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鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街でV ―― Love is blind.
56/95

第四章 霧の中から

 甲高い音と共に、表通りに面した側にある広い窓が、一瞬で粉砕された。

 まるで爆発するかのように砕け散ったガラス片が床に落ちるのと時を同じくして、拳大の塊が幾つも投げ込まれ、装飾が施されたタイル張りの床で跳ね返る。

 客達の悲鳴が湧き起こる中、ジグは何が起きたのか認識するよりも早く、隣に座っていたシルバーの肩を引き寄せ、自らの身体ごと椅子から転がり落ちた。

 そのままもっとも近くにあった観葉植物の影へと、這うように移動する。その時には既に、細い肢体を腕の中へと抱え込んでいた。そこまでの一連の動きは、完全に無意識のものである。気がついた時には、床に尻を着けた状態でシルバーを胸元に庇い、観葉植物の隙間から割られた窓の方へと注意を向けていた。

 投げ込まれた塊から、勢いよく白煙が吹き出す。複数箇所で同時に噴出したそれは、みるみるうちに店内の空気を濁らせていった。


(……催涙弾……いや、ただの煙幕か)


 ポケットから出したハンカチで、手早くシルバーの口と鼻を覆う。自身はいったん呼吸を止めたが、その寸前に届いたわずかな臭いで、毒性の低い、視界を奪うのみが目的の煙だと判断する。もちろんまったくの無害ではありえないので、シルバーには直接吸い込まぬよう、身振りで伝えた。

 幸いにも彼女は、こんな状況でも冷静さを保っていた。いきなり発生した予想外の事態にも、鳴り響く非常ベルの音や煙にも動じることなく。また手荒に引きずり倒された行為への不満を見せたりもしない。無言でジグの指示に従い、自らの手でハンカチを押さえ、姿勢を低くしながら周囲に視線を向けている。護衛する側としては、至極ありがたい態度だ。

 その落ち着きに内心で感謝しながら、ジグは状況把握に務める。

 視界の悪さは、彼にとって大きな障害とはならなかった。むしろニシキヘビの獣人として、赤外線を感じ取るその能力を、最大限活用できる場と言っても良いぐらいだ。

 店内にある熱源の位置と数を確認し、発煙弾が投げ込まれる寸前の記憶と照らし合わせる。

 他のテーブルにいた客達は、そのほとんどが無秩序に動いていた。突然のことにパニックを起こしているのだろう。闇雲に逃げようとしては倒れた椅子に(つまず)いたり、床に落ちた料理を踏んで転倒する者が続出している。まともに煙を吸い込んだのか、背中を丸めて咳き込んでいる者も多かった。窓近くの席にいた数名は、逆にほとんど動きが見られない。ガラスが割れた際に負傷したか、意識を失っているのかもしれない。

 カウンターの後ろで小さくなっている二つは、恐らくうずくまったウェイトレスと店長だろう。厨房の方でも、一度こちらに近づいてから、急いで奥へと逃げてゆく熱源が複数。どちらも賢明な行動だ。


 全体をざっと確認してから、エルニアーナの方へ意識を向ける。すると彼女は四人の護衛に囲まれた状態で、元のテーブルからいくらか離れた場所へ移動していた。裏口から脱出しようという判断なのだろう。そちら側に待機していた控えの護衛が、声を上げて誘導している。しかしそれは悪手だと感じた。護衛とエルニアーナは煙によって方向を失いかけているし、そんな彼等へ大声で呼びかけている控えの護衛は、味方以外に対しても自身らの位置を喧伝しているようなものだ。


(もしもこの襲撃が、彼女を標的としたものであったなら ―― )


 息を潜め、極力気配を殺すようにしていたジグの視界に、ガラスを失った窓から店内に侵入する、複数の熱源が映った。かなり大柄な人型が、10体。体温の高さからして人間種(ヒューマン)ではなく獣人種(キメラ)だろう。洗練されているとまでは言えないが、それでもある程度の訓練は受けていると思しき、規律ある動きである。

 頭を床近くまで低くし、煙の薄い部分から観察してみた。すると無骨な編み上げ靴が幾つも見える。つや消しの黒で塗られ、先端を金属で補強したそれらは、戦闘目的で作られた高価な実用品だ。思いつきで強盗に入るような、ならず者が揃えられる装備ではなかった。


『 ―― 目標以外は殺して構わんとのことだ。急げ!』


 聞こえた声がくぐもっていたのは、防煙マスク越しだったからか。迷いのないその動きからして、何らかのセンサーを内蔵した、スコープも併用していると思われる。

 彼等がエルニアーナ達の方へ向かうのを見て、ジグは予想が的中したのを確信した。

 同じような襲撃は、過去に幾度も経験があった。

 エルニアーナはあらぬ恨みなどと表現したが、彼女の父が取ってきた強引な経営方針とその実行手段を思えば、あながち逆恨みばかりだったとは言えない。もちろんそれでジグが襲撃者を許したことなどないし、許す気もさらさらなかったのだが。

 そしてたとえ代替わりしていようとも、いまだエルニアーナの実家が健在であり、彼女が変わらず ―― 心安らかに、経済的な不自由をも感じない ―― 生活を続けているというのであれば、いつどこでどんな形で襲撃を受けたとしても、なんら不思議には思わなかった。

 たとえば、生き馬の目を抜くという比喩表現がある。あれは『足の速い馬の目ですら抜き取ってしまうほど、素早く行動して利益を得る』という意味らしい。しかしあの都市においては、文字通り敵対する相手の身内を捕らえ、目玉を抉り取って送りつける、そんな行為が日常的に行われていた。もちろん、表向きはそのような事件が起きたなど、公にはされない。しかし一部有力者達の間では、不自然な病死や事故死、行方不明など珍しくもなかった。ホーフェンゲインでなにかしらの組織を運営し、権力を持とうというのならば、それはどうあっても避け得ない事柄だったのだから。

 事実、エルニアーナが成人するまで五体満足で過ごせていた理由の何割かは、確実にジグの功績であったのだ ――


 立ち込める煙を裂いて、空気の抜けるような音が連続する。

 ジグにとって聞き慣れたそれは、消音器越しに放たれる発砲音だった。押し殺した悲鳴と共に、襲撃者の数名が床に転倒する。残った者は散開して近くの間仕切りや観葉植物を盾にした。その間に護衛とエルニアーナは裏口を目指す。

 ジグは小さく舌打ちを落とした。

 こんなにも視界が悪い、しかも一般人がいる場所で銃を撃つなど、正気の沙汰ではなかった。

 ここは彼らの本拠地である、ホーフェンゲインではない。まったく異なる自治組織を持った都市、レンブルグだ。それでも被害が店一軒の破壊だけならばまだ、金に物を言わせ示談で済ませることも可能かもしれない。しかし客として偶然居合わせた、不特定多数の人間(ヒューマン)にまで死傷者が出てしまえば、事件をもみ消すのはかなり難しくなるはずだ。ことにその加害者が、襲撃者側ではなく護衛達の方であった場合、ただ獣人数名を ―― 物理的に ―― 首切りするだけですむとは到底思えなかった。

 第一、こんなふうに闇雲に発砲されていては、ジグとシルバーも身動きがとれない。うっかり動こうものなら、その気配だけでこちらまで撃たれてしまいそうだ。

 苛立つ感情を意識して押さえ、ジグは事前に記憶しておいた店内の間取りを思い浮かべる。そうして今後の計画を立てた。

 それまで無言でじっとしていたシルバーの耳元へと、口を寄せる。


「……離脱する。走れるか」


 目標に集中している襲撃者達の耳にはそうそう聞こえないであろうが、それでもできるだけ小さな囁きで問いかけた。

 一瞬の沈黙ののち、短い答えが返る。


「無理だな」


 冷静な声できっぱりと断言されて、思わずあっけにとられた。

 しかし一瞬置いてから、己が何を要求してしまったのかに気がつく。叶うものならこの場で舌を噛み切りたいほどの、居たたまれなさが生じた。

 が、そんな自責の念に囚われていられるほど、悠長な状況ではない。


「……すまん。俺が抱えて走る。あんたはしがみついていてくれ」

「 ―― 判った。任せる」


 今度の答えもまた、短いものだった。

 しかしそこには、確かな信頼が感じられた。元は要人警護用として作成され、その任を解かれてからも優秀な警備員として生きてきた、ニシキヘビのジグラァト=オーク。その彼を一人の専門家として認め、素人である自身の要望をむやみに押し付けてこようとはしない。この危急の場において、何も訊かず、ただ生命を丸ごと預けるという、一種無防備な ―― そしてどこか心地の良い、信頼。


 その両腕を己の首へ回させてから、ジグは手の届く場所に落ちていたカップを手に取った。

 大体の見当をつけた方向へと、全力でそれを投擲する。かなり離れた位置で、陶器の割れる派手な音が響いた。

 エルニアーナの護衛と襲撃者達、双方の注意がそちらへ向き、続いて数発、銃弾が撃ち込まれる。

 その隙を逃さず、ジグは立ち上がる勢いそのままに床を蹴った。体格差があるのと、想像以上にシルバーの体重が軽かったおかげで、片腕で抱えることができたのは幸いだ。

 可能な限り低い姿勢で床を舐めるように走り、カップを投げたのとは反対 ―― よりもわずかにずれた方向にあるドアを目指す。

 途中、ちょうど落ちていたシルバーの杖が目に入り、空いている手で拾い上げた。

 そのまま進行方向にいた襲撃者の一人へと、その杖を振り上げる。斜め下方から顎先をかち上げると、脳を揺らされた男は一瞬で白目を剥き崩れ落ちた。

 足を止めることなくその脇をすり抜け、そうして『STAFF ONLY』と書かれた扉へ到達する。

 半ば体当りするような形で押し開けた瞬間、そこから風が吹き込んできた。新たな空気の流れを得たことで、店内に充満していた煙がわずかにその色を薄くする。

 と……


「 ―― ジグラァト!?」


 絹を裂くような高い声が、ジグの名を呼んだ。

 扉を潜ろうとした身体が、びくりとその動きを停止する。それはどうしようもない、長年にわたって繰り返し叩き込まれ、無意識のレベルにまで浸透した条件反射であった。

 この声の主を、無視してはならない。何があっても、たとえ己の命に代えても守らなければならない、と ――


 振り返ったジグの砂色の瞳が、たなびく薄煙ごしにその女性(ひと)の姿を捉えた。

 榛色のつぶらな瞳が、大きく見開かれているのが判る。そこに浮かんでいるのは、ただただ驚愕の光だった。

 何故ジグがそこにいるのか。己に背を向けて、自分ではない他の人間を護りながら場を離れようとしているのか。理解できないのだと、その目がありありと告げている。


「ジグラァト!!」


 悲痛な叫びが再度発せられる。

 彼女を守ろうとする護衛達の間から、レースの手袋に包まれた繊手が差し伸べられる。

 まるで救いを求めるかのように。あるいは早くこちらに来てと招くかのように。


「…………っ」


 ジグは一度、強く奥歯を噛み締めた。

 そうして ―― 襲撃者達がこちらへと意識を向ける前に、その視線を断ち切る勢いで扉の向こうへと身体を入れた。

 後ろ手で叩きつけた扉は、激しい音を立てて閉じる。

 白煙も、店内の喧騒も、それで急速に遠いものとなった。


「…………」


 荒い息を吐きながら、手探りで内鍵をかける。

 それから丸めていた背筋を伸ばし、無理のある抱え方だったシルバーの身体を揺すり上げた。曲げた肘に座らせる形で、なんとか安定させる。

 そうして彼は、目の前にある階段を上がり始めた。

 関係者用のそこは、ひどく狭かった。ただでさえ大柄な体躯のジグが、人ひとりを抱き上げている状態では、一段ずつ踏みしめるようにしか進むことができない。

 それでも、背後で閉ざした扉を誰かがこじ開けたりすることはなく、二人は無事に二階を過ぎ三階までたどり着いた。

 事務室や物置などが並んでいる廊下を足早に通り抜け、ジグは突き当たりにある非常用の外階段の手前で立ち止まる。

 いきなり扉を開けるのではなく、嵌め込まれた小窓から、そっと外部の様子を窺った。

 表通りとは建物を挟んだ反対側。裏通りを見下ろした彼は、やはり予想通りだとうなずく。

「待ち伏せがいる。他から出よう」

 そう告げてきびすを返す。

 非常階段を地上まで降りた先と、一階店舗の裏口はほぼ同じ位置にあった。

 襲撃を受ければ、標的が裏口から逃げようとするだろうことは、相手も当然予想しているはず。むしろそちらに手を回していない方がおかしい。

 そこまで読んでいたからこそ、ジグはロッカールームや食料庫がある二階で止まらず、三階まで一気に上がったのだ。

「高い所は平気か」

 埃じみた物置へと入り込んだジグは、音を立てぬよう窓を開けながら、シルバーへと問いかけた。

 その腕の中で、シルバーはわずかに思案したようだ。

「自分で移動しろと言うならば、無理だ」

 それは別に高い場所でなくとも、そもそも彼女に求めるのが酷な話だ。

「悲鳴をあげず、暴れないでいてくれれば充分だ」

「……それならば、恐らくは」

 シルバーの表情は変わらず平静なままだったが、しかし肩に置かれていた腕に、わずかに力がこもった。先程の襲撃の間も、まるで動じた様子を見せなかった彼女だ。いつものように淡々と「問題ない」といった答えを返すと予想していただけに、少々意外に感じた。

 まあ誰しも苦手なものは存在する。もしも本当に駄目なようなら、いったん失神させて運ぶことさえ考慮したのだ。この程度は想定外にもならない。

「なら、しっかり捕まっていてくれ」

 ジグは窓枠に腰掛けるようにして、まずは両足を外に出した。そうして隣接する ―― 同じ表通りと裏路地に面している並びの、隣の建物を見下ろす。

 そちらは二階建てで、今いる窓よりも数メートル下に屋根が存在していた。建物同士の間はかなり接近している。しかしそれでも、1メートル以上は離れていた。地表近くであれば ―― それも獣人種にとっては ―― どうということもない距離だが、さすがに地上三階もの高みにあると、いささか緊張する。

 窓枠のすぐ下にあるわずかな突起部分を足場と定め、シルバーの上体を両腕でしっかりと固定した。


「行くぞ」


 短く宣言し、一度身体を屈めてから体重を前方へ移動させ ―― 思い切り跳ぶ。

 一度浮いた靴底は、目測通り隣の屋根を捉えた。深く膝を曲げて着地の衝撃を吸収したジグは、間をおかず勾配のある場所を走り始める。そうやって助走をつけ、さらに隣の建物目掛けて踏み切った。

 同じようにしていくつかの建物を経由しながら、徐々に着地する足場を低くしてゆく。最後には事前に下見で目星をつけておいた、人気の少ないビルのベランダに片手でぶら下がり、その敷地内へと降り立った。

 防犯カメラを避けて表通りへ出ると、先程の店がまだ視界に入る位置である。

 とは言え、いきなりガラスを割られた上に大量の煙が吹き出し、客達が悲鳴を上げて逃げ(まど)っているわ、銃声らしきものまで聞こえてくるわで、そちらは遠目からでも判る大騒ぎとなっていた。いくらか距離をおいて周囲を取り巻いている野次馬の向こうから、通報を受けたと思しき官憲の車が鳴らす、独特なサイレンが響き始めている。

 裏口と非常階段に注意を集中していただろう伏兵は、頭上を越えていったジグ達に気づかなかったようだ。こちらを追ってくる気配は感じられないし、あのサイレンを聞けば自分達が逃げることを優先するだろう。

 任務のためならば、たとえ生命をも惜しまぬよう訓練されているのが首輪付きの戦闘員だ。しかしこんな場所で捕縛された後に自決すれば、遺された死体からでも、飼い主に繋がる手掛かりを見つけられてしまうかもしれない。そんなリスクを犯すとは思えなかった。

 ジグはようやく息を吐き、緊張を緩めた。

 周囲を見渡すと、立ち止まって煙が上がる店を眺めている人々の間に、路肩で停車しているタクシーを見つける。折しも都合良く、運転手は獣人だ。

 姿勢を低くしてシルバーを歩道に下ろしたジグは、ずっと掴んだままだった杖を手渡した。それからことさらゆったりとした歩調でタクシーへ近づいてゆく。軽く曲げた指でガラスを叩き、これまた熱心に見物している運転手の注意を惹いた。


「キメラ居住区の、診療所まで頼む」

「あ? ああ。そりゃ構わねえが……」


 運転手が訝しげに返したのは、通常、獣人種はタクシーなど利用しないからだった。

 キメラ居住区内でもそうだが、彼らはある程度の距離であれば普通に歩くか、自前の軽車両を使う。一般居住区で公共交通機関を使う場合も、乗り合いのバスかレールウェイがせいぜいだ。わざわざタクシーになど乗るのは、体力がなく金はある人間種(ヒューマン)と相場が決まっている。

 運転席からの操作で、後部座席のロックが解除された。そのドアを開けながら、ジグはシルバーの方を振り返る。

 既に杖をきちんと持ち直していた彼女は、わずかに左足を引きずりながら歩み寄ってきた。乗り込むのを補佐するべく、ごく自然に手のひらを差し出す。

 しかしシルバーは、一度は素直に手を借りかけて ―― そこでふと、躊躇うように動きを止める。


「……良いのか?」


 静かな口調で問いかけられて、ジグは思わず眉を寄せる。

 質問の意図するところが汲み取れなかったのだ。彼としては、危険が残る場所から一刻でも早く離れたいのである。叶うものならさっさとしろと急かすべきところだが、あまり不自然な目撃情報を残すと不都合になりかねないため、努めて余裕ある振る舞いを装っているというのに。何を悠長に立ち話などしようとするのか。


「何がだ?」


 苛立ちが声に滲むのを隠しきれなかった。

 低く押し殺したその声に、運転手が驚いた目を向けてくる。人間(ヒューマン)に対して何という物言いをするのかと思っているのだろう。だが幸い聞き取ったのは運転手だけのようで、周囲の人々はみな、まだ事件現場の方に気を取られているようだ。その注意がこちらへ向かないうちに、さっさと話を終わらせてしまいたい。

 ジグの内心に気付いているのかどうか。シルバーは一度目を伏せると、やはり小声で続けた。


「あの女性が無事だったか、確認しなくて良いのか」


 意外過ぎるその言葉に、一瞬言葉を忘れた。


「この車があれば、私は一人で帰宅できる。お前だけであれば、様子を窺うことは可能だろう」


 確かにジグ一人の身軽な状態であれば、護衛達から身を隠しつつ、情報を集めることは難しくなかった。少なくとも先刻目にした彼等の練度からすれば、たとえ一線を退いた身とは言え、そうそう遅れをとるとも思えない。

 確かにそれは、可能なことだろう。

 そしてそれが、シルバーなりの気遣いであることも判った。

 己がかつての主人に対し、その下へ戻ることを拒みながらも、断ち切りきれない複雑な想いを抱いていることを、彼女は理解しているようだった。それが恋情をも含む、歪んだ執着とさえ呼べるものだとまでは、さすがに気付かれていないだろうが。


 しかし……


 ジグは小さく(かぶり)を振った。


「今の俺は、あんたの護衛中だ。途中で仕事を放り出すような、無責任な真似をする気はない」

「……身内の『事故』は、早退するのに充分な理由だ」


 念のためか『事故』と表現し、早退という一般的な単語を選択している。それでも言いたいことはひとつなのだろう。

 遠慮はするな、と。

 ジグはふと口元を緩めた。

 本当に、この人間(ヒューマン)女性は。どうしてここぞという時に、どこまでも不器用な ―― それでいて聞く者の心を鷲掴みにするような配慮を見せるのだろう。


「元、だ。もうとっくに……十年も前に縁の切れた、『元』身内だ。ある意味では、赤の他人よりも性質(たち)が悪い。あんたもそう、言ってただろう」


 それは、ルディ少年の誕生祝いの席でだった。

 親兄弟で潰し合う者はいくらでもいる、と。たとえ血の繋がりのある者同士であれ、保身のために切り捨てるのは当然のことだと。

 それは逆の視点から見れば、別に血の繋がりなどない相手とでも、その意志次第で家族に……身内になることができると言う主張。その相手を身内と見なすも、赤の他人と見なすも、それは当人達の考え方ひとつで決まるのだと。


 煙が薄れた、あの瞬間。

 名を呼ばれたそのことで、身体は半ば強制的に動きを止めていた。

 差し伸べられたその手から目をそむけるのに、気力を奮い起こす必要があった。


 けれど……


「話し合いは、後日仕切り直しになるだろう。また手間を掛けてしまうのは悪いが、今日はうるさくなる前に帰った方が良い。あんたも、俺も」


 俺も、という言葉に力を込めて告げると、シルバーはようやく納得したようだった。

 浮かせていた手のひらを重ねてきたので、左足に負担がかからぬよう気を遣いつつ、後部座席へと誘導する。

 そうしてドアを閉め、自身は助手席に乗り込んだ。


 間近で会話を漏れ聞いていた運転手は、何やら目を白黒させている。

 具体的な名称などはぼかしていたので、内容を理解はされていないはずだ。ただ獣人種であるジグが、人間である、しかもいかにも地位がありそうな雰囲気を持つシルバーに対し、対等な口を利いている様子に混乱しているのだろう。

 【Katze】ではすっかり当たり前になっているやりとりが、この場所では信じられないものとして、奇異の目で見られてしまう。それをむしろ不思議だと感じる、己の意識がなんだか可笑しい。

 そうだ。

 彼女こそ ―― シルバーこそがもうとっくに、他でもない己の『身内』に入っていたのだと。今さらながらにそう自覚して。


 あの時、扉を閉じて、エルニアーナの視線を断ち切った。

 それからシルバーを抱えて建物を脱出し、屋根伝いに地面まで降りて、このタクシーに声をかけた。

 そうしてシルバーに改めて問いかけられた、その瞬間まで。

 自分は完全に、エルニアーナのことを意識の外に置いていた。

 それは護衛達に守られているから大丈夫なのだと、信用して任せていたのでもなく。

 今の己の責務は、シルバーを守ることだと、強いて脳内から振り払っていたのでもなく。


 あくまでごくごく自然に、忘れていた。

 そう、忘れていたのだ。


 よく考えてみればこの数年間も、彼女のことを思い出す方が少ないぐらいだった。

 シルバーという、獣人種を対等に扱う人間(ヒューマン)女性と接触を持ったことで、ここしばらくは多少なりと思い出す頻度が増えていたかもしれない。そこへもってきて、前触れもなく連絡など来てしまったから……だから自分は驚いて、必要以上に焦って、浮足立っていたのかもしれない。


 そんなふうに分析してみれば、まるで目の前にかかっていた霧にも似た何かが、晴れてゆくように感じられる。

 明るく開けた視界で改めて自身を振り返れば、なんだかとても、心が軽い ――


 ふと気が付くと、タクシーは未だ発車していなかった。

 隣に座る運転手を振り返り、もう一度行き先を告げる。


「キメラ居住区の、ドクター・フェイの診療所だ。場所が判らないのか?」

「え、あ……い、いや。そいつは大丈夫、だが。その……」


 運転手は狼狽えながら、バックミラー越しに後部座席を見やる。

 背凭れのクッションに身を預けた彼女は、いつものように手のひらサイズの端末を取出して、なにやらしきりに操作していた。その表情がわずかに顰められる。

 そうして端末に目を落としたまま、口を開いた。


「すまんが、無理のない程度に急いでくれるか。この端末だけでは、処理が追いつかん」


 彼女の物言いを聞き慣れたジグは、それが言葉の通り、あくまで法定速度を守り、常識の範囲内で急いでもらえればという要望なのだと理解できる。

 しかし常日頃から高圧的な人間達に無理難題をふっかけられているのだろう運転手の耳には、一秒でも早く到着しなければ、どうなるか判っているな? といった副音声が聞こえたようだった。

 飛び上がるようにしてサイドブレーキを解除した彼は、タイヤを軋ませながら車を発進させる。その後も凄まじいスピードで走行を続けるが ―― そこはさすがに客と官憲の双方から向けられる不条理を、日常的に捌いているだけのことはある。ぎりぎり見咎められない程度に、そして事故を起こさない範囲を見極めた、絶妙な運転技術を披露している。

 代わりに揺れは相当だったが、ジグにとってはこの程度慣れたものだった。むしろシルバーが心配になって振り返るが、彼女も彼女で器用にバランスを取りつつ、端末を操作し続けている。あの小さな画面を凝視したままで、よくぞまあ乗り物酔いしないものだ。


「……こんなことなら、鞄を先に帰すんじゃなかったな」


 不満に感じているのはそれだけらしい。

 エルニアーナ達との交渉の場へ向かうにあたり、事前の会議で使用していた端末入りの鞄は、余計な荷物になるだろうという話になった。そもそも、常に片手が杖で塞がってしまう彼女が、キーボード付きの端末を持ち歩くこと自体、無理があるのだ。必要なデータを入れた外部メモリだけであれば、簡単にポケットへ収まる。端末自体は相手先で借りれば良いだろう。いっそのこと相手先から直接、ペントハウスに設置したサーバーへと接続すれば、それさえも不要なはずだとジグなどは思ったのだが。

 しかし彼女の言によると、一般企業が使用している大量生産の普及品など、性能(スペック)が低すぎて使えた代物ではないらしい。しかもセキュリティ対策が適当だから、うっかり外部メモリなど差し込んで、メモリ自体が汚染されるだけならばまだしも、データを外部へ流出されでもしては溜まったものではないのだ、と。

 ましてや、そんな端末を下手に自身のサーバーへ繋いだ日には、厳重に設計したセキュリティ網を、自らの手で突き崩すようなものだとまで力説されたのだ。

 なので己の手で納得ゆくまで調整(カスタマイズ)した端末を持ち込むことは譲らず、しかし会議終了後には邪魔になると結論されたそれは、あの店へ向かう前にスイと待ち合わせし、彼女のバイク便で一足先に【Katze】まで届けられる運びとなったのだった。

 シルバーが入店した際、杖のみを手にしていたのは、そういった次第なのである。

 実際ジグにしてみれば、あの状況で杖だけでも回収できたのは、我ながら僥倖だったと思う。それに加えて鞄を ―― しかも精密機器が入ったそれをも持ち出すのは、かなり厳しかったと言わざるを得ない。

 そう言えば脱出の際にかなり手荒な扱いをしたが、黒塗りの杖は軽い割に存外丈夫なようで、特に折れたり歪んだりはしなかったのも幸いだった。


 フロントガラスの向こうへと、キメラ居住区が見えてくる。古ぼけた、無秩序に並ぶ建物群は、洗練された一般居住区とは、まったく雰囲気を(こと)としている。

 しかしその風景を見て、確かに安堵する、自身の心がある。

 ああ、やっと気を抜いても良い場所へ、帰ってきたのだと。


 他でもない、この街こそが、今の己の居場所なのだと ――


 改めてそう噛みしめるジグを乗せたタクシーは、すっかり馴染んだその区画を目指して、真っ直ぐに突き進んでいったのだった。

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