に診療室を出ていったのだった ――



§   §   §



 彼が目指したのは、道を挟んですぐ向かいに建つビルだった。もともとはホテルとして建設されたそこは、現在一階をカフェレストラン、二階から六階を集合住宅として利用されている。

 そして最上階のワンフロア丸々を占めるペントハウスには、このビルの所有者(オーナー)である人間(ヒューマン)が居住していた。

 エレベーターの扉が開ききるのを待つのすらもどかしく。フェイは隙間に肩を押し込むようにして降り立った。廊下に敷かれた絨毯を荒々しく踏み、長い廊下に存在している唯一の玄関扉へと向かう。

 扉脇に設置されている、インターホンを押した。一拍置いて、二度三度と連打する。


「おい! シルバー!! なるたけ早く来いっつっただろうがッ!」


 人気のないフロア中に、響き渡る声量で怒鳴りつけた。

 現在、目的の人物が室内にいるのは判っていた。エレベーターに乗る前、横目で確認した店内のいつもの席は空いていたし、来客があるといった話も耳にしていない。そして彼女 ―― この集合住宅の家主であり、凄腕プログラマーであるシルバー・アッシュ、もといセルヴィエラ=アシュレイダは、キメラ居住区に住まいを移してからもう数ヶ月にもなろうというのに、負傷して診療所へ通院していた時期を除けば、一度もこの建物から出たことがない。正真正銘の引き籠もりだった。

 なまじ電脳回線(ネットワーク)を駆使することで、部屋にいながらにして仕事をこなせてしまうのだから、性質(たち)が悪い。

 かろうじて日に数度、一階にあるカフェレストラン【Katze】へと足を運ぶのが、唯一の外出と言えた。

 ……同じ建物内への移動を、外出と表現してもいいのであれば、だが。



 昨日(さくじつ)のこと ―― 彼女が足に歩行補助用の装具を着けていたと知ったフェイは、詳しい話を聞こうとしたのだ。

 ここしばらく、獣人種の間で悪性の風邪が流行したため、診療所は忙殺されていた。おかげでただ一人の医師であるフェイは、食事に出る時間も満足に取れない有り様。しかもリュウまで罹患したことで、同居人であるシルバーもまた、病の媒介者にならぬよう店への出入りを控えていたらしい。

 故にリュウの見舞いに行った者達から装具のことを聞かされても、なかなか本人と話をすることができず、もどかしい思いをしていたのだ。

 リュウのカウンセリングやシルバーの言動の端々を通じて、彼らが以前住んでいた都市は、旧世界の文化を色濃く残す、かなり高度な科学水準を保っていることが推察できていた。ならばシルバーが使用している装具もまた、それなりに優れた機能を持つものではないのか。あるいはこの都市の、しかも場末の小さな診療所では目にすることも叶わないような、高い技術が使われているかもしれない。そう思ったフェイは、後学のためにもぜひ実物を拝んでみたいと考えたのである。

 あのシルバーであれば、事情を話して頼み込めば、手に取らせてくれる可能性も高い。そうして間近で観察することができれば、きっと何らかの形で、いま自分が手掛けている患者達への治療にも還元できるだろう。

 そんな期待を胸に、まずはどんな形状をしているのかと、そこのところから質問を投げかけてみたかったのだが ――

 しかしようやくリュウが完治し、シルバーとも顔を合わせられたと思えば、医者としてとうてい看過できぬ、言語道断とも言える状態であることが発覚したのだ。それはもはや、話を聞く以前の問題だった。


「ちゃんと聞こえてんだろ!? さっさとここ開けて、現物を見せやがれっっ!」


 インターホンだけでは埒が明かないと、握りしめた拳を扉へ叩きつける。

 彼女の装具は、確かに相当な性能を備えていたようだった。そう、いた。過去形である。

 形状としては、左足の膝関節を含む末端に向けての不具合を補助するべく、金属製の平たい支柱が足の両脇に配置されているらしい。それは靴底状になった足裏のパーツまで繋がっていて、太腿の付け根から足首までの、複数箇所を太いベルトで固定しているという。しかもその構造は、ただ単純に体重を支えるだけのものではないそうで。要所へと組み込まれたセンサーが装着者の動きを検知、さらには先読みまで行う。そして小型化された内蔵動力によって、各部を必要な形状に変化させ、行動をサポートする。まさに『歩行』を『補助』するための、機巧(メカニック)なのだと。

 聞くだにとんでもない代物だった。いったいどんな原理で動いているのか、またどれほどの費用をかければそんな補助具が制作できるのか。想像もつかないほどだ。


 ……ただしそれは、あくまで正しい使われ方をしていればの話で。


 この都市(レンブルグ)で一般的に流通している、患部をただ固定するような単純な装具を含めて、この手の介助用品は使用者の肉体に合わせた、細かい調整を必要とするのが常である。基本的な部品(パーツ)こそある程度共通しているものの、そのサイズや組み合わせは千差万別。ほぼ受注生産(オーダーメイド)の一点物と称して過言ではなかった。使う者の不具合の程度もそれぞれならば、身体つきさえひとりひとり異なるのだ。まったく同じ装具など、この世にひとつとして存在しはしない。

 まして同じ人物でも、回復の度合いや月日の移り変わり、またはその日の体調などによって、コンディションはいくらでも変化してゆく。

 故に医師の経過観察と、その結果に応じた綿密なリハビリ計画、そしてそれらに基づく定期メンテナンスは当然欠かせない。それだけに留まらず、少しでも違和感を覚えればそのつど微調整をし直さなければ、かえって肉体を損ねる結果ともなりかねない。そういう代物だというのに。

 にも関わらず、だ。


 あの!

 真正の引き籠もり人間は!!


 装具の定期点検は愚か医師の指導すら受けないまま、何年も放ったらかしにしていたというのだ。


 ―― 久しぶりに出したが、やはりあまり使う気にはなれん。


 と、

 そんな発言に続いて判明したその現状に、ドクター・フェイは完全にブチ切れた。

 相手が人間種(ヒューマン)だとか、医者というものに対して何がしかの複雑な感情を抱いているらしいとか、そんな事情は一瞬で脳内から吹き飛んでいた。ただただ医療に携わる一個人として、けして譲れない信念が、自らの肉体をないがしろにするも等しいその行為を、断じて許せなかったのだ。


 その場でペントハウスへ押しかけなかったのは、ひとえに患者が残っていたからにすぎない。

 診療所で、彼の食事が終わるのを待っている、まだ風邪が治りきっていない者。あるいはわざわざ事前に予約を入れて、足を運んでくる者らを後回しにすることは、それこそ医師の務めに反していた。だからこそ明日でも、今日これからすぐにでも構わないから、できるだけ早いうちに装具を持って診療所に来い! と。そう言い捨てて、その場は席を立ったのだが。

 丸一日を過ぎた、その『明日』の昼を過ぎた段階で、堪忍袋の緒が切れた。

 幸いにも今日の患者は少なく、緊急性がある者も今のところはいない。予約はこれを見越して、余裕を見た時間に振り分けておいた。

 もはや気にかける必要があることなど、残ってはいない。

 余人が目にすれば、いかに顔見知りとは言え人間種(ヒューマン)宅の扉を殴って怒鳴り散らすなど、正気の沙汰ではなかっただろう。しかし一度(たが)の外れてしまったドクター・フェイは、完全に感情の赴くまま行動していた。

 と、

 数度目に振り上げた拳を、ふいに止める。


『 ―――― 』


 静かになった廊下に、低い耳鳴りにも似た音が残っていた。どうやら通話装置が作動しているようだ。スピーカーからは、回線が繋がった時特有の、かすかなノイズだけが生じている。

 しかし数秒待ってみても、それ以上の反応はない。乱暴な行動を咎める言葉も、ものに動じない淡々としたいつもの声も、いっこうに発せられない。

 やがてそこへ、ドーベルマン種の鋭敏な聴覚を持ってしても聞き落としてしまいそうな、小さな呼吸音が混じった。


「…………シルバー?」


 荒ぶっていた感情が、一瞬で凪いだ。

 短く浅いその呼吸が、医者としての感覚に訴えかけたのだ。先刻までとは打って変わり、低く抑えた冷静な声で、探るように呼びかける。

 さらに数秒。澄ました耳へ、マイクを直接叩くような不規則な音に続き、幾分大きくなった息遣いが届いた。

 そうしてようやく、意味のある言葉が発せられる。


『……自室、に……いる』


 途切れがちな声の後、扉の電子錠(ロック)が解除される小さな電子音がした。


「判った。すぐ行く」


 短く答えて、フェイはペントハウス内へと足を踏み込んだ。

 以前、リュウの往診に訪れたこともあり、内部の間取りは把握している。キッチン前を通り過ぎ、左に曲がった先、右側2つ目の扉が彼女の私室だった。半開きになったままのそこから、フェイは室内を覗き込む。そうして一瞬、目を見張った。

 書き物机に乗っている端末と、仕事用の資料と思しきファイルが並んだラックの他は、余計なものなどほとんど見受けられない、シンプル ―― というよりもむしろ質素と言った方が近いプライベートルーム。そのベッド脇の床で、黒髪の女性がうずくまっていた。

 昼もだいぶ過ぎているというのに、まだ寝間着のままだ。枕元のサイドボードに寄りかかるようにして、細い背中を丸めている。

 無言で足早に近づくと、気配を感じたのだろう。鈍い動きで俯いていた顔が持ち上げられた。脂汗に濡れたその顔色のあまりの悪さに、フェイは眉を寄せる。

「どんな具合だ? いつからだ」

 床に膝をつき、姿勢を低くして問いかける。

 そうしながら、鞄からバイタルチェック用の計測器を取り出した。いきなり使用することは控え、まずは視界に入るよう持ち上げてみせる。そうして彼女の目がそれを認識したのを確認してから、初めてその手を取り、指先へとセンサー部を押し当てた。

 手のひらに伝わってくる体温は、明らかに健康的な人間種(ヒューマン)の平均値をオーバーしている。

「……起きた、時は……まだ……」

 荒い息の合間に答えるその手元には、手帳サイズの小さな端末が転がっていた。服装にまったく合っていないそれは、サイドボードに置かれていたようだ。インターホンを ―― あるいはフェイが扉を乱打する音を聞きつけて、なんとかそこまで手を伸ばし、返答と扉の解錠操作を行ったのだろう。

 意図しなかったとは言え、病人に無理をさせてしまったことが悔やまれる。

 計測結果が出るまでの間に、フェイは素早く視線を巡らせ、室内の様子とシルバーの状態をチェックした。

 曲げた左足を、半ば抱えるようにしているその姿勢。

 反対の壁際にある作り付け収納は、扉が開いたままで、ちょうどそこから出したばかりといった位置に、見慣れた杖と、それから金属製の棒やベルトなどで構成された物体が転がっている。恐らくあれが、話に聞いていた歩行補助の装具なのだろう。

 収納の中には、ハンガーに掛かったスーツ類や、衣装ケースなども見て取れた。

 起きた時には、まだ問題がなかったと言う。ならば着替えようと、杖を手にワードローブへと向かったのか。そうして服よりも先に装具を取り出し ―― そこでいきなり、不調が生じた。状況を見る限りは、そんなふうに推察できる。

 そこまで考えた所で、計測器が音を立てた。表示された結果を見て、フェイは内心舌打ちする。が、感情を態度に出すことはしなかった。すぐ脇にあるベッドへと手を伸ばし、夏用の軽い上掛けを引きずり下ろす。それをシルバーの肩からかけてやりつつ、努めて穏やかな口調で話しかけた。

「足が、痛むのか」

「…………」

 開放された手で膝関節を掴むように押さえた彼女は、しばし無言で顔を伏せていた。が、やがて小さくうなずく。上下する肩と、足を掴む指先の震えが、苦痛の大きさを示しているようで。

「診せてもらって、良いか」

 相手の反応を見落とさぬよう、細心の注意を払いながら許可を取る。

 続く沈黙は、さらに長いものだった。

 リュウによれば、シルバーは医者というものに対して忌避感……というより、むしろ恐怖に近い感情を抱いていると言う。以前、フェイの診療所へ入院した折りなどは、半ば錯乱した状態で逃げ出そうとし、輸血の針を抜いてしまったぐらいだ。それは理性が働いていないからこそ剥き出しにされた、嘘偽りのない心底からの反応だった。

 常に平静を保ち、取り乱す様など ―― まだその当時は ―― 想像だにできなかった彼女が、人目をはばからぬほど露わに見せた、怯え。

 それは、かつてその左足に施された治療に、原因があるらしい。詳しい話は未だ聞けてはいないのだが、シルバーの反応は完全に心的外傷後(PT)ストレス障害(SD)の症状を呈していた。

 返事を待つ間、フェイは床に落ちた補助装具の存在を思い返す。

 彼女にとって、辛い記憶を呼び起こすきっかけとなる、そのひとつが医者という存在らしい。

 それと同様に、あの補助装具もまた、彼女のトラウマに関連するひとつの要因なのだろうか。

 呼び起こされるその記憶の追体験が、身動きさえも満足にできなくなるまでに、心身に激しい影響を及ぼすほどの。


「…………」


 急かすことなく、ただじっと、シルバーの反応を待つ。

 シルバーが、医者であるフェイに対して反発を見せないのは、彼が獣人種(キメラ)であるからだとリュウは言った。

 人間種(ヒューマン)の医師によって、人間種(ヒューマン)の悪意を凝縮したかのような治療を施された。もしもあの医師が獣人種(キメラ)であったならば、あんな真似は絶対にしないだろう。そんなふうに、考えているからだと。

 それを聞かされた時、フェイが感じたのは紛れもなく喜悦であった。

 獣人種の医師であっても構わない、ではなく、獣人種であるからこそ信頼できる。

 そう告げられたも同然の言葉は、彼にとって己の存在を根本から肯定された、この上ない讃辞だと受け取れたのだ。


 その背景に深く根ざす、心の傷の存在を、察してはいても。

 それでも ――


 どれほどそうして、無言で向かい合っていただろう。

「…………それ、で……お前の気が、済む、なら」

 低く落とされた呟きに、フェイは思わず眉を寄せてしまった。

 それは診察を許可すると同時に、どうせ治すことなどできないだろうと、突き放すにも等しく聞こえたからだ。

 医者として、断じて言われたくはない言葉だった。しかしそう評されても今は仕方がないと、無言で想いを呑み下す。

 少なくとも、この手を拒まれてはいない。現状はそれだけで満足するべきだと、そう己に言い聞かせる。

「特に痛みが強いところがあったら、教えてくれ」

 膝を掴む手を慎重に外させ、代わりに自身の手のひらで、まずはそっと触れた。

 息を呑む。


 ―― 冷たい。


 明らかに発熱しているその身体の中で、服の上からでも判るほどに、左足だけが冷え切っていた。

 確かにリュウから、そういった症状が出ると、聞いてはいた。しかしここまではっきり差があるとは思っていなかったのだ。

 片麻痺を持つ患者において、麻痺部の血流量や体温調節に異常が見られる症例(ケース)は確かに存在している。しかしそれはあくまで運動時などに起こるものであり、ここまで顕著なそれでもないはずだ。

 そもそもシルバーの左足は、脳や脊髄の損傷を起因とする片麻痺とは、明らかに症状が異なっている。

 必要以上の力を込めぬよう注意して、ゆっくりと膝から太腿にかけてを触診してゆく。

 すると膝関節から少し上のあたりで、線を引いたかのように体温が変化している部分を見つけた。そこを繰り返し撫でてみるが、温度以外に異常は感じられない。

 次は目視で確認したいところだが、そのためには服を脱がせるか、あるいは(はさみ)で切り取るしかない。

 再度許可を取ろうと顔を上げたフェイは、しかしシルバーがきつく目を閉じ、歯を食いしばっていることに気が付いた。羽織った上掛けを握りしめる指が、かすかに震えている。

「シルバー?」

「…………っ」

 呼びかけると、身体に入っていた力がわずかに抜けたようだった。

 ゆっくりと目蓋が上がり、熱に潤んだ黒瞳がフェイを見返す。


「終わった、か?」


 その呼吸は、先程までよりもさらに浅く、短いものになっていた。青ざめていた顔色が、今度は逆に紅潮し始めている。手のひらの下、冷たいままの左足とは裏腹に、熱が上がってきているようだ。

 これ以上は、無理強いとなる。少なくとも今はまだ、緊張を解いた状態でこの先を許されるほど、彼女からの信頼を得られていない。


「ああ……とりあえず、解熱剤と痛み止めを出しとく。後でリュウを呼ぶから、ゆっくり休んどけ」


 そう言って、診療鞄を引き寄せる。処方箋の必要がない簡単な市販薬は、常に持ち歩いていた。本来ならば、適当な見立てだけで薬を出すなどもってのほかである。しかしよほどのことがなければ診療所まで足を運ぼうとしない者も多い獣人種達を相手にしていると、見かけたその場で対症療法を取るしかない場合もままあるのだ。

 だが、薬を選ぼうとしたフェイへと、シルバーは力なく(かぶり)を振ってみせる。

「必要、ない」

 それは薬についてか、それともリュウへの連絡に対してか。

 どちらにせよ、はいそうですかと笑って同意できる内容ではなかった。病人の我儘だと一蹴するのは容易いが、しかしこの状態のシルバーに対し、うかつな対応をするのも躊躇われる。

 故にフェイは、頭ごなしに否定はせず、ただ静かな口調でその理由を問うた。

「どうしてだ?」

「…………」

 既に頭を持ち上げているのも辛いのか。シルバーは首を捻じ曲げるようにして、かろうじてフェイの方を見返してくる。肉の薄い口唇が、ゆっくりと動かされた。


「この、痛み……は」


 力を振り絞るようにして、浅い呼吸の下から言葉が紡がれる。


「私が、受け止めるべき……ものだ」


 その顔を、つうと一筋、脂汗が流れ落ちる。

 熱で縁が赤くなった、目蓋を伏せる。その頬に伝う雫は、どこか別のものを想起させて。

 再び左足を押さえた手に、力が込められる。服に皺が寄るほど、強く膝関節を握りしめる。


「……この足、と……だけ、が……『彼女』の……ッ」


 ひきつるように息を呑んだシルバーが、いきなり背中を丸めた。

 喉の奥へと苦鳴を飲み込み、サイドボードへと汗に濡れた額を押し付ける。


「おい、シルバー!?」


 突然のことに慌てて患部を確認しようと近づいたフェイの耳に、押し殺したような呻き声が、かすかに届いた。


 ―― 私、さえ……なけれ、ば……


 震えるその声と身体は、はたして痛みに起因するものだったのか。

 それとも……

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