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鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街でII ―― The binding cover to crack-pot.
26/95

幕 間

 高所から墜落する感覚に、はっと閉じていた目を開いた。

 胸郭の内側では、心臓が激しく鼓動を刻んでいる。

 詰めていた息を吐き出せば、入れ替わりに流れこんでくる新たな空気に、喉が喘鳴の音を立てた。

 寝台に横たわった身体を、じっとりと濡らす冷たい汗。

 まるで肌の外側に一枚膜を貼ったかのような冷ややかさが、奇妙に現実感を失わせる。


 視界に映るのは、闇に沈む天井だった。

 室内に照明は存在しなかったが、夜目の効く瞳は、窓の隙間から差し込む街灯のわずかな光だけで、物の輪郭を捉えられる。

 ゆっくりと持ち上げた手が、細かく震えているのさえ見て取れて。


 ―― 夢だ。


 指先の感覚を確かめるように、強く握りこみながら己に言い聞かせる。

 昔の、悪い夢だ。忘れてしまえ。

 できた拳を額に当て、幾度もそう繰り返す。


 最近では、すっかり見ることの少なくなった、悪夢。

 思い出すのも忌まわしい過去は、長い間、己を苛み続けていた。だがそれも、もう終わったはずだった。

 あの過去とは決別し、新しい場所で新しい生活を送り始めた。

 もうあの頃のことなど、思い出す必要はない。


 ―― 本当に?


 耳元で、鈴のような声が囁いたような気がした。

 甘い甘い、絡みつくような響きを持つ、女の声。


 ぞくりと、全身が総毛立った。

 支えるべく差し伸べた己の腕を、抱え込まれた時の感触が蘇る。

 豊満な乳房へと、ことさら押しつけるかのような、その仕草が。


「……ッ」


 気がつけば、布団を跳ねて起き上がっていた。

 皮膚に残った柔らかさと体温の記憶を、こそげ落とそうと懸命に爪を立てる。


 手の震えが、止まらない。

 いや、手だけではない。

 いつの間にか、全身が(おこり)にかかったかのように揺れていた。


 下から見上げてくる、栗色の目に浮かぶ光は、見慣れたそれだった。

 かつては、日常的に向けられてきた視線。

 もう、そんなものとは、縁が切れたはずなのに。


 ―― 私、あなたのことが好きなんです!


 弾む華やかな声が、その可憐さとは裏腹に、耳へとこびりついて離れない。


「…………っ」


 喉の奥底から、何かがこみ上げてくる。

 手のひらで口元を覆い、必死にこらえた。

 視野の隅で、ちらちらと光の粒が踊る。呼吸を繰り返しても、喉仏が上下するばかりで、いっこうに酸素を取り込めている気がしない。


 ―― 本当に、逃れることができたのか?


 実際には、やはり現実だと思っていた方が夢で、何も変わってなどいないのではないか?

 決別したと信じていた、あの過去こそが、今も変わらず現実のままなのでは?


 何故なら、あの栗色の瞳が要求しているのは ――


   ・

   ・

   ・

   ・

   ・


 我に返った時には、暗い廊下に立ち尽くしていた。

 まだどこか、意識がはっきりとしない。

 目に見えぬ何かから逃げだそうとした際に、室内履きのことなど忘れていたのだろう。裸足のままの足裏を、柔らかな絨毯が受け止めている。

 ぼんやりと上げた眼に、光が飛び込んできた。

 床へと扇型に広がるそれは、けして強い輝きではなかったけれど。

 けれど闇に慣れた瞳にとっては、むしろ優しい暖かみを感じさせる。


 引き寄せられるように、ふらりと一歩を踏み出した。

 足音は、絨毯が吸い込んでくれる。

 二歩、三歩。

 扉が中途半端に開いたままなおかげで、わざわざ触れて動かさずとも、その内部をのぞくことができた。


「 ―――― 」


 間接照明によって浮かび上がる、寝室の光景。

 ほのかな光の中で、ベッドの上にある膨らみへと目が吸い寄せられる。

 上掛けごしにも判る、細い身体つき。シーツの上に広がるのは、漆の色を持つ長い黒髪。

 肩を下にしてこちらを向いている、その閉ざされた目蓋の、睫毛の数さえ数えられるようで。


 ―― ああ。


 思わず嘆息がこぼれ落ちた。

 急速に感覚がはっきりしてくる。

 凍えたように痺れていた、手足の末端まで、血の通ってゆくのがありありと感じられた。


 ―― 夢では、ない。


 今の、この光景こそが。

 あの人のいる、いてくれる、この場所こそが。


 大きく息を吸い込み、そして少しずつ吐き出す。

 今度はきちんと呼吸することができた。

 あれほど止まらなかった震えも、すっかり収まっている。


 音を立てぬよう注意して、そっと膝を曲げ、その場に腰を下ろした。

 片足を引き寄せて、廊下の壁へと背中を預ける。室内の様子は見えなくなったが、床に投げ出した太腿のすぐ傍らに、扇型の光が落ちている。


 ―― 夜が明けるまで、あとどれぐらいあるのだろう。


 どのみち、遅くまで仕事をしているあの人が目を覚ますのは、いつも自分が店に出てからだ。

 だから、大丈夫。

 普段と同じ時間に動き出して、音を立てぬよう静かにこの汗を流して。

 それから自動調理器(ドリンクメーカー)へ、コーヒーの合成キューブとカップをひとつ、セットしておく。

 そうして出勤すれば、いつもと何も変わらない一日が始められる。


 だから、大丈夫 ――


 ひたひたと満ちてくる安堵感と共に、ゆっくりと両の目を閉ざした。

 押し寄せる睡魔がもたらしてくれたのは、今度こそ夢すら見ない、平穏な一時(ひととき)で……

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