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鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街で
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第三章 医者の助言

 最近になって、【Katze(カッツェ)】の空気が少しばかり変化した。

 これまでは毎日のように訪れる常連達がにぎやかに言葉を交わし、明るいながらもどこか雑駁な雰囲気に満ちた店だった。しかしここの所は会話のボリュームがいくぶん小さくなり、そしてそこはかとない緊張感が漂うようになっている。

 原因は、カウンター近くのテーブルに席を占める、ひとりの女性だった。

 二週間ほど前に、長らく空室だった七階のペントハウスへと、大量の荷物とともに引っ越してきた新しい家主(オーナー)人間(ヒューマン)のシルバー・アッシュである。

 いったい何を生業(なりわい)としているのか。彼女はその後どこかに出かけてゆく気配もなく、ずっとこのビルから一歩も出ようとはしなかった。この二週間というものただひたすら、最上階の部屋とこの店とを、エレベーターで往復しているだけである。

 杖をついて、左足を引きずりながらゆっくりと歩む彼女は、毎朝だいたい、開店間もない10時頃に店へとやってきた。そうしてモーニングの日替わり定食を注文する。

 さらにはオーダーストップ間際の20時頃にも訪れて、何かしら夕食になるものを食べてゆく。

 その時間帯に居合わせてしまった他のキメラの客達は、彼女の機嫌を損ねることがないよう、どこか息を殺すようにして、窮屈な気分で飲み食いをする羽目になっていた。

 それでもまだ、今では改善された方である。

 最初の頃は、この二回に加えて14時頃から三時間近くも居座ることが続いていたのだ。

 いつもパンツスーツを着用し、まっすぐな長い黒髪を背中に流したシルバーは、二人用のテーブルのひとつにノート型のキーボード付き端末を広げていた。その視線は画面に向けられ、すさまじい速度でタイピングを続けている。時には手の中に収まる携帯通信端末を脇に並べ、二つを見比べながら作業している場合もあった。

 その合間にサンドイッチなどの軽いものをつまみつつ、さまざまな飲み物のお代わりを重ねる。

 そんなふうにして、注文以外の会話を誰ともせぬまま、黙々と過ごす午後の数時間。

 一度や二度であればともかく、毎日それが続けられると、さすがに業務へと差し障りが出て来た。

 確かに、お茶一杯で粘るでもなく、席を使用している時間に相応の注文をきちんと出して、そして代金も過不足なく支払っていく。大きな物音を立てたりもせず、客としてのマナーが悪いという訳ではけしてない。テーブルを長々と占領されるのはいささか迷惑ではあったが、それもまあ常識の範囲内だろう。

 しかし ―― キメラ達の溜まり場であるこの店において、人間(ヒューマン)が店内にいるというその一点が、大きな問題なのである。実際のところ、扉を開けて入ってきた瞬間、彼女の存在を見つけてそのまま回れ右するキメラの客が、何人も後を絶たなかった。

 だが家主であり人間であるシルバーに、雇用人でキメラのアウレッタが文句をつけられるはずもなく。ましてや正規の住人ですらない、アウレッタの厚意で店に間借りしている立場のリュウなど、言わずもがなだった。

 この店の仕事と建物の管理を手伝っているリュウだが、そんな彼にアウレッタは小遣い程度の給金しか出せてはいない。それはアウレッタ自身にそれだけの金銭的余裕がないからだ。かといってリュウが他所で働き口を見つけようにも、パスワードが判らないため市民証の情報更新ができない彼は、新たな住所を登録することも、自身の口座を開設することもできなかった。現住所不定で給与振込も受けられない身の上では、いかにキメラ居住区内であっても、まともな職や新たな住処を見つけることは難しい。

 人の好いアウレッタは、せっかく助けた相手がみすみす裏社会に落ちていくだろう未来を見るに忍びず、またちょうど人手が欲しかった当時の状況もあって、前のオーナーには内密でこっそりとリュウの面倒を見てくれたのだ。寝泊まりする場所は使われていなかった物置部屋で、食事は店の残り物を流用した(まかな)いですます。そして衣服や身のまわりの品については、なんとか捻出したわずかばかりの給料と、常連や住民達から譲られる不要品によって、どうにかこの一年やりくりしてきたのである。

 新しいオーナーによって住民の出入りを厳しくチェックされるようになり、リュウは現在アウレッタの部屋に同居しているという形で、書類上なんとか誤魔化していた。しかし下手に新オーナーと関わりを持って、物置部屋に不法入居していると発覚した日には、追い出されるか相応の家賃を請求されるか。どちらにせよ、都合の悪い事態に陥るのは目に見えていた。

 故にリュウは、叶う限りシルバーの注意を引かないよう、細心の注意を払って行動していた。話しかけるのはおろか、注文を受けたり料理を運ぶのもほとんどアウレッタに任せ、彼女が店内にいる間はできるだけカウンターから外に出ない。うかつに視線が合うのを避けるため、目線は常に手元に落としておく。前髪でできるだけ隠してはいるが、珍しい色違いの瞳は、ことさら人間の興味を惹きやすいので用心が必要なのだ。

 リュウはもともと他のキメラ達に対しても、あまり親しく会話したり、笑顔を見せるような言動はとらなかった。そんな彼が普段に輪をかけて無口で無愛想になる結果、店内の空気はますます重苦しくなってゆく。必然的に、客の入りはさらに悪くなって ――



 そんなこんなで困り果てていた店と客達を救ってくれたのは、やはり普段からよく顔を見せる、常連の一人であった。

 伸びすぎた黒髪を適当に後頭部で縛り、赤褐色の目に丸いレンズの縁なし眼鏡をかけた彼は、道路を挟んだ向かいのビルで開業している医者である。よく陽に焼けた健康的な小麦色の肌をした男で、リュウと同年代、同じ犬科だが、こちらは純血のドーベルマンだ。

 名をフェイ=ザード。きちんとした教育を受けたキメラがまだほとんどいない中で、実験的に高等教育を施され、医師免許を取得したという変わり種だった。

 しかし教育機関を卒業後に市の中央総合病院へと配属されたものの、結局は人間の診察を担当させてもらえないことに嫌気がさした彼は、病院を飛び出しキメラ居住区で診療所を開いた。キメラにも平等の権利を、と。表向きは綺麗事をうそぶくレンブルグの方針を逆手に取り、いくばくかの補助制度を適用させ、中古ではあるがひと通りの診療機材を揃えた。必要な薬剤類を仕入れる手はずもなんとか整え、どうにか古ビルの二階を借りて開業にこぎ着けたのだ。患者として訪れるのは獣人種ばかりだったが、人間の病院になど心情的にも金銭的にもとうてい掛かる事ができず、さりとて医療の知識があるキメラなどそうそういるはずもなく。ほぼ無医地区状態だったこの街において、藁にもすがる思いでやってくる、治療を求める者が途切れる日はなかった。当然の結果として、この界隈で彼を知らぬ人物はまずいないし、周囲に与えられる影響もかなりのところ大きい。現在では診療所も、ビルの4階にまで拡張されていた。

 そんなドクター・フェイもまた、食事にはちょくちょく【Katze】を利用している。

 患者から目を離す余裕もないほど忙しい時はともかく、普段であれば自炊するよりも財布片手に道一本渡ってくる方が、よほど手間暇をかけずにすむからだ。

 シルバーが店に通い始めて、五日ほどが過ぎた頃。

 久しぶりに遅めの昼時の店を訪れたフェイは、細く引き締まった身体を濃い臙脂色の開襟シャツに包み、その上に羽織った白衣をなびかせながら、勢い良く扉を開けて入ってきた。びくっと身を震わせてふり返ってくる客達に軽く手を上げて挨拶しつつ、店内を大股で闊歩する。漂っている微妙な空気など、まったく気に留めていないようだ。


「やー、もう。ここんとこ急に入院患者が立て込んじまって、参った参った。おかげで飯もろくに食えなくてさあ」


 ハンバーグセットと食後にエスプレッソな、と。

 こきこきと首を鳴らしながら、カウンター内のリュウへと、慣れた口ぶりで注文する。

 それから彼は、すぐ横にあるテーブル席へと目を落とした。

「よっ、シルバー!」

 陽気かつぞんざいなその呼びかけに、店にいた全員が仰天してうつむいていた顔を上げた。

 しかしフェイはどこか意味深な笑みを口元に浮かべたまま、ノート型端末に向かう人間の女性を見下ろしている。

「…………」

 入力の手を一瞬止めたシルバーは、視線だけ動かしてフェイを見た。それを受けたフェイは、腰に両手を当てた姿勢で、ちょっと首を傾ける。

「ここ、良いかい?」

「……ああ」

 了承を得たのを確認して、テーブルの向かいにある椅子を引き、どっかり腰を落とした。遠慮もへったくれもないその態度に、店内の客達は声も出せず、ただただ衝撃を受けている。

「ほんとはもっと早くに顔出しときたかったんだけど、ちょっと救急の患者が続いちまってさ。あ、引っ越しの方は大丈夫だったか? いちおう細かい作業もこなせて、気の利く、信頼できる奴らを選んだんだが」

 フェイはテーブル面に腕を置き、身を乗り出すようにして矢継ぎ早に言葉を発した。

 シルバーは画面へ目を戻すと、いくつかキーを操作する。それから脇に置いていたミルクティのカップへと、その指を伸ばした。

「 ―― 人手は助かった。配線や環境構築はともかく、まずは精密機器や重量物を運びたいというのに、どこの業者も引き受けてくれなかったからな」

 小さく息を吐いて、すっかり冷めた茶へと口をつける。

「あー……そりゃ人間(ヒューマン)の引っ越し業者じゃあ、ここいらにはねえ。かと言ってこの街の奴らが、人間からの依頼をほいほい気軽に請け負うとも思えないし」

 さもありなんと納得しているフェイ。

「ドクターの紹介だからと、特に身を入れて働いてくれたようだ。おかげで移設した機器類はどれも、今のところ支障なく動作している。問題は起きていない」

「なら良かったよ。あんたが礼を言ってたって、あいつらに伝えてOK?」

「ああ」

 飲み干されたカップが、静かに受け皿へと戻される。フェイは明るい笑顔でその仕草を見守った。

 そんな二人のやりとりに、客達は言葉を失って聞き入っている。誰もが動転して驚愕を隠せないのだが、相対している両者は共に我関せずといった具合だ。

「……ところでさ」

 身を起こして座り直したフェイが、テーブル上の端末を指し示す。

「今やってるそれ、仕事?」

 つや消しの黒い筐体は、ごくシンプルで飾り気のない、実用的なデザインをしていた。

「そうだが」

 再びキーボードへと指を這わせながら、シルバーは視線を左右に動かして画面上の文字を追った。

「中身、何なのか聞いても良い?」

「 ―― ある企業に依頼されて、本社ビルの警備(セキュリティ)プログラムを組んでいる。基礎データは二年ほど前に作ったものだが、建物の改築に伴い、全体に大幅な修正が必要になった」

 具体的な社名などは守秘義務に觝触するのだろう。元来の無愛想さを差し引いても、だいぶ曖昧な説明だった。

 とはいえ、これ以上詳しく解説されても、理解できるかと訊かれれば困るところではあるのだが。

 案の定、フェイはしばらく思案していたが、ややあってあきらめたように沈黙を破った。

「えっと、すごいのか何なのか、いまいちよく判んないけど……それって、さ。急ぎなの?」

 それまでの疑問形とは少しばかり響きの異なった口調に、再度シルバーの手が止まった。そうして顔を上げた彼女は、ようやくまっすぐに相手の顔を見る。

「いや……まだ納期には余裕がある」

 返された答えを聞いて、ドクターは大げさにため息を付いてみせた。ぎしりと椅子の背を鳴らし、長い足を組んで、腹の上で両腕を組む。

「あのさ、シルバー」

「なんだ」

 わざとらしいほど芝居がかった声音で呼びかけられても、彼女はひたすら平坦な声音で応じる。

「だったらなんで、わざわざここで作業してんのよ」

「…………」

 今度は質問の意図が掴めなかったようだ。無機質な光をたたえた黒瞳が、赤褐色の目を見つめ返す。

 白目と虹彩の比率がヒューマンとは異なる獣人種の瞳を、気味が悪いと嫌う人間も多かった。しかし彼女は視線を逸らさない。まっすぐに、どこか愚直なまでにまっこうから視線を合わせ続ける。

 フェイは、口唇の端で小さく苦笑いした。

「ちょっとさ、小耳に挟んだんだよ。最近の【Katze】には入りにくくなったって」

 シルバーの目蓋が、ゆっくりと一度閉じて、それからまた開かれる。

「…………何故」

「そりゃ、人間(あんた)がいるからでしょ」

 言葉を濁さずすぱっと断言したフェイの返答に、店内にいる客達は言ったーーーっっ!? と無声音で叫んでいた。誰もが恐ろしくて口にできなかった事実を面と向かって指摘され、あたりの空気が氷点下を思わせるほどいっきに体感温度を下げる。

 しかしシルバーは、特に気分を害した風でもなく、動きを止めてしばし考え込んでいた。

「……営業妨害に、なっているのか?」

 時間をかけて出された結論を、フェイははっきりと肯定した。

「そうだな」

「それは、困る」

「困るんだ」

「ああ。困る」

 大真面目な口調で言葉を重ねる。

 そんな彼女の反応に、フェイはどこか呆れたような面持ちを向けた。

「っていうかさ、そもそもなんでそんなに長時間、ここにいるのさ。あんたが自分で料理できるとは思わないから、飯食いに来るのは判るよ? でも仕事なんて、自分の部屋でやった方が効率も良いだろ?」

 至極もっともな、今まで皆が訊きたくて訊けずにいた疑問が提示されて、店内がしんと静まり返る。

 答えを聞き逃すまいと、呼吸さえひそめて待つ一同の前で、シルバーは淡々と口を開いた。

「……飲み物が」

「のみもの?」

「ここだと、すぐに出てくる」

 いちいち作業を中断して自分で用意せずとも、注文するだけでいくらでも淹れられるうえ、飲み終えた茶器の片付けもされるから、と。

 あまりと言えばあまりと言うか、単に無精からだったというその真実に、耳を澄ましていた連中はどっと脱力した。フェイもこれは予想外だったようで、とっさに声が出ないでいる。

「いや、あのね」

 気を取り直すように、一度メガネを外して、顔にかかる前髪を掻き上げた。

「そんなの、上までデリバリー頼めばすむことでしょうが」

 通話の一本も入れさえすれば、彼女の住むペントハウスまではエレベーターで一直線だ。お茶ぐらい冷める間もなく届けられる。

「……あまり何度も頼むのは悪いかと」

「それがっ、カフェレストラン(ここ)のっ、仕事だっての!」

 ドクター・フェイだとて、忙しくて足を運ぶ余裕がない時などは、診療所まで料理を出前してもらう。もちろん配達料金として別途に幾らかは必要になるが、同じ建物内で家主が相手とあらば、そのあたりはアウレッタとて融通を効かせてくれるだろう。

 そもそも長時間居座られる方が、はるかによっぽど迷惑だからっっ!!

 拳を握りしめ忌憚ないところを力説するフェイに、いつしか店中の客と女将が動きを揃えてうなずいていた。

 だが大多数の同意を得ても、シルバーには納得がいかないようだ。

 確かにいくらエレベーターがあるとはいえ、一階にある店から七階のペントハウスまで、何度も往復するのは手間を取られるだろう。ここにはアウレッタとリュウの二人しか従業員がいないのだから、少しでも忙しい時間帯にどちらかが席を外せば、すぐに業務が滞りかねない、と。そんなことを気にしているらしい。

 まっとうだ。至極まっとうな気遣いではある。しかし根本的な部分で果てしなく食い違っていた。

 なんだかひどく疲れたように、フェイが深々とため息をつく。

「だいたいさ、お茶ぐらい自分で淹れればいいじゃん。気分転換にもなるだろうよ」

 ずっと座りっぱなしで仕事をしているよりも、たまには立ち上がって身体を動かした方が、健康にだって良いはずだ。

 しかしシルバーはなおもかぶりを振る。

「……自分で淹れるよりも、ここのものの方が、旨い」

「そりゃあ確かに、この店はけっこう良い材料(もの)使ってるけどさ。でもあんたならコーヒーだろうが紅茶だろうが、もっと上等なやつ、いくらでも買えるでしょ。淹れるのなんて自動調理器(ドリンクメーカー)に突っ込むだけなんだし」

 業務用の自動調理器はそこそこ値が張るが、それだって彼女にとっては端金(はしたがね)のレベルだろう。

「……ここの方が、美味しいんだ」

「そんな訳 ―― 」

「何度も、試した。……ここのを、飲みたい」

 キーボードの上に乗っていた指が、ぐっと握りしめられた。

 いつしか落とされた視線は、テーブルの上で空になっているカップへと向けられている。


「 ―――― 」


 平坦で、抑揚のないその声には、しかしどこか絞り出すような響きが混じっていた。

 みなが漠然と思っていたよりも、彼女は案外この店の味を気に入っているらしい。しかしそれでもやはり、人間に長時間居続けられるのは、迷惑以外の何物でもなく。

 フェイが唸りながら頭をかきむしった。大雑把に括っていた髪の毛が、乱暴な手つきでぐしゃぐしゃになる。

「あー、もう、しょうがないな。だったらいっそ、ついでにまとめて持って行けば?」

 半ば自棄の入った物言いで、折衷案を捻り出した。

「ついで、とは」

「だからあ、飯食べに来る時に保温ポットでも持って来てさ。何杯分かまとめて詰めてもらうとかどうよ。朝飯のあとにコーヒー持って上がって、昼だけテイクアウトの食事とお茶を部屋にデリバリーして、夕飯時にはカフェイン控えめのミルクココアー、みたいな感じでさ」

 それならば配達させるのは日に一回ですむし、シルバーの来店回数も少なくなる。ポットからカップに(そそ)ぐぐらいはまあ、自分でできるだろう。

「ポットの持ち込みはアリだよな」

 フェイがアウレッタを振り返って尋ねる。

 呆然と立ち尽くしていた女将は、突然話しかけられて我に返ったように盆を抱きしめた。それから考えるより先に、反射的な動きで何度もうなずく。この提案を採用すれば、朝夕二回、食事を摂る時間いられるだけの計算になるのだ。諸手を上げて大歓迎である。

「ええ! それはもちろん……できるわよね?」

 アウレッタは同じように振り返って、カウンター内にいるリュウへと念を押した。

 リュウは無言でうなずきを返す。

「じゃあまあ、そういうことで」

「…………」

 最終的確認を取ったフェイに、シルバーはわずかに時間を置いて、首を縦に振った。

 かくしてなんとか話がまとまり、彼女が店内に滞在する時間は、大幅に短くなったのである ――



 それから十日が経ち、今でもシルバーは毎日朝夕の食事時には【Katze】へとやってくる。

 だが以前のように仕事を広げるような真似はせず、せいぜい三十分ほどかけて料理を食べ終わると、帰ってゆくようになった。それぐらいの頻度であれば、常連たちも少しずつ彼女の存在に慣れ始めて。

 ある程度の緊張感は、まだ確実に残っている。一朝一夕で簡単に打ち解けられるほど、人間と獣人種の間にある確執は浅くない。

 ……それでも。

 これまでの日々で、彼女が周囲のキメラ達に対し、横暴な振る舞いをすることはなかった。彼女はいつもただ、カウンター正面のテーブルで黙々と食事を口に運んでいるだけだ。周囲に対して壁を作っているかのように、注文以外で誰かと会話することはほぼない。その代わり他の客達が多少騒がしくしていようとも、これといって不快を示すこともなかった。そんな代わり映えのない日々が一週間以上も続けば、どんな緊張だとて少しずつ緩んでゆく。

 今ではもう、席に着いて注文を出すまで、同じ店内に人間がいる事実に気付かない客も多い。

 今日のシルバーの夕食は、赤いトマトの酸味と緑のアボカドの滋味が目と舌を同時に楽しませる、冷製パスタだった。フォークに巻きつけている麺の量は、残すところ二口分というところだろうか。間もなく食べ終えるだろうと判断して、リュウは自動調理器(ドリンクメーカー)に紅茶のキューブと林檎フレーバーの(パウダー)を五杯分セットした。そうしてスイッチを押せば、三分後には熱々のアップルティーができ上がっている計算だ。

 昼食を届けた折りに交換で回収して洗っておいた保温ポットを取り出し、乾いた布巾でわずかに残っている水気を拭ってゆく。

「…………」

 自動調理器など、誰が操作しても結果は同じだ。

 完成品の味を左右するのは、セットする各種の合成キューブや調味料の質だけ。そしてこの店で扱っている程度の合成品など、ビルを丸ごと購入するような資産の持ち主が、自分で買えないはずがない。

 それなのに何故、彼女はあえてこの店の味にこだわるのだろうか。

 常に他人から(かしず)かれ、食器の上げ下ろしを当然のように使用人にさせる人種は存在している。しかしそんな人間であれば、日に十度だろうが二十度だろうが、平気な顔で七階まで呼びつけるだろう。

 ならば、いったいどうして。

「…………」

 サーバーに落ちてゆく赤い液体を眺めながら、リュウは胸の内で苦い息を吐く。

 人間(ヒューマン)のとる行動に、意味など求めたところでどうしようもない。

 彼らはいつだって、やりたい事をやりたい時にやりたいようにやるのだから。それに振り回されるキメラ達の意思や苦悩など、存在にすら気付かないままに。

 だから自分は黙って、言われた通りにしておけば良いのだ。そうすれば、何も面倒は起きないのだから。

 少なくともこの人間は、誰かを傷つけるような真似はしていない。

 そう、少なくとも今のところは、まだ ――

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