第三章 育成の成果
食べるものなど、生きるのに必要な成分を摂取できていれば、それで充分だと思っていた。
それだけのことが、どれだけ難しく、また恵まれている状況なのか。彼女は身に沁みて知っていたのだから。
味や温度など、些末な問題だ。ましてや見た目など、心底どうでも良いことだった。
必要な作業を止めることなく、片手で口まで運べ、しかも準備も片付けもほとんど必要がない、栄養補助食品。それさえあれば、何の不足も感じなかった。
けれど、それだけでは満足できない者がいることも ―― むしろそちらの方が、一般的に言って多数派であることも、理解はしていた。
どうしても外せない、付き合いの中で顔を合わせる者達は、口にするものに対して味と見た目と希少性をこそ重視し、より多くの美味や珍味をより多く食すためにと、わざわざ手をかけて栄養価を落としたり、吸収を阻害するような加工すら施させていた。
さすがにそれは、極端な例だっただろう。しかし義父などもまた、程度の差こそあれ好む味や嫌う味を持っており、また食事の際には満腹感を得たいと言っていた。美味いと感じるものを、腹が満ちるまで食べ、それからゆっくりと身体を休める。そうすることで、肉体だけでなく、心もまた満たされるのだと。
そのためには金銭の他にも、多少の手間と、技術と時間が必要だった。けれど、それに見合うだけの価値は、確かに存在するのだと。
そう告げた彼は、食材の手配の仕方や、加工の方法を教えてきた。自分は仕事に集中したいから、お前が代わりにやってくれと言いながら。
その主張は、理に叶っていた。いや、むしろ過ぎるほどにこちらを優遇した、甘すぎる要求だっただろう。
寒暖や雨露を気にすることなく、屋根があり柔らかい寝床のある場所で起居を許され、生命の危険もなく、充分な衣食を与えられて。しかも、いったい何をどうやったのか ―― 現在ではおおむね想像はできたが ―― どこからも否やを言われることのない、確かな身元を用意してくれた。
それだけのものを、既に受け取っていたのだ。食事の用意や、ほとんどが自動機械任せの掃除や洗濯といった、簡単な身のまわりの世話程度では、とても対価として釣り合うはずもなかった。
だから、義父の求めには、己の力が及ぶ限り応じようと思った。少なくとも、彼が欲する内容はどれも些細なことばかりで、不当に他者を傷つけたり、ことさら財や権を求めるような、忌避感を覚えるものでもなかったから。
そう、何の不服も、そこには存在しなかったのだ。
けれど、
「…………」
追憶にふけっていた漆黒の瞳が、ふと陰りを帯びた。
伏せた睫毛の下で、どこまでも透明な眼差しが、過ぎ去った時間を振り返る。
―― だからこそ、すべてがどうでも良くなった。
義父が病で死んだ後には、そのすべての財産が ―― 動産も、不動産も、実体のない様々なブログラムの類いに至るまで ―― 己の名義に書き換えられていた。義娘が受け取るべき、正当な遺産なのだと、まったく瑕疵のない完璧な手続きと共に、あらゆるものが遺されていた。
そこに、義父本人がいない。これまでと異なるのは、ただ、その一点のみ
たったそれだけの……しかし、決定的な違いだった。
それを望む義父がいなければ、わざわざ手間暇をかけて調理をする理由など、どこにもない。
半分に減った洗濯は完全に機械任せにできたし、掃除もまた自動機械の電源を入れておけば、それで充分こと足りた。少しぐらい隅に埃が残っていようと、別に生命に関わる問題でもない。
義父の名を守るため、多少は外部との付き合いを続けなければならなかった。しかしそれも、必要な時にそのつど金を払えば、専門の店で相応の身なりに整えることができた。
残るは、プログラマーとしての仕事のみ。
〈黄金の塵〉の後継者たる、〈銀の塵〉。いつの間にか電脳回線内で認知されていたその名前を、穢さないことだけに意味を見出していた。
無味乾燥とした日々が、続く。
それが味気のないものであったのだと、自覚したのは、果たしていつだったのか。
ある日いきなり、半ば脅迫のような形で押し付けられた、一人の獣人種 ――
数日前に足を運んだパーティー会場で、見た覚えのある存在だった。
その佇まいに、たまたま分身プログラムの改善に関する閃きを得て、しばらく観察していたため、珍しく記憶に残っていた。
送り主の名を思い出すのには、しばらく時間がかかった。確か、会場を後にしようとしたところでいきなり呼び止めてきて、何やらしつこく話していた男だった。その時にはプログラムコードを検証するのに気を取られていて、ほとんど右から左へ聞き流していたのだが。
そうだ。あの時の男は、誕生日に贈り物をすると言っていた。受け取る気はないと、これまで通りに繰り返し、その場を離れたのだが……やはり意識が散漫になっていたのだろう。拒絶が完全ではなかったらしかった。
それでも、いつものように受け取りを断れば、そのまま連れて帰るだろうと思った。
それなのに、
「…………」
一度、固く目を閉ざして。
そうして彼女は、ひとつ、息を吐いた。
吐き出す息と共に、何らかの感情を、身体の外へと追い出すかのように。
所有者登録のない獣人種は、無条件で殺処分となる。例外も、猶予期間すら設けられていない。それが、あの都市で定められていた、法律のひとつだった。
その事実は、あの場ですぐ人間種の誰かが所有者登録を行わなければ、目の前 ―― たとえそれがモニターの向こう側とは言え ―― で生きて動いている、その存在そのものが、間を置かず文字通りに抹消されるという未来とイコールで。
それは、とても、後味が悪い。そう思った。
義父が使用していた分身の……かの黄金のドラゴンの面影を、たとえわずかでも重ね合わせたことのある相手であれば、いっそうのこと。
―― だから、受け取らざるを得なかったのだ。
手続き上、その場で取り急ぎ新たな名をつけねばならず、とっさに出てきたのは、ただ〈龍〉という単語のみ。
義父が作成し、己も受け継いだ、旧世界における東洋のドラゴンを表す音。
もっと他に、いくらでも候補はあったはずだった。この先の一生、使い続けるかもしれないものだ。特注品の、しかも犬科の〈銀狼〉には、まったくそぐわない響きだっただろう。
それでも、あの時に思いつけたのはそれだけだったし、意向を確認した彼自身もまた、否やを唱えることはなかった。
あの状況で、否となど、言えるはずがない。そう思い至ったのも、後になってからだ。
後手に後手にと回らざるを得なかった当時を思い返すと、本当に後悔ばかりである。
廃棄処分寸前の、行くあてもなければ、生きていくために必要な技能どころか、己の意志すらも持っていないかのような、愛玩用の獣人種 ――
とりあえずは、ある程度の知識と技術を身に着けさせて、あとは獣人種でも市民権を持てるという、いずれかの都市にでも送り出せば良いだろう。
そんなふうに、どこか軽い気持ちで思い描いた青写真は、今になって思えばどれほど甘い見通しだったか……
「…………」
耳をつく音が、粘性の高いものになっていることに気がついて、彼女は落としていた視線を上げた。
加熱調理器の上に乗っている鍋へと目をやり、そうして体重を預けていた作業台に手を付き、身を離す。
ゆっくりと、一歩一歩、足を運んで調理器へと近づいていった。
漂う湯気と、食物の匂いが、物理的なそれとはまた異なる温かさと、そして柔らかさをもたらしている。そんなふうに思えて。
それは、義父が死んだのち、己一人で調理を行ってみた時には、想像すらしなかった感覚だった ――
§ § §
「え、オーナー……マジで家事できんの!?」
「じゃ、じゃあ、どうしていつもは作らないのかしら。オーナーの料理、すごく美味しそうだったのよ?」
ずいぶんと楽になった身体を、ベッドの上で起こして。
リュウは見舞いに訪れてくれた三人の客を、不思議な気持ちで見上げていた。
彼らが何故、そんなにも驚いているのか、理解ができないのだ。
自分に、家事などというもののやり方を教えてくれる存在など、あの都市であの人以外に、誰がいたというのか。
そんな、ごく当たり前の事実を、どうして今さら取り沙汰されるのだろう。
現在こうして、身を包む、清潔で柔らかな衣服。そして暖かなベッドと自分だけの寝床。そんな物質的なものだけでは、けしてなく。
あの人は本当に、形のあるものも、ないものも、あらゆるものを自分に与えてくれたというのに。
―― ああ、だけど。
ルイーザの質問にだけは、答えることができた。
ちゃんと料理を作ることができるのに、どうして自分が記憶を失っている間、【Katze】に通ってきていたのか。その理由だけは、知っていた。
「……面倒、なんだそうです」
答えながら、リュウは口元がゆるく弧を描くのを自覚する。
それが、どんな理由から来るのかは、己でもよく理解できなかったけれど。
思い返すのは、とても遠く思える、しかし実際にはようやく三年ほどしか経っていないはずの、過去。
『 ―― 何をしている』
『使っていい部屋は伝えたし、食事も冷蔵庫の中身を好きにしろと言った。そんなところで転がっていられては、邪魔だ』
『 ―― 脱水症状を起こしているな。なぜ何も口にしていない。死にたいのか』
いつものように、古い飼い主の意向で新たな飼い主に引き渡され、連れて行かれた見知らぬ場所。
それは本当に、いつもと何も変わらない、慣れきった流れであった。
いつもと異なっていたのは、所有者登録が終わった直後から、放置されたことだった。
常であれば、すぐさま遊戯の道具にされるか、そうでなくとも飼育担当の者へ引き渡され、何かしらの指示を与えられていた。
あれをしろ、これはするな、そこには絶対触れるな、立ち入るな。
そういった命令をされることはあっても、好きにしていろと言われたのは、物心がついて以来初めてで。だから、いったい何をしていれば良いのか、まるで判断できなかった。
特に困ったのは、食事だった。
たとえ好きな時に好きなものを食べていろと言われても、それはあくまで口約束に過ぎない。飼い主の気分次第で容易く翻される、その程度のものだ。うかつに信じて人間用の食料になど手を伸ばせば、あとでどんな勘気を被る羽目になるか、知れたものではなかった。
そもそも、食べられるものが、いったいどこにあるのか ―― それ自体が、当時の己には判らなかったのだ。
飲み水を出すための給水器も、冷蔵庫というものの存在も知らず、たとえ知っていたとしても、それら飼い主の所有物に断りもなく触れることなど、できるはずもなく。
それにそもそもが、料理の形をしていない生の食材など、どのように扱えばいいのかすら、検討もつかなくて ――
飢えと脱水で倒れていた自分を発見したあの人は、いったいどんな表情をしていたのだろう。
あの時にはもう、目の焦点も合わなくなっていて。淡々と投げかけられる言葉に、反応することすら満足にできなかった。
薄れゆく意識の中で、今度こそ処分場行きだろうと、そうぼんやり思ったのだけは覚えている。
まさか、目を覚ました時に与えられるのが、飼い主その人の手によって作られた消化の良い温かな食事と、これから家事を覚えろという言葉だなどと、予想できるはずもなく。
「 ―― あの人と出会った頃の私は、家事のやり方なんて、何ひとつ知りませんでした。そんなものなど、誰も教えてくれなかったし、覚える必要もなかった。そんな私に、家事……特に炊事の基本を教えてくれたのは、あの人でした」
使用人や給仕として作成された型式ならばまだしも、リュウは愛玩用の、それも特注品の獣人種だった。
故に、叩き込まれたのは、ひたすら飼い主を悦ばせる手法のみ。
その中には、飼い主とその客のために、飲み物を作るやり方ぐらいはあった。しかしそれも、客間や寝室にある装飾めいたキャビネットや専用の保冷庫から、指示された通りの器や壜などを取り出し、見栄えのする仕草で供するという、半ば儀式めいた手順に過ぎず。そして使用済みの食器などは、別のメイド用キメラが片付けを行っていた。
厨房に足を踏み入れたことは愚か、ごく普通の家庭用の冷蔵庫など、触れるどころか目にしたことすらない。
今にして思えば、本当に偏った知識だけを与えられた、歪な存在だったのだろう。現在よりもいっそう、輪をかけて。
「……包丁の持ち方から、皿の洗い方まで。一日三回、私が自分で食べられるものを用意できるようになるまで、あの人は横に付いて、ひとつひとつ指示を出してくれました」
懐かしい記憶に、色違いの双眸をわずかに細める。
それは本当に、ごく基本的なこと止まりだった。
掃除や洗濯はできる限り機械任せで、炊事もまた同じようなレベル。
材料をほどほどの大きさに切って、焼くか煮るか炒めるか。あとは味見しながら適当な調味料を足す。火が通っていて、そこそこの味がついていれば、それで良い。使った器具はざっと汚れを流して、あとは食器洗浄機に入れる。要求されたのは、ただその程度のことであった。
けれど、そうしてできあがった代物は ―― けして不味くはなかった。
特別、贅を凝らした料理ではない。ごく普通の材料を使って、それなりの手間をかけただけの……腹を満たすに充分な量の、温かい食事。
『この具材には火が通りきっていない。もう少し長く煮るか、切る時に小さくした方が良い』
『焦げ過ぎだ。健康を損ねる恐れがある。加減しろ』
『塩分の過剰摂取は、高血圧などの慢性的な体調不良の他に、ナトリウム血症といった、急激な致死症状を誘発する場合がある。注意が必要だ』
単調な声音でそんな指摘をされながら、一日に三度、決まった時間に料理を作り、同じテーブルで向かい合って食べる。
専用の携帯端末を渡され、判らないことがあれば自分で調べろと、その使い方も教えられた。
果たして数日だったか、それとも数週間だったのか。
状況を理解できぬまま、ただ流されるように続いていた非日常が、いつしか日常になりかけていた頃 ―― それは唐突に終わりを告げた。
『もう、一人で作れるようになったな』
そんな一言を残して、あの人は再び仕事部屋へと籠もりがちになった。
「……最初は、違う時間に食べているのだと思っていました。あの人の仕事は不規則ですし、わざわざ私などと時間を合わせるのが『面倒』なのだろうと」
そもそも、たとえ料理を指導するためとは言え、人間種が獣人種と同じ食卓を囲み、同じものを口にしている、そのこと自体が異常極まりなかったのだ。教授の必要がなくなれば、別々に食事をするのが当たり前。数日に一度程度しか飼い主と顔を合わせず、声すら聞かない日も珍しくない生活は、とても平穏であった。好きな時に、好きなことを、好きなようにしていられる。あの都市では、たとえ望んでも得られるはずがなかった、夢のような毎日だ。
そうで、あった……はずなのに。
「でも、そのうち ―― 不審に思ったんです。冷蔵庫の中身が、ほとんど減っていないことに」
それに気付けるようになった。その事実こそが、まさに教育の賜物だったのだろう。冷蔵庫が何なのかも、その中身をどう処理すれば食べられるものになるのかも知らなかった、無知な愛玩用のキメラが、食材の減り方が不自然だと疑問を覚える。
果たしてそれは、どれほどの進歩だったことか。
「あの人は、仕事の手を止めないまま、ずっと栄養補助食品ばかり口にしていたんです。料理をしていたのは、あくまでお義父さまや……私のため。自分一人のために食事を用意するのは、『面倒』だと。そういうふうに考える人だったんです」
だから、このペントハウスに引っ越してきてからも、自分で料理しようとはしなかった。
自分だけのために炊事をするのは、面倒だから。それぐらいなら栄養補助食品にするか、あるいは ―― すぐ階下にある、金を払えばそこそこの食事が出てくる店を、利用する。
そういう選択を、する人だった。
「それって……」
黒豹種の女性が、口元を押さえるようにして言葉を切る。
呑み込まれた内容は、想像できる気がした。
つまり、
その頃あの家の冷蔵庫に入っていた食材は、すべてリュウが消費するものとして準備されていたのだった。
あの人自身は、栄養補助食品で満足できている。しかし他人はそうではないと理解もしている。だから、そのためにわざわざ食材を手配し、手間暇を掛けて調理方法を教えたのだ。
意に反して、強引に押し付けられた、面倒な厄介者のために ――
そう思い至った時に沸き起こった、胸の奥で何かが渦巻くようなあの感覚は、いったい何だったのだろうか。
当時のことを思い出して、リュウはふと、己の手のひらに視線を落とした。
未だに理解できていない、ひどく複雑で……強い強い、何か。
ただただ、何をしようとしても心が落ち着かず、居ても立ってもいられなかった。
やがて気がついた時には、二人分の料理を作成していた。
そうしてそのうちの半分を器に盛り、ワゴンに乗せて運び、あの人が籠もる仕事部屋のドア脇へと、置いたのだった。
記憶しているのは、叱責されるか、それとも腐敗するまで放置されるか、どちらにせよ不興を買うだろう覚悟と……それに対する、抗し難いほどの、恐怖。
飼い主に罵倒され、暴力を振るわれることになど、慣れきっていた。それまでの飼い主に対して、好かれようと思ったことも、自発的に何かをしようと思ったことも、一度たりとてなかったと言うのに。
それなのに、痛みや怒号に対する生理的な恐れとはまた異なった、まるで胸が潰れるのではないかと思うほどの、あの強い感情は。
また、それに逆らってでも行動せずにいられなかった、あの衝動は。
果たしてそれらは、いったい何であったのか。
それは、今でもよく、判らないのだけれど ――
けれど、これだけは自信を持って言えることがあった。
「自分のためには『面倒』だと、あの人がそう言うのなら。それなら私が、やるんです。だってそのやり方を……そしてもっとより良いやり方の調べ方を、あの人自身が教えてくれたんですから」
自分のためにはその必要を覚えないあの人が、わざわざ己の時間を割いてまで、教えてくれたこと。
それはただの知識や技術、それだけに留まらず。
自身のためだけに誰かが用意してくれる、温かな食事や清潔な生活環境。
それらの、手放し難いまでの心地よさで……
どこかふわふわと浮き立つような心持ちで、そんなふうに断言すると、
「リュウ、お前……」
何故か、それまで黙り込んでいたゴウマが、その眉根を寄せたのだった。




