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鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街でII ―― The binding cover to crack-pot.
29/95

第九章 告発

 シルバーの細い指先が、携帯端末の上を淀みなく動いていた。

 手のひらに収まる大きさのそれへちらりと視線を向け、それから正面に立つレトリバー種のホステスをみやる。

 滲んだ血でほのかに赤く染まった薄い唇が、ゆっくりと開き事務的に動いた。


「フランシェス=バーニ」

「な、なによ」


 反射的に返答してから、フランは驚いたように目を見開いた。

 それは誰にも ―― リュウにすら名乗っていない、フルネームだったからだ。反射的に動いた視線が、店内で立ち尽くしている常連達の中から、職場の先輩を見つけ出す。

 途端に彼女は表情を険しくし、黒豹の女性を睨みつけた。が、心当たりのまったくないルイーザは、慌ててかぶりを振る。

「私は、何も……」

「言っておくが」

 ルイーザを遮るように、シルバーはどこまでも平坦な声で続けた。

「彼女から聞いた訳ではない。お前が就職時に店へと提出した、偽りの履歴に記載していた名だ」

「だから、なんで……えっ!?」

 どうしてその内容を知っているのかと問い返しかけて、聞き捨てならない単語が含まれていることに気が付き、フランは絶句する。

 ルイーザもまた、遅れてそれを聞きとがめた。

「偽り、って」

「偽名だということだ」

 シルバーの返答は、落ち着き払っている。そこに名を騙っていたことに対する、憤りや疑念といった感情があるようには、まったく見受けられない。


「あるいは、こう呼べば納得するか。……ビアンカ=タッソ」

「…………ッ」


 その名を口にされた瞬間、フラン ―― いや、ビアンカは、今度こそ顔面を蒼白にした。

 それこそ、ルイーザもここにいる誰も……現在勤務している店の店長ですら、知らぬはずの名だったからだ。


「フランシェス=バーニは、お前がルームシェアしている同居人の名だ。レトリバー種の23歳の女性。そしてビアンカ=タッソは、21歳のコリー種。お前は年格好が似た同居人の市民証を使い、別人として今の店に雇用された。その髪も、本来はブルネットなのを脱色したものだ」


 口唇まで血の気を失っている彼女へと、シルバーはなおも続ける。


「今の店に雇用される前は、南東区画の衣料品販売店【ヒューティア】に勤めていた。そこでの名はコルネリア=グートシュタイン。白に黒の筋が入ったボブカットを特徴とするポインター種で、清楚な雰囲気が好感を呼んでいたという。その前は西区のクラブ【ブリリアント】で、カイヤ=マララと名乗っていた。こちらは濃灰色の髪を短く切り揃えた、ボーイッシュなタイプのシェパード種。どちらも当時、お前が同居していたか、近所に住んでいた人物の名と特徴に一致する」


 時おり携帯端末に指をすべらせながら、シルバーは次々とビアンカに関する情報を暴いてゆく。


「実際のカイヤ=マララは、突如部屋に押し入ってきた見知らぬ男に暴力を振るわれ、重傷を負っている。理由は痴情のもつれとの事だったが、取り押さえられた犯人はカイヤ=マララを改めて確認し、これは自分の恋人ではない、別人だと証言した。コルネリア=グートシュタインは店で金品が紛失する事件が頻発した際、疑いを受け解雇されている。その悪評のため住んでいた部屋も立ち退かざるを得なくなったが、本人はまったく覚えがないと主張していた。事実、彼女の勤務先は同じ衣料品販売店でも【ヒューティア】ではなく、【オーベル】という店だ。さらにその前は……」


 並べられてゆく内容は微に入り細にわたり、やがては義務教育期間中に校内で発生した窃盗事件にまで及ぶ。

 それがすべて真実であれば、彼女はずっと以前から複数回にわたり、幾度も問題を起こしてはそれを他人になすりつけ、自分だけは逃れてきたということになる。

 ひと通り語り終えたシルバーは、しかし己が口にした内容に関して、特に思うところはないように見える。実際、彼女はこう続けた。


「 ―― お前が、過去に何をやっていようと、それは別にどうでも良い」


 青ざめているビアンカへと、ごく単調な声音で言う。


「だ、だったら……なんで、調べ……」

「言っただろう。もしお前とリューが交際を始めた場合、お前の過去が、何らかの障害になりうる可能性があった。お前が本心からリューとの将来を考え、共に歩み始めたその時に、過去の(しがらみ)が影を落とすというのであれば、手を打つには事情を知っている必要がある。情報不足で後手にまわる訳にはいかんからな」


 たとえ偽名を使っていようが、姿を変えていようが、過去に誰かを不幸にしていようが、そんなことはどうだって構わない。

 ただ、今現在この時に。リューに対して真摯に接し、寄り添い支えてくれるというのであれば。そうであれば、たとえどのような手段を使おうとも、今の『フラン』という存在を守ってやる手はずは、整えておけるよう準備していたのだ。

 しかし ――

「お前の性根は、これまでとまったく変わっていない。自分だけが楽しく、そして不都合が起きればまた逃げ出せば、それで良い。そんな程度の考えで、毛色の変わった珍しい玩具に食指を動かした訳だ」

「…………ッ」

 一歩、平手打ちのせいで離れた距離を、再度詰める。

 そうして、息がかかるほどの位置から、ささやくように繰り返す。

「お前が、過去に何をやっていようと、そんなことは、どうでも良い。……だが」

 言葉を切り、ごく間近でゆっくりとその目を一度閉じ、そして開いた。

「リューやこのビルの住人、この店とそこに出入りする者達にまで、何かしらの害を及ぼそうと言うのなら ―― 」


 私は全力をもって、お前を排除する。


 と。

 その漆黒の双眸には、怒りも憎しみも存在していない。ただただどこまでも濃く深い闇の色だけが、静かにたゆたっている。

 ビアンカの真後ろからそれをのぞき見てしまったジグは、ともすれば逃げ出しそうになる身体を、意志の力で懸命に押さえこんでいた。

 そんなジグの葛藤になど、まったく気付いていないのか。シルバーは見せつけるように手の中の携帯端末を掲げてみせる。


「手始めに、以前勤めていた店や名を借りた女性、その関係者達へ、今のお前の居場所を知らせてやろう」


 ああ、もちろん、本物の『フランシェス=バーニ』が巻き込まれることのないよう、そのあたりもきちんと伝えておく。

 そんなふうに続ける。

 途端にビアンカは血相を変えた。


「やめて!!」


 呑まれたように立ちすくんでいたのが嘘のように、絶叫しながらシルバーへと掴みかかろうとする。

 しかしシルバーは、いっさい動じなかった。ジグに捕らえられたまま暴れるビアンカを、平然と見つめている。


電脳(ネットワーク)上にも、これまでやってきた所業をすべて公開する。もちろん、顔写真と個人情報も添えてな。根も葉もない誹謗中傷とは訳が違う。れっきとした事実であり、罪の告発だ。端末の所有率が低いキメラ居住区で、どの程度話が広まるかは未知数だが……それでも、その情報に触れた者ならば、お前と関わりを持とうとは思うまい。新たな就職先や住居が、果たして見つけられるか? 仮に見つかったとしても、いつまでそれが続くだろうな」


 事情を知っていれば、決して誰も彼女を雇おうとはすまい。賃貸住宅への入居もそうだ。トラブルを起こすと判りきっている信頼出来ない相手となど、どうして契約しようと考えるだろう。たとえ何も知らない相手が受け入れてくれたとしても、いつ誰がその耳に、ビアンカの過去を囁くか知れない。そして一度(ひとたび)噂が追いついてくれば、彼女は即座にその場から()われることとなる。

 まともな職も住まいも得られなければ、当然収入の道も断たれる。頼れる身内や親しい友人も ―― 当然ながら ―― 存在していない彼女にしてみれば、それは社会的に抹殺されるという宣告に等しかった。


「言っておくが、逃げようとしても無駄だ。ほとんどの者が何らかの端末を所有し、電子情報を活用している人間(ヒューマン)社会を介すれば、刺激的な話題は都市をも超えて瞬く間に伝播する。一度電脳上に情報が流出すれば、拡散したそれをすべて削除するなど不可能に近い」


 細い指に支えられた小さな端末が、冷たい光とともに恐ろしいまでの存在感を放っている。


「そしてお前がどれだけ姿を変え、他人の皮を被り、住まいを移そうと、私にはなんら障害になどならん。仮にこの都市(レンブルグ)を捨て、大陸の果てまで逃れたところで、そこに電脳回線(ネットワーク)が繋がっている限り、どこまででも追い続けられる。どんな些細な痕跡も見逃さず、お前が居場所や見た目を変えるそのたびに、公開した情報を更新してやろう。そうしてお前が復讐などという面倒な行為に至る前に、その存在ごと ―― 潰す」


 けして、大きく声を張り上げるでなく。

 いっそ落ち着いたとさえ表現できるほどに、感情の色を排した乾いた口調で。

 紡がれた短いその単語は、どこまでも重い ――


「……もしも、本当に逃れようと望むのならば……そう、それこそ獣人種の市民権はおろか、人間の所有物としての登録義務すら存在しない、そんな場所を目指せば、なんとかなるかもしれんな」


 獣人種が人権を保証された都市であれば、必ずそこでは生体情報を登録する義務が生じる。そうしなければ正式な市民としては認められないし、市民でなければ銀行口座も開設できず、社会保障も受けられず、まともな住居に住むことさえできないからだ。そして市民権の情報や口座内の金の動きは、電脳回線(ネットワーク)によって管理・記録されている。人間に所有されている獣人種に関しても、どんな獣人をいつどのような経路で入手し、どのように使役しているのか、行政に対して届け出ておかなければならない都市がほとんどだ。そちらの内容も、同様に電脳回線内で保存されている。

 無論のこと、それらには関係者以外が不正に侵入(アクセス)できぬよう、厳重な保護(セキュリティ)が施されているのだが。

 シルバーは、どうやってそれらの情報を引き出すのか、具体的な手段には触れようとしなかった。

 ただ、はっきりとしているのは。たとえキメラといえど『ヒト』一人の存在が、いっさい回線上に現れてこない場所が本当にあるとするならば。そこは文明の恩恵をほとんど受けることのできない、真の意味での無法地帯か。あるいは ―― 最低限の人権すらキメラに認めず、家畜か道具同然に扱う人間(ヒューマン)至上主義に凝り固まった、一部の都市かのどちらかであろう。


「……そんな場所で、お前のような温室育ちの第三世代が、生きていけるとも思えんが」


 ふ、と。

 シルバーはわずかに、目を伏せた。

 かつて、この都市(まち)で記憶を失い、見る影もない姿に変わり果てた、リュウ=フォレスト。回線上に記録された市民証の情報は、住所不定無職のままで、銀行口座すら一切使用されず。あげく建物の外にさえほとんど出なかった彼を、それでも探し出した彼女である。そして今もまた、わずか数日でひた隠しにしていたフラン ―― いや、ビアンカの過去を、調べあげた実績がある。

 それがシルバーだ。やるといえば、確実にやりとげてみせるだろう。

 ごくごく小さな、携帯端末。そこにいったい、どれほどの機能と情報が詰まっているのか。

 想像すら及ばないそれのボタンへと、シルバーの細い指先が触れる。

 その、寸前。


「それぐらいにしてくれや」


 半ばため息混じりの声が、それでもはっきりと店内に響き渡った。

 誰もがただ、身をすくめるしかできずにいた緊迫した場の空気を、その声は鮮やかなほど見事に切り裂いてみせる。

 シルバーの指が、動きを止めた。

 そうして彼女は、ゆっくり背後を振り向く。

 旧厨房へと続く、カウンター脇の出入口に立っていたのは、白衣姿のドクター・フェイであった。

 どこか疲れたような……憐れむような光をたたえた赤褐色の眼差しが、シルバーへと向けられている。

「腹に据えかねるのは判るが、獣人種(オレら)の問題に人間(あんた)が出てくると、ちっとばっかややこしくなる。この女に関してはこっちでカタをつけるから、あんたはあいつについててやってくれねえか」

 頼む、と。

 そう付け加えられて、シルバーはしばし無言でフェイを見返していた。

「…………」

 その沈黙が、果たしてどれほどの長さを持っていたものか。

 息詰まるような緊張の時間が過ぎたのち、シルバーはふと目を伏せ、携帯端末をスーツの内ポケットへとしまいこんだ。

 途端に周囲の空気が弛緩する中で、ドクターはこつこつと足音を鳴らしながら店内へと歩み入ってくる。

「ほら、これ」

 差し出されたのは、彼女がいつも使っている、U字型のカフで腕にはめ込む型の杖だった。旧厨房の奥にあるバックヤードは、そのさらに奥からエレベーターホールに繋がる廊下へと通じている。そのあたりに放り出されていたのを、おそらくアヒムか誰かが回収してきたのだろう。

 受け取ったシルバーへと、フェイはさらに床へ放置されていた盆から、数枚のおしぼりを掴み取って、突きつけた。

「 ―― 着替えは、後で持って行かせるから。せめてその血と……髪ぐらいは拭いてきな」

「髪……?」

 首を傾けるシルバーの様子に、フェイがその口元をわずかに緩める。

「髪、ついてる」

 苦笑いとともに胸のあたりを指し示されて、シルバーは素直に視線を落とした。そうして初めて、腰まで届くその長い黒髪の一部が、吐瀉物にまみれ、よじれて固まっているのに気がついたようだ。

 おそらくうずくまって吐いているリュウを覗き込んだ際、床を汚すそれが付着したのだろう。あるいはすぐ側で嘔吐を繰り返されたせいで、直接かかったものもあるのかもしれない。改めてよく見直せば、両手もべたついてすえた臭いを放っているし、スーツなどリュウに掴まれていた腕の部分はもちろんのこと、膝や裾などが吐いたもので濡れ、染みだらけになっている。

「ああ」

 なるほど、と。

 うなずいて、渡されたおしぼりで拭ってゆく。完全に綺麗にするのは不可能だが、それでもだいぶましになった。

 最後の一枚で口元の血を押さえ、使い終えたそれらを脇のテーブルへと置く。

 そうして彼女はもう、ビアンカには一瞥すら向けようとせず。慣れた手つきで杖を床につき、バックヤードへ続く出入口へと向かった。

 杖がタイルを擦る、規則的な響きがゆっくりと店内を横切り ―― シルバーは、まっすぐに店の奥へとその姿を消したのだった。



  §   §   §



 細い後ろ姿が見えなくなっても、しばらくは誰も口を開こうとしなかった。

 いま見聞きしたばかりの、あまりに複雑かつ衝撃的すぎた出来事を、それぞれがそれぞれに思い返し、自分なりに噛み砕いて飲み込もうと、懸命に努力している。

 しかし、そんな沈黙を破ったのは、またも彼女であった。


「……なによ」


 未だに拘束されたままのビアンカは、食いしばった歯の間から押し出すように、声を発する。

「なんなのよ、あの人間(ヒューマン)! 何サマのつもりなのよ!? ふざけるんじゃないわ!!」

 手首をつかむジグを振りほどこうと、めちゃくちゃに暴れ始める。しかし素人の女がどれほど抵抗したところで、他のことに気を取られてさえいなければ、玄人であるジグがものとするところではない。

 難なくいなして捉え続ける彼を、ビアンカは血走った目で睨みつける。

「アンタも何よ! なんで人間(ヒューマン)なんかの味方してんのさ。ここはレンブルグのキメラ居住区よ!? なんで人間(ヒューマン)なんかに、あんな大きい顔させてるのよ!!」

 喚き立てるビアンカを見て、フェイは大きく息を吐く。

 それからつと、腕を持ち上げ ―― 節くれだったその指で、ビアンカの生来のものではないプラチナブロンドを鷲掴みにした。

 いっさいの容赦なく籠められた力に、ビアンカが悲鳴を上げる。

 そんな彼女へとフェイは顔を近づけ、低く告げた。


「いい加減にしやがれ」


 怒鳴ると表現するほど、大きな声ではない。だがそれは、紛れもない恫喝であった。

 躾のなっていない愛玩犬の、けたたましい鳴き声とは訳が違う。腹の底まで響くかのような、大型の軍用犬が発する威嚇の唸りだ。

 ドクター・フェイは、時に裏社会の構成員とすら、一歩も引かず対等に渡りあっている。多少 ―― それも己が傷つかぬよう小細工を重ねた ―― みみっちい悪さに手を染めた程度の小娘など、最初から格が違う。

 引きつった顔で震え始めたビアンカへと、フェイは尖った犬歯をむき出す、獰猛な顔を向けた。もちろんのこと、笑っているはずがない。

「……シルバーが、リュウを口説くなら俺に相談しろって言ってたって? 俺はお前のツラなんざ、一度も見た覚えがねえんだが。どういうことなんだ、え?」

 髪を掴んだ指を、ぐいと捻り上げる。再び悲鳴を漏らしたビアンカは、叫ぶように訴えた。

「知らない! そんなの嘘よッ、あの人間(ヒューマン)が、勝手にそう言ってるだけで……っ」

 涙に潤んだ栗色の瞳が、信じてくれとフェイを見上げる。

 しかし……

「確かに、言った。ドクターを知っているかと、確認もしていた」

 すぐ背後から発せられた言葉に、ビアンカの表情が凍りつく。

「この女は、知らないキメラなどこの街にはいないと、そう答えていた。誓って保証する」

「 ―― 聞いてたのか」

 フェイの問いを、ジグはうなずいて肯定した。

「この女の言うことも聞くことも、自分に都合の良い部分ばかりだ」

 頭上で交わされる会話を、ビアンカは髪を掴まれたまま愕然と聞いている。

「誰を選ぶかは、リュウ個人の意志だと。その暮らしが、少しでも豊かなものになるよう協力してくれと、オーナーは言っていた。……頼むとすら、言った。それを、この女はすべて右から左に聞き流した」

 あの時の彼女が、どれほどの覚悟と願いを込めて、その言葉を口にしたものか。

 実際にすぐ側で見聞きしていたジグだからこそ、ビアンカの行動は許せる範囲を超えていた。

 無意識に手首を拘束する力が増したが、それで苦痛の声が聞こえてきても、ジグの心はなんら痛痒を覚えない。

「盗み聞き、してたなんて。サイッテー……っ」

 針のように細い目で見下ろしてくるジグを、ビアンカはせめてもとばかりに罵る。

「七階は、ペントハウスしかないフロアだ。そこで部屋に入るでもなく待ち伏せしている不審な存在を見つければ、確認に行くのは当然だ」

 実際に心配したのは、微妙に異なった事柄なのだが。それを説明したところで、この女はけして理解しないだろう。獣人種が、人間(ヒューマン)を気遣い、自発的に手を貸そうと考えたなどとは。

 実際、警備員というジグの職業を知る常連達は、その理由で疑いもせず納得している。

 よそ見しているビアンカを、フェイが力任せに向き直らせた。そうして、その両目を覗き込む。

「リュウをあそこまで立ち直らせるのに、どれだけの時間と労力がかかったと思ってる。最近ようやく落ち着いてきて、どうにか日常生活らしきものが送れるようになってきてたってのに。それをよりにもよって、地雷のど真ん中踏み抜きやがって。これでまた症状が悪化したら、どう責任とってくれるんだよ?」

「イタ……ッ、せ、責任って……そんな、大げさな……っ」

 なおも言いつのろうとするが、のけぞるような姿勢を取らされて言葉を呑み込む。

「あいつはな、物心もろくにつかねえガキの頃から、ずっとずっと人間に虐待され続けてきたんだ。叩きこまれた根深え心的外傷(トラウマ)のせいで、SEXどころか他人の体温すらまともに受け付けられねえ。そんな病人が、無理だ(NO)っつってるのに無理矢理迫ったあげく、人前で吐くほど追い詰めたんだ。立派な傷害行為だろうが」

 キメラ居住区に裁判所は存在しない。レンブルグの治安を守る官憲達も、獣人種同士の諍いには基本的に関わろうとしなかった。

 しかしキメラには、キメラ同士のやり方というものがある。

「……人間に尻尾振ってちやほや? 不潔? 良くもほざいたもんだ。あいつの服の下がどうなってるか、見せてやろうか。てめえなんざにゃ、もったいなくてとても拝ませられねえがな。代わりに同じだけのものを、そのご自慢の身体に再現してやっても良いんだぜ」

 心配するな、死なせはしねえ。俺はこれでも医者だからな、と。

 凄みを孕んだ笑みと共にささやかれて、これ以上白くはならないだろうと思われたビアンカの顔色が、いっそう悪くなる。

「お試しだの、結婚だの、子供だの……簡単にできるようなら、何も苦労はねえんだよ。 あいつのトラウマは根が深すぎる。 ―― 医者として認めるのは業腹だが、どんだけ治療(カウンセリング)を施そうが、綱渡りみてえな折り合いを続けながら、墓場まで抱えていく可能性のがずっと高え。だから、な」

 フェイの口調が、不意に激しさを増す。

「リュウと付き合おうなんて考えるならな、たとえ『そういう』意味では生涯指一本触れられなくても、心で寄り添い精神的に支え続ける、それぐらいの覚悟がなきゃ不可能なんだよ!!」


 たとえば、それは。

 これまで育んできた、その絆の存在すら忘れられても、なお。

 いま同胞達に囲まれて、かつてとは異なる平和な生活を続けている、その日常を守りたいと。その平穏な暮らしを続けさせるためであれば、自分という人間が裏で支えている、そんな事実にさえ気付かれないままで良いのだと。

 単に、経済的な負担だけに留まらず。時には嫌悪の眼差しまで向けられて、己の心それ自体が耐え切れずに壊れていこうとする、その間際になっても、それでもまだ。

 ただひたすらに影に徹し、身を削るかのごとく力を尽くし続けていた、あの人間(ひと)のように。


「……あいつがシルバーにだけは平気で触れられるのも、それ相応の理由があるからだ。シルバーは絶対に、リュウに性的行為を求めない。そして(NO)と言ったら、まずは必ず理由を聞く。聞いて、話し合って、納得すればそれで受け入れる。獣人種が一言でも人間に逆らえば、即座に廃棄処分されても不思議はない、俺達からは想像もできねえような環境の中で、シルバーだけがそれを何度も繰り返し、繰り返し、積み重ねてきた。いやだ(NO)と言っても殺さねえ、暴力を振るわねえ、心を折らねえ。時間をかけて、あいつの心身にそれを信じさせた。だからこそあいつは、シルバーに対してだけは拒否反応が出ねえんだ」


 結果として、唯一安心して手を伸ばせるぬくもりに、過剰なまでにすがりつくようになったのも不思議はない。リュウとて生身の生き物なのだ。本能的な部分で、どうしたって安らぎを求めようとするだろう。だが、理性とはまったく別の次元で、今の彼が身構えることなく受け入れられるのは、シルバーただ一人だけなのだ。


「……そんなのは、ただの刷り込みだと言うなら言え、依存だと言われりゃその通りさ。だがな、そんな歪んだ絆すら存在しなかったら、あいつは今ごろ息もしちゃいねえ」


 獣人種が一人の個人として生きられる、このレンブルグにまでたどり着くことすらできず。

 いや、仮にそれをどうにかして、成し遂げていたとしても。もしもあのまま、シルバーとの過去を思い出さずにいたならば。リュウは遠からず精神のバランスを崩し、破滅していたに違いない。

 現に、ほんの少し前にはもう、とっくに限界が見えていたのだ。一年以上治療を受け続けても、いっこうに減らぬ悪夢を恐れ、睡眠薬を毎晩大量に服用し。それでも誰かに心を許すことすらできず、一人ですべてを抱え込んで。

 夢と現実の境を見失うことに疲れ果てた末に、もはや死すらも解放の手段にしか思えなかった、と。

 記憶を取り戻すきっかけとなったあの事件ののち、リュウはカウンセリングの中で自嘲気味にそう漏らしていた。


「……し、知らなかった」


 ビアンカが、震える声で言い訳を口にする。

「そんな、おかしな人だなんて、知らなかったのよ! 知ってたら、近付いたりなんかしかったわ!!」

 彼女の訴えに、フェイがすっと目を細める。


「 ―― 誰が、おかしいって?」


 問い返す声は、どこまでも冷たく凍てついていた。

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