エピローグ
午後の短い休憩時間を、その日もリュウは本を読みながら過ごしていた。
今度は飾り気のない黒い表紙で、背の部分に『A Collection of Poems Ancient and Modern』と箔押しされている。
長い指がゆったりとページをめくり、色違いの瞳が左右に動いては文字列を追う。
薄い唇にはあるかなしかの笑みが浮かべられ、彼が読書を楽しんでいるのが見ているだけで察せられた。
しかしそんな時間も、長くは続かないのがいつものことだ。
ドアベルが音を立て、新しい客が現れる。
リュウは流れるような動きで本を閉じると、スツールから腰を上げた。
「いらっしゃいませ。……遅かったですね」
「ああ、打ち合わせが長引いた。休憩時間が終わってからで良い」
「いいえ」
柔らかな笑みとともにかぶりを振って、ためらうことなくカウンター内へと移動する。
シルバーはちらりとカウンターに置かれたままの書籍へ視線を投げたが、そのままいつもの席に身を落ち着けた。リュウは今日も注文を取らないで、調理を始めてしまっている。
カウンター席で食後の飲み物を傾けていたアヒムがその手元を覗いてみると、一口サイズに切った豆腐をいくつも並べて、ソースやドレッシング、薬味を添えていた。ひとつひとつ味を変えてあるようだ。別の小鉢には、蒸して冷ましてあった鶏のささみを細く裂いてから、梅肉と大葉で和えたものを盛り付けてゆく。
どちらもメニューには載っていない料理だが、もはや突っ込む気も起こらない。
「…………」
先ほどリュウが閉じた、黒い表紙の本を横目で見やる。
よくよく観察すると、ページの隙間からやはり黒い色の、細いリボンがわずかに顔を出していた。
好奇心に駆られたアヒムは、そーーっと手を伸ばし、リボンが挟まっているページを指先で持ち上げてみる。隙間から覗くのは、金属製の四角いカード、だ。
骨董品のようにくすんだ風合いをした銀色の板は、とても薄く、そして縦に長い。短い辺の一方に穴が空いていて、艶のある漆黒のリボンが結んである。
そしてその表面には、抽象的な独特のタッチで図案化された、狼の姿が黒く彫り込まれていた。
三日月を背景に天を仰いだその横顔は、肉食獣とは思えぬほどに穏やかで。どこか気高さすら感じさせる空気を漂わせている。
果たしてその生き物は、遠吠えをしているのか。それとも夜空の月を一心に見つめているのか。
銀と黒の二色だけで構成された、ごくシンプルな図柄。それなのに、何故か強烈に印象に残る。というか……ぶっちゃけものすごく格好良い。
こんなものを自分の手で作ることができる、先日の露天売りは確かにすごいと思う。
しかしこのデザインを選択し、ここはもう少しこうしてくれと微調整を依頼し……そして確実に使用されるだろう、実用品へと落とし込む。その発想の根底にある想いは。
最初の頃はずいぶんおどおどとしていたが、話を聞くにつれ段々と真剣な表情に変わり、終わりの頃には紙と筆記具を手にああでもないこうでもないと、様々なデザイン画をその場で書き散らしていた露天売りの姿を思い出す。
あの男もまた、それに気付いたからこそ、あんなふうに全力で作成に取り組んでくれたのではないだろうか。
そもそも……
氷が溶けてしまった炭酸飲料をぐいっと飲み干して、アヒムはスツールから立ち上がる。
そうしてレジへと向かう途中で、そば近くを通るついでに、シルバーの姿を上から見下ろした。
高く結い上げられた黒髪の間から覗く、銀色の『カンザシ』。リュウが選んで買ってきたというそれを、彼女は毎日欠かさず身につけていた。もちろんそれは、暑いから髪をまとめたいと言うのが一番の理由なのだろうけれど。
一見しただけでは、先端近くが薄い円盤状になっているだけの、ごく地味な拵え。
しかしよく見るとその円盤には、身をくねらせる蛇のような姿が、緻密な細工で透かし彫りにされていた。あの露天売りいわく、旧世界における東洋のドラゴンをモチーフにしたのだと言う。
枝分かれした角と、鋭い牙と長い髭、豊かな鬣を持ち、静かな威厳を持って周囲を睥睨しているかのような、神秘的なその姿。
そんな顔の、両目の部分には、
ごくごく小さな水色と黄色の石が、ひとつずつ嵌めこまれ、かすかなきらめきを放っている ――
最初から、そんなアンバランスな取り合わせになど、してあるはずがない。ならばわざわざ石を交換したのだろうが、それをリュウの方から言い出すとは、どうにも考えにくかった。
ならばきっと、露天売りの方から持ちかけたのだろう。どう見ても女性へ渡す品を購入する男へと、あの商売人は気を利かせたに違いない。
そうしたくなるような態度で、リュウがこの『カンザシ』を選んでいたのだとしたら……
「どう考えても、普通にプレゼント交換ってやつですよね。あれ」
会計しながら小声で呟いたアヒムに、アウレッタが苦笑いを返す。
獣人種の鋭い聴覚でそれを拾い上げた近くの客達も、同じような笑みを浮かべた。
お互いに、お互いが必要としているであろうものを真剣に考え、そして実用性だけではなくデザインにもきっちりこだわった上で選択し、渡す。
あれがいったい、真心をこめた贈り物以外のなんだと言うのだろう。
「『誕生日に』って、限定して訊いたのがまずかったのかねえ」
「……いや、あれは本気で自覚がないんじゃねえか」
「どっちも、『ただ必要なものを用意しただけ』とか言いそうだよな……」
これまで、もらって嬉しかったプレゼントなどないと、言い切ったシルバー。
受け取らざるをえなかった、手に負えない迷惑な誕生プレゼントだと、己をそう評したリュウ。
そこに、どんな経緯が存在したのかは、自分達には到底計り知れないけれど。
無神経に当時の事情を尋ねることも ―― 少なくとも今はまだ ―― できないのだけれど。
それでも現在の彼らを見る限り、なにも余計な気をまわす必要なんてないのだろう。
少なくともリュウは、シルバーから離れる気など毛頭ないし、シルバーの方もまた、もう己の意志でリュウを手放すことはしないだろう。リュウ自身が、そう望まない限り。
そんなふうに、信じることができたから。
「出会いがどんなだったかなんて、今さらもう、どうでも良いさ」
「ん、そうッスね……」
食欲がないのか、なかなか口をつけようとしないシルバーに対し、穏やかながらも断固たる姿勢で皿を勧めている、そんなリュウの姿を眺めつつ。
彼らはそんな言葉を交わしあったのだった……
〈 鵺の集う街で 第三話 後日談 終 〉
ブックマーカー(栞)と簪を、尼野豆太様にデザインしていただきました。
ブックマーカー
https://plant.mints.ne.jp/irasut/moonwolfR004b.jpg
簪
https://plant.mints.ne.jp/irasut/moonwolfR004c.jpg
簪(細部)
https://plant.mints.ne.jp/irasut/moonwolfR004c2.jpg




