第八章 静かなる激情
床に両膝をついたリュウは、丸めた背中を大きく上下させていた。
両方の手で覆ったその口元から、ひゅうひゅうと荒い呼吸が洩れている。
これはただ事ではないと、顔色を変えた客達が駆け寄ろうとした時だった。
リュウの喉が、嫌な音を立てた。
「…………ッ」
押さえた手のひらの隙間から、せり上がってきた吐瀉物がフロアのタイルへと溢れ落ちる。
激しく咳き込みながら嘔吐するその異様な姿に、誰もが言葉を失って立ち尽くした。
一度だけでは収まらないようで、えづきながら何度も胃の中身を逆流させている。汚れた床に触れそうなほどに低くなったその横顔は、苦悶の表情に彩られていて。
苦しげに呻く音だけが残された店内に、けたたましいドアベルが鳴り響いた。
「リュー!!」
一種独特な発音が、めったにない大声で発せられる。
動きの鈍い左足を引きずりながら現れたのは、窓の向こう側にいたシルバーだった。杖はどこかに放り出してきたようで、進行方向にあるテーブルや椅子の背を手当たり次第に掴んで支えにしている。ガタガタと音を立てよろめきつつ、彼女は一直線にリュウの元へと向かっていった。
そうして、うずくまる背中のすぐ側まで、なんとかたどり着いて、
ためらう素振りの欠片も見せず、汚物の広がる床へと跪いた。
「リュー! 私の声が、聞こえるか!?」
すぐ間近から、手を伸ばすことはせず、声だけでそう呼びかける。
何度かそれを繰り返されて、ようやくわずかに反応が返る。色違いの瞳が、うっすらと開かれた。焦点の合わないままの眼差しを、シルバーはまっすぐにのぞき込む。
「私が判るか、リュー」
少し和らげた口調で、はっきりと発音する。
他の誰とも違う、その呼び方に、
リュウの瞳がわずかに揺らぎを見せた。
「……っ……ラ……?」
「ああ、そうだ。私だ」
ほとんど形になっていない掠れ声に、シルバーはしっかりと肯定してみせる。
そうしてからようやく、リュウの背中へと手のひらを触れさせた。静かにさすりながら、顔を上げて周囲を見やる。
「すまんが、それをくれないか」
声をかけられた客の一人は、いきなりのことに仰天する。
「ぅえッ!?」
「それだ。水をくれ」
テーブルにある飲みかけのグラスを示されて、ようやく何を言われているのか理解した。慌てて鷲掴みにして突き出すと、奪い取るように持って行かれる。
「水だ。口をすすげ」
水の入ったグラスを近付けられて、リュウはようやく口元を押さえていた手を離した。一方を床について上体を支えながら、震えるもう片方を伸ばす。
その指は、差し出されたグラスから逸れて通り過ぎ ―― それを持っている、前腕を握りしめた。
強い力に、シルバーの腕が揺れ、あたりに水が飛散する。
「……リュー……」
背中をさすっていた手のひらが移動し、そっと銀灰色の頭へ乗せられた。
きちんとセットされていた髪は、見る影もなく乱れている。冷や汗で濡れた顔に、幾筋もの髪がよじれて貼り付いていた。それを細い指がていねいにかき上げてゆく。
「大丈夫だ。……大丈夫。ここはレンブルグの、キメラ居住区だ。ドクターもいるし、アパートの住人や【Katze】の常連客達もいる。大丈夫だ。大丈夫……」
混乱している意識にも届くよう、同じ言葉を何度も重ねる。
そうして掴まれている腕はそのままに、もう一方の手にグラスを持ち替え、汚れた口元まで運んだ。
今度はリュウも素直に受け入れた。ガラスの縁に歯が触れ、かちかちというかすかな音が生じる。そして一口含んだだけで、再びむせ返った。
うつむいて咳き込むその背を、グラスを置いた手が慣れたように往復する。
「あ、あの、シルバー、さん」
横からかけられた声に、漆黒の眼差しが上げられる。
「これを。それから、少しでも拭いたほうが」
心配げな表情をたたえたアウレッタが、ピッチャーいっぱいに満たした水と、あるだけ出してきたと思しき、盆に山盛りにしたおしぼりを差し出していた。
「……助かる」
濡れタオルを一枚取り上げたシルバーは、ひと振りして広げると、まずは胃液で汚れたリュウの口元を拭った。それから腕を掴んだままの指を可能な限り綺麗にした後は、また口を押さえようとしている、もう一方の手へととりかかる。
「カウンターに寄りかかれるか。無理なら、少し移動して横になると良い」
細腕で大の男を動かそうとするシルバーに、客達の何人かもようやく我に返り、手を貸そうと動き始める。
そこへ再び、ドアの開閉する音が響いた。
「リュウが吐いたって!?」
足早に入ってきたのは、診療鞄を提げた白衣姿のドクター・フェイだった。その後ろにはレンがいて、さらに不安そうな面持ちのアヒムが続いている。
どうやら誰もが動けずにいた中で、彼が向かいの診療所へと走り、ドクターを呼んできたらしい。
フェイは厳しい目つきで店内を一瞥すると、それでだいたいの状況を把握したようだった。
「アウレッタ、ちょい裏のスペース借りるぞ。ゴウマ、アヒム、ディック、手伝ってくれ」
「お、おう」
有無を言わさず命じられて、指示を受けた者が動き始める。彼らが近づいてくると、シルバーは一瞬リュウを抱えたまま表情を固くした。反射的にその腕に力が込もったようだったが、すぐに緊張は解かれる。
「……頼む」
短く告げて身体を離そうとする彼女だったが、しかしリュウが手を離さなかった。引き止められたシルバーは、いったん動きを中断し、静かな口調で言い聞かせる。
「大丈夫だ。私も後から行く。……少し、休め」
そっと手のひらを重ねると、ようやく指から力が抜ける。
開放されたスーツの袖には、指の形に深い皺が残っていた。果たしていったい、どれほど強い力で握りしめられていたのか。
「頼む」
もう一度繰り返して場所を譲ったシルバーへと、ゴウマとアヒムが無言で目礼する。三階の住人である羊種のディックもまた、小さく会釈してからリュウへとかがみこんだ。
その間にアウレッタは、少しでも楽に休めるよう準備を整えるべく、カウンター脇にある出入口から、関係者用のバックヤードへ足早に姿を消す。
「それから ―― 」
手際よくリュウの脈拍や瞳孔の動きを確認しながら、ドクターは冷徹な口調で続けた。
「その女、もうちょい捕まえててくれ、ジグ」
その発言に、全員がはたと禿頭の大男に注目した。
この異常事態にも一言も発さず、気配すら感じさせぬまま店内にい続けた、ニシキヘビの獣人は。
その右手で、ことの元凶となったレトリバー種の女 ―― フランの手首を、がっちり掴み止めていた。傷つけぬようそれなりの加減はしているようだったが、それでも女の力でどうこうできるほど生易しい拘束ではない。
「…………っ」
混乱に乗じて、ひそかに逃げ出そうとでもしていたのか。店中からの視線を浴びたフランは、息を呑んで身をすくめる。
フェイの言葉を受けジグが改めて力を入れ直すと、途端にその表情が歪められた。
「ちょっ、ヤダッ……痛い……!」
悲鳴のような声でそう抗議するが、ジグはいっさい斟酌しない。客達もまた、誰一人として助け舟を出そうとはしなかった。
ゴウマらによってリュウが連れ出され、ドクターとレンがそれに付き添ってゆくと、店内には穏やかならぬ雰囲気の常連達とフラン、そしてシルバーが残された。
「…………」
立ち上がってリュウ達を見送っていた彼女は、その姿が見えなくなると、ひとつ息を吐く。
まるで何かを断ち切るかのように、深く、深く。
そうして上げられたその面には、表情と呼べるものなどまったく浮かんでいなかった。
先程までリュウに向けていた気遣いも、心配も ―― そして、怒りも、苛立ちも。
その内面で何を考え、感じているのか。伺わせるものはなにひとつとして存在していない。
ずるり、と。
左足を引きずりながら、彼女は一歩を踏み出した。
並ぶ椅子の背を掴みながら、ゆっくりと、進む。その歩みは大きく姿勢を崩した、無様ともとれるものだった。しかし誰一人として笑うことも、あるいは介助しようと動くこともできない。
時間をかけて近づいてくるシルバーの姿に、フランは顔を引きつらせた。とっさに後ずさろうとするが、ジグが背後に立ってもう一方の手首も捉えてしまい、その場から動けなくなる。
「…………」
ついにフランの目の前に立ったシルバーは、なおも無表情のままだった。
いつもと変わらないはずの顔。感情の色の見えない、面差し。だが普段のそれが、いかに穏やかな雰囲気をまとっていたものか。今のこの姿を目の当たりにすれば、その違いがありありと実感させられる。
いっそ丁寧とすら言えるほどゆるやかな動きで上げられたその右手が、青ざめたフランの頬へと、そっと撫でるような仕草で触れた。
なめらかな皮膚の上を白い指先がすべり ―― 彼女の後頭部へと回される。
そうしてプラチナブロンドに覆われた頭を引き寄せた。
悲鳴は、重ねられた口内に吸い取られる。
ほぼ同じ高さにある色の薄い唇が、鮮やかに彩られたそれを覆うように、深く口付けていた。驚愕に見開かれた栗色の目を、透明な光をたたえた黒瞳が間近から見すえている。
「 ―― ッ!?」
角度を変え、執拗なまでに続けられたその行為は、高い平手打ちの音と同時に終わりを告げた。
予想外の成り行きに、掴んでいたジグの力が緩んだのだろう。かろうじて右手だけをふりほどいたフランが、自由になったその手のひらをシルバーの頬に叩きつけたのだ。
「な……っ、何、アンタッ、頭おかしいんじゃない!?」
真っ赤になって息を荒げたフランが、店中に響き渡る声で叫んだ。
そんな彼女を、ジグは慌てて再度捕まえる。
よほど強い力で叩かれたのだろう。横を向いてうつむいたシルバーは、しかし対照的に声ひとつ漏らさなかった。赤くなった頬を押さえようともせず、ただ、乱れた髪を静かな仕草で耳へとかける。
「…………おかしい?」
呟くような低い口調は、どこまでも淡々としていた。
上げられたその眼差しが、そらされることなく、まっすぐにフランを射抜く。
「お前がやったことと、同じだろう。ならばお前も、己の頭がおかしいのだと認めるのだな」
「はァッ!?」
対するフランは、理解不能だとでも言うように、素っ頓狂な声を上げた。
「なに言ってんのアンタ、意味わかんない! ちょっと、離しなさいよ!! こんなイカレた人間、相手になんかしてらんないわッ!」
そう言って己を捉えている男を振りあおぐが、当然ながら、彼が耳を貸すはずもない。今度こそ注意深くフランを取り押さえながら、ジグはシルバーの真意を探るべく視線をそちらへ向けた。
殴られた弾みに切れたのか。彼女は赤いものを滲ませた口元を、いつかのようにほんのわずか歪めている。それだけで、まとう空気が恐ろしいほどに変わっていた。
「 ―― お前は、リューを好きだと言ったな。恋愛感情を抱き、ゆくゆくはその子供を得られたらという、そういう形での将来を視野に入れていると」
紡がれる声もまた、抑揚のない平坦な響きのままであったのだが。
しかし何故かそこには、背筋が粟立つかのような、尋常でない気配が感じられて。
「そ、そうよ! リュウさんが好きだから、だから私は……っ」
キスしたのだ、と。
そう続けようとした彼女は、しかし色のない眼差しに射すくめられ、ひくりと喉を震わせた。
「お前がそういった意味でリューとの交際を望むのであれば、一度ドクター・フェイに話を聞けと、私は言った。だがお前は、ドクターを訪ねていない」
疑問の形すらとることなく、きっぱりと断定されて。フランはなけなしの負けん気を奮い立たせたようだった。ぐっと腹に力を込めて、シルバーを睨みつける。
「なんで決めつけるのよ! だいたい雇い主が、従業員のプライベートにまで口を挟むなんて、横暴も ―― 」
「黙れ」
ただの一言。
荒げられるでもない、どこまでも冷淡なたったひとつの言葉で、フランを含めた全員が動けなくなった。
思えばそれは、人間である彼女が初めて獣人種に向けた、明確な命令だったかもしれない。
逆らうことはおろか、反発を覚えることすら許さない。従うことを絶対とさせる響きが、そこには存在していた。
「同意のないまま行われる性的接触など、一方的な暴力以外の何物でもない。……観賞用の第一世代として生み出されたリューが、他者から望まぬ行為を強要されることで、どれほど傷つけられてきたか。お前はそれを理解していないのか」
持ち上げられた指先が、己の口唇を拭う。親指の先を汚した赤を無感動に見つめ、そのまま握りこんだ。
「第一、世代……? 観賞用……って……」
呆然とした口調で繰り返すフランを、シルバーは褪めた目で見やる。
「……それすらも知らんのか。ならばお前はいったい、リューの何に対して好意を持った。まさか、あの容姿だけに興味を覚えたとでも言う気か」
その瞬間、彼女の瞳にようやく感情の色が点った。
それは、すでに一度目にしたことのあるジグですらもが、身震いするほどに暗い輝きだ。
「リューのあの外見は、遺伝子操作で作り上げられた、人工的なそれだ。顔立ちも、色違いの瞳も、髪も肌も、すべてが発注者の好みによる設計に基づいた、悪趣味な皮一枚にすぎん。よもやお前は、そんなものを取り沙汰したのではあるまいな」
シルバーの言葉に対してフランが見せたのは、動揺でも、図星を指された後ろめたさでもなかった。
その時、彼女の顔に浮かんだのは……紛れもなく嫌悪の色だったのだ。
そして、その表情だけで、シルバーは結論を出したようだった。
「 ―― そう、か」
小さくひとつ、うなずいてみせる。
「お前が本当にリューの幸せを願い、そのために尽力してくれるというのなら……そしてリューもそれを受け入れるのであれば、私はいくらでも祝福するつもりだった。交際する上で障害があれば、取り除くべく及ぶ限りの手を尽くそう。援助が必要なら、叶う限りの力を貸そうと。だが……」
言葉を切った彼女は、ゆっくりと目蓋を下ろし、そして上げる。
「お前が自分の幸せだけを考え、一方的な欲求を押し付け……リューの意志、尊厳を踏みにじろうと言うのならば」
一言一言、噛みしめるように口にする。
「私はお前を、許さない」
その口調が持つ重みに、誰も割って入ることすらできなかった。
「じょ、冗談じゃないわ!」
なおも抵抗を試みるフランに、客達はむしろ驚きの目を向ける。ここまで言われて、なおもまだ反抗できるのか、と。
しかしフランの表情からは既に、リュウに対する想いを証明するというよりも、人間に屈することを拒む、意地のようなものしか感じられなかった。
事実、彼女が続けた内容に、客達は思わず我が耳を疑う。
「観賞用なんて、そんなの聞いてない。遺伝子操作って、要するに整形じゃない! キレイに作った紛い物の顔で、人間に尻尾振ってチヤホヤされて……最低よ。そんな不潔な人、むしろこっちから願い下げだわ!!」
叫びが消えたその瞬間、店内の気温がいっきに低下したように感じられた。
未だジグに両手を掴まれたまま、フランは肩で大きく息をしている。しかしシルバーはというと、いつの間にか彼女から視線を外していた。顔が向けられている先は、手元だ。食事どきによく使用している、手のひらに収まる大きさの携帯端末を、なにやら操作している。
今度こそ逆鱗に触れただろうと半ば確信していた常連達は、まるで予想していなかったその行動に、戸惑いを隠せなかった。
やがて、目的を達したのか。
端末から顔を上げたシルバーの瞳に、先ほど見せた暗い輝きはなかった。
かえって穏やかとすら表現できそうな、そんな奇妙に落ち着き払った態度へと変わっている。
「……人間に飼われた経験もなければ、飼われている獣人種を目の当たりにしたこともない、この街育ちの第三世代ごときが」
乾ききった声音で発せられたのは、その語調とは裏腹に、どこまでも辛辣な言いまわしだった。
「したり顔で知ったふうな口を利くな。―― 虫酸が走る」
シルバーは、これまで一度して獣人種に対して、傲慢な素振りを向けたことがなかった。
確かに態度や言葉遣いこそ、突き放したような素っ気ない印象を与えがちなものであった。しかしその言動の根底には、常に彼女なりの筋が通されていた。時にひどく的外れだったり、不器用な形をとってはいたけれど。それでもいつも、リュウを始めとしたこの店に出入りする上階の住人や常連らといった、獣人種達の立場、心情を慮っていた。
そんな彼女が口にした、その物言いは。
一般的な人間が獣人種に対して向ける、根拠のない嘲りや差別意識とはまた、どこかが微妙に異なっていて。
あえて例えるならば、まるで道端の石ころでも眺めているかのような。
己にとっては何の価値もない。けれどそのままにしておけば、将来的に何かしらの障害になるかもしれない存在を、どう処理するべきかと思案しているかのような。
まるで、それは、そんな、
―― 誰かが、ごくりと息を呑む音がした。




