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鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街で
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第四章 常連達

 その日は昼をはるかに過ぎ、もう夕方と表現した方がふさわしい時間帯になってから、よれよれになった白衣を着たドクター・フェイがやって来た。エビグラタンとコーンたっぷりのコールスローサラダにオレンジジュースを注文して、力尽きたようにカウンターへと突っ伏す。

 どうやら今日の診療所は、かなり繁盛していたらしい。

「うう……腹減ったの通り越して、かえって食欲が湧かねえ……」

 見た目だけ木目調の樹脂板に額を擦りつけながら、ぶつぶつと呟いている。

 そんなどこか危ない雰囲気を立ち昇らせているフェイの横へと、店内にいた客の一人が席を立って近付いてきた。

 背が低く体型もずんぐりとした男で、短く刈り込んだ茶褐色の髪がつんつんと上を向いている。一見するとうだつのあがらない小太りの中年だが、見た目とは裏腹に作業着の下は筋肉の塊で、腕力と体力を自慢にしている男だった。元々は力仕事をさせるため設計された水牛種のキメラで、いま勤めている荷運びの現場でも、若い衆から恐れられつつ尊敬を集めているらしい。

 彼もまた、毎日のようにこの店を訪れては、他人の三倍食べていく常連客である。当然、フェイとも顔馴染だ。

 男は一緒に移動してきた食べかけの山盛りチャーハンをカウンターに置き、隣の椅子を引いて腰を下ろした。

「あのなあ、先生よぅ」

「んー?」

 そう話しかけてきた相手へと、フェイは顔だけを向けて反応する。気の抜けた声を返されて、男は何やら言いにくげに口ごもった。

「その……こないだ、あんたに頼まれて引っ越しの手伝いやった、ここの持ち主のことなんだが、よ」

 鮮やかな黄色の瞳をうろうろとさまよわせ、言葉を探しているようだ。

 彼 ―― ゴウマ=バックスは、新しい家主がこのビルに移ってくるにあたり、フェイの紹介で数名の仲間達と共に、荷物の運搬を請け負った人物だった。家具のたぐいはほとんどが部屋に備え付けられているので、運んだのは箱に詰められた身のまわりの品がメインだ。しかし女の一人暮らしにしては異常と思えるほどその数が多かったのは、やはり金持ちだからであろうか。

 さらに精密機器だから注意するよう言われた各種の機械類が、ひどく扱いに神経を遣わされた。現場の肉体労働者では何に使うのか見当すらつかない大小様々なマシンを、いったん室内に運び込んで緩衝梱包材を外したのち、改めてあちらへこちらへと、細かい設置場所を指示されるまま配置する羽目になったのだ。うっかりぶつけて壊しでもしたら大変なことになる、と。それはもう一同、冷や汗をかきながらの作業であった。

 いかに日頃世話になっているドクターの頼みであったとしても、あんなに気苦労が多い仕事は二度としたくないと、心底から思う。

「あんた、いったいどういう関係なんだ」

 キメラにも高度な教育を受ける機会を与えようという実験的な試みから、特例 ―― という名の半ば強制で人間と同じ高等教育機関に通ったフェイ=ザードは、好むと好まざるとに関わらず人間(ヒューマン)と日常的に接触せざるを得なかったという。その頃のしがらみか何かで、新オーナーにも便宜を図る他ないのであろうか、と。

 そんなふうに問われて、フェイはようやく身体を起こして座り直した。だるそうに頬杖をついて、どう答えるか思案するように視線を上へ向ける。

「シルバーとの関係、ねえ」

 呟かれたその名に、ゴウマは焦りの色を浮かべて腰を浮かせた。

「バッ、おい! なんで呼び捨てになんかできるんだよ!? ありゃ人間だぞ!!」

 気に障りでもしたら、いったい何するか判らねえだろうがと、大慌てで周囲を見まわす。そんなゴウマの素振りを、フェイは目を細めて眺めた。

「あっちがそれで良いっつったんだ。心配しなくても、これっくらいで怒りゃしねえよ」

「そうは言ってもよ……人間じゃねえか」

 かたくなに言い募るゴウマに、ちっと舌を打つ。節くれだった長い指先が、苛立たしげにカウンターを叩いた。

「……うちの患者の関係者だよ、シルバーは。だから前から知り合いだった。それ以上は守秘義務だ」

 フェイの診る患者は、獣人種(キメラ)に限られている。だからその患者本人については、ゴウマも根掘り葉掘り訊こうとは思わなかった。そこには同じキメラとして、人間に迷惑をかけられている同志だろうという、無意識の仲間感覚が働いている。

 関係者と言っても、いろいろな種類があるのだ。どうせ職場が同じだとか、必然的に上位の立場にある彼女が、なにか無理を通したのだろうとか。ゴウマにはそういった経緯(いきさつ)しか想像できなかった。

「あのオーナーは、なんだってここを買ったりなんかしたんだ? あんた理由を聞いたりとかしてないのか」

「理由、ねえ」

 フェイは小さく肩をすくめる。

「そんなの、買いたかったからだろ」

「そう言うことを訊いてんじゃねえよ!」

 まともに答えない相手に、ゴウマが思わず声を荒らげた。

「あいつがなんでここを買いたいと思ったのかって、それを訊いてるんだ!!」

 それは仕事場の若い連中なら、すくみ上がってしまうような怒声だった。しかしフェイは表情も変えず、あっさりと受け流してしまう。日々さまざまな患者が訪れ、時には裏社会に足を突っ込んだ奴らが殺気立ったまま血塗れの怪我人を担ぎ込んでくるのすら日常なのが、フェイの診療所だ。少しぐらい腕っ節が強い程度で、根は実直なカタギの男の恫喝程度、彼にはなんらの痛痒ももたらさない。

 逆に眼鏡のレンズを光らせながら、フェイは冷ややかな目でゴウマを見つめ返す。

「そんなこと訊いて、どうしようって言うんだ?」

「ど、どうするって、そりゃ……」

 答えに窮する男へと、嘲るように鼻を鳴らす。

「理由が気に入らなけりゃ、いびり出しでもするのか。できないよな、お前なんかには」

 ゴウマの顔色が、カッと赤く染まった。

「俺は……!」

 反射的に声を上げようとして、そこで息が詰まったのか。ぐっと何かを呑み込むようにして言葉を切り、そうして深く項垂れる。

「俺は、ただ……これ以上人間の気まぐれで振りまわされたくねえんだ。ちっとはマシなアパートつっても、しょせんはキメラの住処だぜ? わざわざ人間が買い取って、しかも自分が住むなんて考えられねえだろ。いったい何を好き好んでそんなマネするのか、おかしいと思うのが当たり前だ」

「 ―― そうよ」

 近くの席にいた、他の客が口を開いた。

 高く澄んだ声と、(つや)やかなエメラルドグリーンにオレンジのメッシュが入った髪が特徴的な彼女は、カワセミの獣人だった。かつてはその美しさと歌声を持てはやされた観賞用の種だったが、現在はもっぱら並外れた目の良さと、小まわりの効く身軽さが重宝されている。

「前の持ち主の人間も、ここには一度も顔を出さなかったじゃない。そうでしょう? だっていくら端っこの方でも、ここはキメラ居住区なんだもの。まっとうな人間が、わざわざ来るわけないわ」

 キラキラと輝く長い髪の先端をいじりながら、まだ十六になったばかりの小柄な少女が唇を噛みしめる。

 さらに別の者が先を続けた。浅黒い肌をした禿頭(とくとう)の男で、細く長い手足をテーブルの下で持て余すように折りたたんでいる。ニシキヘビの遺伝子を持つ彼は、カワセミの少女とは逆に視力はあまり良くなかった。その代わりピットと呼ばれる赤外線を感知できる器官を体内に持っており、暗いところでの行動を得意としている。

「……あれほど若い、しかも女なのに、それでもここを買えるぐらい金を持っているということは、どうせタダ者ではないんだろう。何か表向きにできない稼業にでも関わっているのなら、いずれこちらにも何らかの影響が来るかもしれない」

「そうさ! それこそキメラなんて、いくら巻き込んだって良い。盾代わりだとか考えてるんじゃないのか!?」

 次々と溢れ出る不信の言葉は、それだけ彼らが理解できない相手に対する疑心暗鬼を抱え込んでいたからなのだろう。それがきっかけを得て、いっきに噴出した形だ。

 しかし……


「 ―― いい加減に、しろ!!」


 怒鳴り声と共に、がしゃんという音が店内に響き渡った。

 黙って客達の不満を聞いていたフェイが、カウンターへと拳を振り下ろしたのだ。水の入ったグラスが倒れ、白衣の袖を濡らす。その冷たさを気にする様子もなく、フェイはぐるりと視線を巡らせて順ぐりに一同を睨み据えていった。

 いつも陽気で、厄介な患者やしつこい酔っぱらいなどが相手でも己のペースを崩すことなく対応する、この街で唯一の医師。そんな彼のめったに見せない表情に、鋭い眼差しを向けられた客達は、気を呑まれたように黙りこんだ。

 ひと通り全員を見わたしてから、フェイは低い声で話し始める。


「改めて訊くぞ。シルバーがお前達に、なにか不都合なことをしたか。出て行けと言ったか。家賃を上げたか。面倒な規則を作って押し付けたりしたか」


 ひとつひとつ数え上げるようにして、確認してゆく。


「シルバーはただ、ここに引っ越してきただけだ。ここの住人のひとりとして、当たり前に暮らしてるだけだ。住人がこの店に飯食いに来て何が悪い? ちゃんと金を払って、順番を守って。ここの料理が旨い、ここの飲み物が美味しいって、そう言ってることの、いったい何が悪いってんだ!?」


 いつもより赤味の増した目で、さっきまで文句を並べ立てていた客達を咎めるように見る。


「……人間が、そんなこと」


 ぽつり、と。

 呻くように呟いたゴウマの胸ぐらを、フェイは腕を伸ばして掴み寄せた。

「お前が、どの口で言う気だ?」

 顔を近づけて、頬が触れるほど間近くから問いかける。

「俺はちゃんと伝えたよな。シルバーが引っ越しの礼を言ってたって。報酬だって、こっちの足元見たりせず、ちゃんと相場通りに支払ってくれたんだろう? 公正な契約で公正な仕事を請けて、感謝までされといて、それでも雇い主を悪しざまに言うのか、てめえは。それこそ何様のつもりだ?」

「…………っ」

 ゴウマは視線を逸らして顎を食いしばる。

 フェイは手を離すと、気を落ち着かせるようにひとつ深呼吸した。

「 ―― シルバーはな。悪いって、そう言ったんだ」

「は?」

 話が唐突に変わって、誰かが調子の外れた声を出した。

 フェイはその相手を探すように、身体全体を店内の方へ向ける。

「そんなにここの茶が飲みたいのなら、部屋まで届けさせれば良いって、俺が提案したんだ。そしたら、それは悪いって。何度も運ばせるのは迷惑になるから、だから自分で飲みに来てるんだって」

 カウンターの内側で、サラダを盛り付けていたリュウが、ぴくりと尖った耳を動かした。

「……シルバーのあの足じゃあ、七階からここまで歩いてくるのも大変なはずだ。杖ついて往復するだけで時間が掛かるし、体調によっては痛む日もあるらしい」

 引きずっている左足を思い出させるように、フェイは曲げた膝頭を叩いてみせる。

「それでもここのお茶が飲みたい。だけど配達させるのも悪い。そう思ったから、自分で何度も上がり下りできない代わりに、何時間もここで仕事してたんだ。それだけ……この店に気を遣ってくれてたんだよ」

 たとえそれが、完全に的を外した、逆効果にしかならない配慮だったとしても。

 それでも同じ場所で、同じものを、同じ食器を使って飲み食いする。なんの違和感もなく、ごくごく自然な態度で続けられていたその行為こそが、彼女が獣人種に対して抱いている感情を、はっきりと表している。

 けして、ことさらに好意的ではないかもしれない。

 積極的に会話をしようとするでもなく、注文の際に笑顔のひとつを浮かべるでもなく。彼女はただひたすら自身の世界に一人で閉じこもり、周囲に壁を巡らせているようにも見えるだろう。

 しかしそうであっても、そこに悪意や軽侮の念が存在している訳ではないのだ。

 シルバーはこの店に集うキメラ達に対して、理不尽な振る舞いをしたことは一度もない。

 果たしてそれが、どれほど稀有な事実であるものか。

 かつて人間達と同じ場で高等教育を受けた ―― 受けさせられたフェイには、肌身に染みて理解できる。表向きは理解ある寛容な態度を装いながら、陰湿な嫌がらせを仕掛けてくる人間がどれほど存在したことか。あるいは差別意識など持っていないと朗らかに笑い、己自身そう信じ切っていつつも、まったく無自覚なレベルで当たり前のように、明確な蔑視を見せつける者もいた。

 そんな人間に囲まれて過ごした経験を持つからこそ、シルバーが獣人種と接する際に、どれほど注意を払っているのかを、彼は汲み取ることができた。

 いささか見下ろすような言葉遣いは、彼女が建物全体の持ち主だという立場からすれば、別に不自然なものではない。ただほんの少し、その年齢と性別によって、違和感が大きくなっているだけだ。もしもシルバーがそれなりに歳を重ねた男性であったならば、誰もそこを問題にはしなかっただろう。

 繰り返すが、彼女が実際にとっている行動は、けして道理の通らないものではないのだ。


「お前らも、その(ツラ)にあるのは節穴じゃねえんだ。ちったあこじ開けて、もっとちゃんとシルバーを見てみろよ。そしたら判るさ。シルバーにはやましい所なんかない。キメラにだって、良い奴と悪い奴がいるのと同じで……シルバーは人間だけど……そんなに悪い奴じゃあない」


 そう締めくくって、フェイは深々と息を吐いた。

 ポケットを探って皺になった紙幣を取り出し、カウンターの水たまりを避けた場所へと置く。

「……騒がせちまって悪かった。スマンが飯はもういいや。誰か代わりに食ってくれ」

 じゃあ、と軽く手を挙げて、椅子から立ち上がった。そうしてそのまま店を出て行ってしまう。


「…………」


 残された客達は、気まずげな表情で互いに顔を見合わせていた。

 ポタポタとカウンターから床に向かって垂れてゆく雫に、リュウが台拭きを持って調理場から出てくる。



   §   §   §



 壁の時計が20時を告げると、ドアのベルが鳴った。

 いつものように杖をつき、足を引きずりながら歩みを進めるシルバーの姿に、客達のうち何人かは複雑な目を向けている。

 今日の服装は、首元の開いたアイボリーのシャツブラウスに、細かい千鳥模様が入った暗灰色のスラックス。上には共布のベストを合わせていた。ベストは身体のラインが出るデザインで、腰のあたりなど見ていて不安になるほど細いのがはっきりと判る。

 と ――

 規則正しく動かされる杖の先に、小さな物が転がって来てぶつかった。

「あ……っ、ご、ごめんなさい!」

 慌てた声を上げたのは、まだ小さな子供だった。もちろんのこと、獣人種だ。

 短い薄茶の髪に、大きな丸い焦茶色の目をした十歳ぐらいの少年である。長袖の丸首Tシャツに半ズボンといったラフな格好で、隣の椅子には背負うタイプの鞄が置かれていた。食べ終えたカレーの皿がテーブルの端に寄せてあり、空いたスペースに教科書とノートが広げられている。

 どうやら学校の勉強をしているようだ。

「 ―――― 」

 シルバーは無言で床へと視線を落とした。

 杖の横に転がっているのは、丸くすり減った使いさしの消しゴム。何かの弾みにテーブルから落ちたのだろう。

 急いで立ち上がろうとした少年は、椅子を引っ掛けガタガタと音を立てていた。焦れば焦るほど足が絡まっていくのをちらりと見て、シルバーは杖を持ち変える。不自由そうに右膝だけを曲げて伸ばされた左手が、消しゴムを拾い上げた。そうして揺れているテーブルの上へと、静かに置く。

「え……?」

 驚いたように動きを止めた少年を尻目に、そのまま卓の端を掴んで立ち上がった。一連の流れに従って下がった目線が、開いたノートに並ぶ文字を視界に入れる。(つたな)()で書かれた数式を惰性で追った瞳が、一箇所で止まった。

 細い指が伸ばされ、数式の一部を指し示す。

「計算が、違ってる」

「は……えぇっ!?」

 呆然とシルバーの動作を見つめていた少年は、突然指摘されて勢い良く手元へと意識を戻した。

「ど、どこが!?」

「 ―― ここだ」

 短く整えられた爪の先を、ペンを握りしめた少年が真剣な目で見つめる。やがてその口から唸り声が漏れてきたが、どうしても誤りを見つけられないようで、そのまま動かなくなってしまう。

 その後頭部をしばらく見下ろしていたシルバーは、きゅっと杖を鳴らして姿勢を変えた。空いていた向かいの椅子へと浅く腰を乗せ、上半身を捻って少年の方を向く。そうして放り出されている教科書のページを、手のひらで覆った。

「……公式は、全部でいくつある」

 低い声で問われて、少年は教科書の方へと顔を向けた。しかしそこに記されている例題は、手が邪魔になって確認できない。えっと、と上の方を見て記憶をたどる。

「みっつ、かな」

 なんとか答えると、さらに問いが重ねられる。

「三つとも書けるか」

「ん、んっと……」

 ああでもないこうでもないと首を捻りながら、ノートの余白部分でペンを動かす。何度も消しゴムを使いながら、ようやく書き終えた。これであっているかと、どんぐりまなこを上目遣いにして見返す。

 それに応じて、シルバーはひとつうなずいた。

「では、その公式の中から、この場合に使うのはどれだ」

「これ、だよね」

 今度は迷いなくひとつを選び、自分が書いた計算式と見比べる、と、そこであっと大声を上げた。

「2と3が逆になってる!?」

「そうだな」

 慌てて該当部分を消し、筆を走らせる。それ以上は何も言わず見守っていたシルバーの前で、やがてその手が停止した。ゆっくりと顔を上げた少年は、満面の笑みを浮かべている。


「終わったーーー!!」


 高らかに歓声を上げて、両手で万歳する。

 どうやらこれが、手こずっていた最後の問題だったらしい。全身で喜びを隠さない少年を見つめるシルバーは、変わらぬ無表情のままであった。

 ―― いや、ほんの少し。

 ごくごくわずかだが、その口元が緩んでいるように見えなくも、ない。

「ありがとう、お姉さん!」

 勢い良く身を乗り出してくる少年の勢いに流されて、そんな印象はすぐにかき消されてしまったが。

「自分が覚えていた公式を、自分で思い出しただけだ」

 いつも通り感情のこもっていない声で告げるシルバーに、しかし少年はめげることなく首を振る。

「ううん。だってお姉さんが教えてくれなかったら、オレどこで間違ってるか、ぜったい判らなかったもん!」

 だから、ありがとうと。笑顔でまっすぐ礼を言う。

 シルバーは、わずかにその目を細めた。そして視線を一度、テーブルへと落とす。

「……その呼び方は、やめてくれないか。私は、セルヴィエラ=アシュレイダだ」

「せ、せる……ら……?」

 口にされたフルネームを、やはり少年は聞き取れなかったようだ。それでも頑張って発音を試み、案の定、途中で噛む。

「シルバーで良い」

「……しるばー?」

「そうだ」

 うなずいた彼女に、少年はぱっと嬉しそうに破顔した。

「えっとね、あのね。オレは、ルディ! ルディ=ダンだよ」

 まるで仔犬がじゃれかかるかのごとく、両手をついて前のめりに顔を近づける。

「ルディ……か」

 特に身を引こうとするでもなく、そのままの姿勢でシルバーは繰り返した。どこか味わうように、口の中で転がしている。

「うん。オレのね、死んじゃった母さんが付けてくれたんだって。良い名前でしょ?」

 否定されることなど考えもしていないといった少年 ―― ルディの言い(よう)に、シルバーは顎を引いて同意してみせた。

「そうだな……私の義父(ちち)と、同じ名だ」

「お父さんと?」

「 ―― ああ。義父はゴルディオンと言ったが、私はルディと呼んでいた」

「そっかー!」

 ルディはにこにこと上機嫌で笑い続ける。

 そんな素直な感情表現に引きずられでもしたのだろうか。シルバーの表情にもまた、今度こそ柔らかい雰囲気が入り交じる。

 それは、ごくごく淡くはあったけれど。それでも確かに笑みと呼べる、そんな気配だったのである ――

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