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鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街でV ―― Love is blind.
53/95

第一章 訪れた影

「……良いだろうか」

 低い声がそう問うたのは、正午をいくらか過ぎた、遅めに昼食を摂る面々が姿を現わし始める頃合いであった。

 集合住宅の一階にあるカフェレストラン【Katze(カッツェ)】は、今日も上階の住人や近隣から足を運んでくる常連達で、ほどほどに賑わっている。

 そんな中でもカウンター正面に位置するテーブルに座るのは、いつも決まった人物だった。

 この集合住宅の家主(オーナー)であり、キメラ居住区に住まう唯一の人間種(ヒューマン)でもある、シルバーことセルヴィエラ=アシュレイダ。

 その席はもはやその人物の定位置と見なされており、よほど混雑していて、なおかつ当人が現れる時間帯から外れている場合でもない限り、他の者が使用することはまずなかった。事実いまもそこには、生ハムとレモンがトッピングされた冷製パスタの皿を前に、黒髪黒目の女性が手のひらサイズの携帯端末を眺めている。

 そんな彼女の向かい側に位置する椅子へと手をかけたのは、浅黒い肌をした禿頭(とくとう)の大男だった。上階六〇一号室の住人、ニシキヘビ種のジグである。

 間近に立つ気配に顔を上げたシルバーは、漆黒の双眸を一度、ゆっくりと瞬かせる。それからわずかに首を傾げてみせた。首の後ろでひとつに束ねられた長い黒髪が、その動きに合わせてさらりと揺れた。


「ああ……構わないが」


 淡々とした抑揚のない口調で答えが返り、それから店内へと視線が流される。

 そこここの席がまだ空いているのを、それで確認したのだろう。混んでいるが故の相席ではないと判断したのか、彼女は手にしていた携帯端末を静かに卓へと置いた。

 なにか話があるのなら、聞く。

 無言で示されたその許容こそが、彼女が一般的な人間種(ヒューマン)とは一線を画した感性を持っているのだと、如実に表していて。

 注文を取りに来ようとしてためらっていた女将へランチセットとだけ告げて、ジグは椅子を引いた。

 彼女がこのビルの持ち主となって、数ヶ月。紆余曲折を経た結果、その存在にだいぶ馴染んできたとはいえ、未だ自分から席を共にしようとする獣人種(キメラ)は、常連のごく一部に留まっている。

 その数少ない一部に属するジグが座面に体重を預けると、ぎしりと軋む音が大きく響いた。2m近い長身と、それにふさわしい幅と厚みを備えた彼にとって、この店の椅子は見るからに窮屈そうである。普段は負担をかけ過ぎぬよう気を配っているらしかったが、今日の彼はいささか仕草が荒いように見受けられた。


「…………」


 言葉を選んでいるような素振りで視線をさ迷わせるジグと、無表情のまままっすぐに見返しているシルバー。

 二人の間に、しばしの沈黙が落ちる。

 その異様な雰囲気に、いつしか他の客達もひとり、またひとりと食事の手を止め、そちらへと注意を向けていった。

 やがて ―― ジグが意を決したかのように、引き結んでいたその口を開く。


「……あんたに、頼みたいことがある」


 太腿に乗せていた大きな手が、ぐっと固く握りしめられた。


「内容は」


 シルバーの反応は、相変わらず感情の窺えない、平坦なものだ。

 最低限の単語で端的に返された問いに、ジグは吐いた息を再び吸い込み、そして……はっきりと言い切る。


「俺の、雇い主になってくれないか」


 次の瞬間、店内のそこここから物の落ちる音や、何かを噴き出したり激しく咳き込んだような響きが立て続けに発せられた ――




 ひとまず場所を変えようと提案したのは、シルバーの方だった。

 しかし己の発言によって引き起こされた混乱を目にしたジグは、このまま下手に席を外せば、あらぬ誤解や憶測が飛び交いかねないと思い至った。そこでそのまま、その場で話し合いが続けられることとなったのだが。

 そんな同意が行われている間、店内では布巾や箒を持った者が右往左往し、店の者だけでは追いつかぬ片付け作業に大わらわとなっていた。

 なにしろ、引く手あまたのベテラン警備員として、業界ではそこそこ名の知られたジグが、事もあろうに人間(ヒューマン)に対して己を売り込もうとしたのだ。たとえその相手が、人間としては『上等な』部類に入っている、シルバーだったとしても……いや、むしろ企業という漠然とした組織に対してではなく一個人をピンポイントで選んだというあたり、それはよりいっそう衝撃的な申し出であった。

 彼であれば、たとえ現在の勤務先を解雇されたとしても、次の仕事に困ることはないだろう。事実これまでにも、人間種、獣人種、企業、個人を問わず、複数の相手から引き抜きの打診を受けた経験が少なからずあるという。それぞれ待遇は異なっているだろうが、それでも食べていくだけであれば、行き先は選び放題と言っても良いはずで。

 そんな状況であるにも関わらず、あえてジグの方から、シルバーの下に付きたいと願い出た。その事実は、店内にいる全員を驚倒させるに充分な出来事だったのである。

 (こぼ)れたものや割れた破片などが片付けられるまでの時間、ジグはあえて口をつぐみ、シルバーもまた無言で、途中だった食事を進めてゆく。

 そしてようやく、もろもろの一段落が付いた。シルバーの食器が下げられ、代わりに食後のアイスコーヒーとジグの注文したランチセットが運ばれるのを待っていたように、改めて会話が再開される。


「……ややこしい言い方をして、すまなかった」


 そう口火を切って、最初にジグが頭を下げた。

 氷の浮いたグラスを持ち上げていたシルバーは、ただ小さく首肯して謝罪を受け入れる。

 店内にいる者はみな、興味津々でそのやり取りをうかがっていた。そんな彼らの存在を認識した上で、二人は話を続けた。

「俺は、恐らく……かなり混乱している。うまく説明できるか、判らんのだが」

「構わん」

 シルバーは、一口飲んだグラスをコースターへ戻した。

 そうしてそのコーヒーの水面(みなも)よりもはるかに黒い瞳で、ひたとジグを見つめる。

「内容の整理は、こちらでもできる。まずは情報を出せ」

 表面的には突き放しているかのような、まるで無愛想な物言いだった。しかしそこには、たとえ何を聞かされたにせよいったんは受け入れ、内容を吟味してから対応を決めるという、広い容認がある。

 それに気付ける程度には、ジグも周囲の客達も彼女との付き合いを深めてきていた。故にいつもとまるで変わらないその物言いを耳にして、知らず知らず肩に入っていた力を、わずかなりとも抜くことができた。

 ジグは乾いて貼り付きそうになった口唇に舌を這わせ、一度湿らせる。

「その、昨夜……連絡が入った。俺の、保証人で…………元、飼い主からだ」

 その言葉に息を呑んだのは、耳をそばだてていた客達の方であった。

 面と向かっているシルバーの方は、眉ひとつ動かそうとしない。

「帰ってこい、と……そう、言われた。俺を引き離した、父親が死んだ。だからまた、そばに居てくれと」

 握りしめた拳の間から、軋むような音が生じていた。強く込められた力によって、指の関節が白く浮き、全体が細かく震えている。


「 ―― 十年、だ。俺が、レンブルグに来て……もう、十年になる。それを、今さら……ッ」


 絞り出すかのような叫びは、普段ほとんど感情を露わにしないジグらしからぬ、悲痛な響きを帯びていた。



§   §   §



 シルバーの言葉に従い、己の内に渦巻くものを、未整理のまま吐き出し終えて。ジグはすっかり冷めてしまったランチセットを前に、俯いて視線を落としていた。大きなその背中が、今は何故かひどく小さいものに感じられ、見守っていた客達や女将などは、掛ける言葉も見つけられないでいる。

 彼らの中には、ジグにかつて飼い主が存在した ―― すなわち、彼が元首輪付きであったことを初めて知り、衝撃を受けている者も少なくなかった。

 他都市から移住してくる獣人種の中には、別の土地で市民権を取っていたその上で、居場所を転々としながら流れ着く者も多い。何もこの街の生まれではないからと言って、イコール首輪付きであったとは限らないのだ。

 かと言って、そんな者達が恵まれた環境にあったとは、これまた言い切れない。むしろ住む場所を変えざるを得なかった何かしらの経緯を持つが故に、彼らもまた好んで過去を口にしようとはしないのが常であった。だからこそ、獣人種達は互いの()(かた)について、言及するのを避ける傾向にある。本人が話せば、それは聞く。だがそうでなければ、よほどのことがない限り詮索はしない。そういった不文律があるのだ。

 ……リュウとシルバーの場合は、その『よほどのこと』が幾重にも重なり合った結果、かなり多くの者達に、ずいぶんと立ち入った事情まで知られてしまっているのだが。

 それはさておき、


「…………」


 ひと通り聞き終えたシルバーは、曲げた人差し指を口元に当てて、しばし考え込んでいた。

 もう片方の手は卓に置いたままの携帯端末へと伸び、まるで手遊(てすさ)びのように指先で触れている。


「 ―― つまり、だ」


 ややあって、その口唇が開かれた。

 その声に反応して、ジグがふと面を上げる。


「お前に市民権を与えてこの街へと送った男が、先日死亡した。その娘に当たる女性が、遺産として身元保証の契約を受け継いだ。お前はかつて、その女性の護衛(ガード)を任務としていた。そしてその女性はお前を、再度護衛の任に戻したいと望んでいる」


 シルバーは口元から離した手で、ひとつひとつ指を折りながら、とりとめなく聞かされた内容を単純化してゆく。


「問題点は、三つ。すでに十年が過ぎ、お前はこの街で自身の生活基盤を築いている。しかも身元保証人が住んでいる都市 ―― ホーフェンゲインは、獣人種に人権を認める法を施行していない。すなわちそこへ戻るということは、事実上市民権を喪失するのと同義である。最後に……相手はお前が断る意思を持つ可能性を、考慮すらしていない」


 一度折り、そして再び立てていった己の指を眺め、そうしてシルバーはジグへと視線を戻した。

「前提条件は、この認識で相違ないか」

「あ、ああ……その、通りだ……」

 己が感情のままにぶちまけた内容は、客観的に見ればたったそれだけにまとめられる内容なのか、と。そんな現実を突きつけられたジグは、複雑な表情を隠せぬまま、うなずいた。

 シルバーが整理した内容は、けして間違ってなどいない。そこにまつわる感傷をすべて排除し、事実のみをただ取り出せば、確かにその程度でしかないのだ。

 そんなジグの、忸怩(じくじ)たる想いに気付いているのか否か。シルバーはさらに先を続けた。

「その状況で、お前は現在、別の仕事に就いているとその女性に告げた。暗に断りを入れたつもりが、その女性は、雇用主に直接話をつけると返答した」

「……そうだ」

「お前が勤めている警備会社は、獣人種が経営していたな」

 もはや言葉も出ず、身振りのみで肯定を返す。彼女が何故そんなことを把握しているのか、追求する気力も残っていない。

「獣人種の経営者が、他都市の人間(ヒューマン)から社員の引き抜きを提示されれば……たとえそれがどれほど手放したくない人材であっても、断ることなどできんのだろうな」

 とん、と。

 携帯端末の上で、シルバーの人差し指が小さく音を立てて止まった。


「だから、私という訳か」


 ようやく得心がいったと示すように、彼女はわずかに顎を引く。


「私がお前の雇用主を装い、人間種(ヒューマン)同士で交渉の場を設け、お前を手放す気はないと要求して欲しい。そういう話だな」


 いかにこの都市(レンブルグ)では獣人種にも人権を認めているとはいえ、それはあくまでも建前に過ぎない。根強い差別は現在も厳然として存在しているし、人間と獣人の間で対等な話し合いなど成立するはずもなかった。

 まして相手は、その形ばかりの人権すら、認めていない他都市の住人だ。そしてジグが長年にわたり仕え続けてきた、いわば骨身の髓にまで『所有者(あるじ)』として叩き込まれた一族の一人でもある。ジグやその本当の雇い主である獣人種の社長だけで、どうして逆らうことなどできるだろう。

 だが、同じ人間(ヒューマン)であるシルバーが現在の雇用主だと名乗り出れば、少しは話が違ってくるはずだった。

 しかも彼女は、人間の中でもそれなりの教育を受けた、上流の階級にあったと予測されている。こういった交渉事も、ある程度はこなせるだろうと思わせる、それだけの ―― 貫禄と言っても良いだろう何かを、確かにその身に漂わせているのだ。

 シルバーの協力を仰ぐことで、まったくの絶望的状況から、わずかでも望みを繋ぐ方向へと舵を切れるかもしれない。それは、藁よりは確実に頼りになると思える、一筋の光明だった。

 とは、言うものの……

「あんたには、なんのメリットもない話だ。それは、判っている」

 シルバーにとってのジグは、単なる店子に過ぎない。

 たまたま購入した集合住宅に間借りしている、獣人種の一人。顔を合わせれば言葉を交わすこともあるが、いなくなっても別に不自由が生じる訳でもない。いわば単なる顔見知りでしかない存在なのだ。

 むしろ、顔見知りとして認識されているだけでも、人間が獣人種に対して向けるには破格の態度である。こうして同じテーブルで向かい合って座ることを許される事実が既に、キメラ居住区の外では考えられないような特別扱いだった。

 そこまでの厚遇を受けていてなお、それ以上を望むのは……あまりにも贅沢がすぎる。

 少なくとも、人生の半分以上を首輪付きとして過ごしてきたジグにとって、人間(ヒューマン)に対しそういった要求を抱くことは、本能にも等しい部分で拒絶反応を起こすほどの葛藤をもたらした。


 ―― それでも、


 それでも、相手がこの、シルバーであったから。

 獣人種(キメラ)であるリュウを家族と呼び、己と同等かそれ以上に扱う人間(ひと)。そしてこの店を訪れる様々な客達に対しても、時に不器用な心遣いを垣間見せる。そんな、彼女が相手であればこそ、と……


 奥歯を噛み締め、再びテーブルへと視線を落としたジグの耳に、小さなため息が届いた。


「……理解に苦しむ話だな」


 零された呟きには、かすかではあるが明確な ―― 侮蔑の色が含まれている。

 ことこの人物からは滅多に発せられることがない負の表現に、ジグの身体は反射的にこわばりを生じた。背筋が冷たくなるような錯覚と共に、喉が急速に干上がってゆくのを感じる。

 しかし、続いた言葉はけして、ジグを非難するそれではなかった。

「その女性とやらは、身元保証制度の、内容を把握していないのか?」

 シルバーの指が再び携帯端末に触れ、何かしらの操作を行う。漆黒の眼差しがその画面へと向けられた。

「……少なくともこのレンブルグにおいては、市民権発行の際に必要とされる身元保証人の責務を、『当該人物が当該都市の住民として相応しいと第三者に証明すること』『当該人物が保証期間内に当該都市の法律を犯す、もしくは当該都市に属する存在に対し損害を与え、それを賠償する能力を持ち得ない場合において、代わりに担保を行うこと』と定義している」

 動かされる指先に応じて、なにやら画面が切り替わっているようだ。しかし離れた位置からは、その内容を目にすることはできない。

「当該人物が獣人種の場合、保証期間は最長で十二年と定められており、その間は身元保証人が被保証者の住所や連絡先といった、個人情報にアクセスする権限を有している。しかしそれはあくまで、当該人物が市民としての義務を怠ったり、犯罪行為などに手を染め、意図的に保証人への不利益を生ぜしめることを防止するための、予防措置に過ぎない。そうして居場所の特定を可能とし、被保証者が当該都市の住人として著しく不適格であったと証明された場合は、保証期間内であっても身元保証契約の解除を行うことが可能だ。その場合、代わりに保証人となる人間(ヒューマン)がいなければ、当該人物の市民権は剥奪される」

 つらつらと説明される内容を、ほとんどの者は理解することができず、目を白黒とさせていた。

 なんとなくの雰囲気は察せられるような気もするのだが、いかんせん用語の選択が難解過ぎる。ジグもまた、眉間に深い皺を刻みながら、懸命に意味を汲み取ろうと努力していた。

「だが、被保証者に明確な問題、もしくは保証人が肩代わり可能な範囲を超える損害を生ずる可能性があると証明できない限り、一度締結した身元保証契約を、一方的に解除することは不可能だ。それは保証人である人間(ヒューマン)の側からでも同様だと、ここレンブルグにおける法律で明文化されている」

 端末を操作する手を止めたシルバーは、その向きを変え、ジグの方へと卓上を滑らせた。

 光を発する画面と、そこに並ぶ文字の羅列を見下ろしたジグは、しばらく考え込む。

「……つまり……」

 自信なげに口を開こうとする、その背を押すかのように、シルバーはまたも端的にまとめた。


「よほど重大な罪でも犯したか、あるいはお前自身の合意がなければ、勝手に市民権を奪われることはない。仮にこの都市から意に反して連れ去られでもすれば、それは誘拐という名のれっきとした犯罪行為となる」


 たとえそれが、身元保証人の手によって行われたとしても、だ。

 その意味がゆっくりと脳内に浸透し、幾度も画面を見返して確認をとって……ようやくジグは、深々と安堵の息を漏らしていた。

「そう、なのか……」

 恐る恐るというように丸めていた背を伸ばし、椅子へと体重を預ける。背凭れが大きく軋んだが、それも今は気にならなかった。

 獣人種としてはかなりの水準の教育を ―― 間接的に ―― 受け、そして今でこそそれなりの経験をも重ねているジグだったが、それでも市民権を与えられた当時は、その詳しい内容などほとんど理解できていなかった。ただ命じられる通り、目の前に出てくる書類へ機械的なサインを繰り返し、そうしてほとんど放り出される形でこの都市へとやってきたのだ。

 故に、保証人の『権利』は愚か『責務』についてなど、考えたことすらなかった。ただ己の市民権などというものは、それを『与えた』、『人間』の気分次第で、如何様(いかよう)にも左右される。その程度の代物なのだと思い込んでいた。だからこそ、夕べいきなり携帯端末が鳴り、そうして伝えられた『戻れ』という『命令』に、絶望しか覚えなかったのだが ――

 力が抜けたといった(てい)のジグを前に、しかしシルバーは無表情を崩さない。


「……ただ、法律が必ずしもその条文通りに施行されるとは限らない。それが問題だな」


 続けられたその言葉に、弛緩しかかっていた店内の空気が、再び張り詰めたものへと戻った。


「法令がすべて遵守されていれば、私とリューは労せず、一般居住区に居を定めていただろう。たとえ法が定められていても、それを守るべき住人の認識との乖離は大きい。公的な役所や当局でさえもが、こと獣人種が関係する問題については、法令よりも前例や感情論を持ち出し、人間種(ヒューマン)側に有利となる判断を下しがちなのが実情だ」


 シルバーは卓に肘をついて両手の指を組み、顎へと押し当てる。

 そうして深く息を吐いた彼女の口調には、重苦しいまでの実感が伴っていた。

 電脳(ネットワーク)上の情報を頼りに、獣人種に対して寛容な法令を定めた都市を探し出し、そうして居を移したという、彼女達だ。それが実際にこのレンブルグへと足を踏み入れ、その住人らと接し ―― 果たしてどのように感じたのだろう。

 どんな経験をし、何を考えた結果……はるかに文化的で、シルバーにとっても利便性が高いだろう一般居住区ではなく、貧民街にも等しいキメラ居住区へ身を寄せようと決めたのか。

 ―― そのあたりの経緯を、伝聞の形でなく実際に見聞きしてきたのは、彼女自身とリュウの、当事者二人のみである。

 そして、今回の件での当事者であるジグもまた、別の意味で容易く想定できることがあった。


「……シルバー。俺、は」


 口ごもる彼へと、シルバーはうなずいてみせる。

「その女性から合意せよと命じられれば、恐らく応じてしまう。そうだな」

「…………ああ」

 返答は、吐息に近いほど掠れたそれだった。

 新たな身元保証人となった相手に、その声と眼差しで合意書に署名せよと告げられたならば。ジグに逆らう(すべ)など存在しないだろう。

 たとえ十年が過ぎようと。市民権を与えられ、お前はもう自由だと言われてきても。

 それでもジグには、叩き込まれた第一世代としての服従の意識が ―― 支配者に奉仕しろと、たとえ己を犠牲にしてでも護衛すべき対象を守れという ―― 絶対的な存在意義が刷り込まれていたのだ。

 今回の件があるまで、ジグ自身、ここまで過去に囚われていたとは思っていなかった。

 確かに、人間に対して複雑な感情を抱くことはあった。理不尽な命令を受けて、そうと認識するよりも先に身体が動こうとした経験も、一度や二度ではない。

 それでも、それらは理性で抑えることができていたのだ。シルバーに対してだって、こうして無礼とさえ言える言葉遣いを選択し、向かい合わせに座って会話することができている。

 それなのに……


 十年ぶりに聞いた、機械越しの遠い声に。

 たった一人の、ほかでもないあの女性(ひと)の言葉に。


 無条件にうなずき、ひれ伏そうとした己を嫌悪する想いが、昨夜からずっと心を(さいな)み続けている。


「ジグラァト=オーク」


 ふ、と。

 自身の内面に沈み込みそうになっていたジグの意識を、静かな声が引き戻した。

 低い声で呼ばれた、めったに使われないフルネーム。それに、大きく鼓動が跳ねる。

 とっさに上げた、針のように細い瞳孔を持つ砂色の目と、どこまでも深い漆黒の虹彩が、まっすぐに互いの姿を映し出した。


「第一世代 ―― それも戦闘能力を有する規格には特に、もしもの場合の反抗を防止するため、幾重にも対策を施されているのが通例だ。故にお前のその反応は、何も間違ってなどいない。少なくとも、お前自身に落ち度があるといった(たぐ)いの話ではない」


 身体能力の高い獣人種を使役するにあたって、人間種(ヒューマン)は当然、いくつもの対抗手段を講じている。それは物理的な抑制や必罰の徹底の他にも、精神面における洗脳にも等しい処理もまた含まれていた。物心つく以前の ―― それこそ培養槽から出るよりも早くから行われる、服従を強制するための、徹底的な施術。

 そんなものを、むしろ十年やそこらで振り払うなど、できると思うほうがおかしいのだ。

 組み合わされたシルバーの指が、数度手の甲を叩く。それはどこか、内心覚えている苛立ちを露わにしているようで。

 彼女がそんなふうに仕草で不快を表現するのは、めったにないことだった。

「そもそも、だ」

 硬い声が続ける。

「市民権とは、単にその都市への居住を許可するという、それだけのものではない。一個人としてその人物の行動や思想、財産の自由を保障し、政治に参加する資格を与える、包括的な権利と同時に義務の発生をももたらす制度だ。そんなものをいったん与えておいて、何故いまになって一方的に呼び戻せるなどと考える。市民権を残したまま、この地で改めて雇用契約を結びたいと言うのならばともかく、獣人種の市民権取得を認めていない都市へとわざわざ戻らせ、再び首輪を着けろなどと命じるのは、道理が通らん」

 え、市民権って、そういうものなの? と。

 話を聞いていたうちのほとんどの者が、意外なその定義に目を瞬かせていた。彼らの多くは、まさにその『都市に居住する許可』という意味で、市民権というものを捉えていたのだ。

 しかし居を移すにあたって、そのあたりを徹底的に調べたのだろう。シルバーは忌々しげな気配をさらに強くする。

 彼女は、その言葉の通りリュウに市民権を取得させた後、その身の振り方を彼の自由に委ねた。

 リュウが記憶を失い行方不明になった際、ひたすら捜索を続けたのも、けして己に対し縛り付けるためではなかった。あくまでその身を案じ、必要であれば手を差し伸べ ―― そうして彼の意思で離れることを望んだのであれば、甘んじて受け入れる。それだけの覚悟を持ったその上で、シルバーはリュウの保証人となったのだ。

 事実現在も、彼女はリュウと雇用契約を結んで、ハウスキーパーとしての適正な報酬を支払っている。そして仮に退職を願い出られた場合は、きちんと話し合いの場を設けた上で、結論を出すつもりなのだろう。

 そこには、どこまでも相手を対等に扱うという、確固たる信条が存在している。

 そんな彼女にとって、ジグの元飼い主 ―― の、娘 ―― の行いは、まさに『理解に苦しむ』としか表現できないようだった。


「あの、人 ―― は」


 貼り付く喉を懸命に引き剥がし、ジグは言葉を続ける。


「元に戻るだけだと、言った。確かに……そう、悪い扱いではなかった。だから、また……あの頃に戻ろう、と」


 父親を亡くした悲しみの中に、それでも滲んでいた再会への期待と喜び。

 それを目の当たりにして、心の奥底から湧き上がる、暗い喜悦がなかったとは言えない。

 ああ、自分は今も、彼女に必要とされているのだ、と ――


 しかし、そんなジグを見たシルバーは、わずかにだが眉間に皺を寄せた。


「……確認するぞ。お前は、戻りたくないのか。それとも戻りたいのか」


 まずはそこをはっきりしろと。そうまっこうから突きつけてくる、その選択。

 理性ではとうに決めているはずの答えを、改めて口に出すのがこれほどに困難だとは。

 先ほど誤解を招くような表現をしてしまったのも、怯みそうになる己を鼓舞し、とにかく要点を伝えなければと先走った心が、暴走した結果だったのかもしれない。

 ジグは、大きく数度深呼吸し、そうしてようやく願いを形にした。


「……俺は、戻りたく……ない。どうか、力を貸してほしい」


 そう口にして頭を下げたジグに対して、向けられたのは。


「 ―― 良いだろう。私ができる範囲内で、手を尽くそう」


 淡々とした口調で紡がれた、そんな言葉であった ――

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