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鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街でII ―― The binding cover to crack-pot.
24/95

第五章 気付かされた危機

 今日も朝から立て続けに訪れる患者を、どうにかひと通りさばき終えて。

 ようやく一息つけるかと肩の力を抜きかけていたドクター・フェイは、目の前に並んでいる面々へと、眼鏡越しに据わった眼差しを向けた。

「……で? ここは一応、病院なんだが。患者はいったい誰なんだ」

 あと付き添いは一人で充分だぜ、と。

 皮肉気な口調で言いながら、診察室の椅子の背もたれへ、ぎしりと体重を預ける。

 いかにも不機嫌そうに深く足を組んでいる彼は、このキメラ居住区で唯一の医者であった。小麦色の肌に、後頭部で適当に縛った伸び気味の黒髪。縁なしの丸いレンズに覆われた瞳が、赤みの強い褐色をたたえている。無造作に羽織った白衣が包んでいる体躯は、かなりの細身だ。しかしこれでいて暴れる患者をも平然と押さえ込んでみせる腕っ節と、胆の太さを兼ね備えている。

 純血のドーベルマン種で、キメラの中でも高等教育を受けた変わり種。ドクター・フェイ=ザードは、暴力沙汰とは切り離せない裏の組織などともパイプを繋いでいる、ある意味この街でもっとも敵に回してはならない人物だと噂される存在であった。

 そしてそんな彼は、道を挟んだ真向かいに立地するカフェレストラン【Katze】の、常連客のひとりでもある。

 重傷を負い記憶を失って行き倒れていたリュウを、この街で最初に受け入れたのが、このドクターと発見者である女将のアウレッタだった。

 その後、医者として傷の治療やカウンセリングなどの面倒を見続けていた彼へと、リュウの行方を探していたシルバーが接触を図り ――

 それぞれの守秘義務に沿いながら、獣人(リュウ)人間(シルバー)の間をそれとなく取り持っていたフェイは、あの二人について、この街でもっとも詳しい人物でもあるのだった。

 そういった次第で、一同はこのややこしい事態を少しでも整理して理解するべく、診療所へと相談にやってきたのである。

 そこには、あの二人に関する相談を店内でやっていては、本人達に筒抜けになってしまうという理由もあったりする。


「あのね、ドクター。あなたはここしばらくの騒ぎって、知ってるのかしら」


 口火を切ったのはやはり、問題を作るきっかけとなった、ルイーザだった。

 ここしばらくは忙しかったのか、フェイはあまり【Katze】に顔を出していなかった。フランとは一二度ぐらいすれ違ったかもしれないが、せいぜいその程度だ。

「あー……そういや、何人かがぼやいてたっけな。リュウに言い寄ってる女がいるって?」

 フェイの答えに、一同 ―― ルイーザ、アヒム、スイ、ゴウマにジグが、そろってうなずきを返す。その横では、何故か看護師のレンまでもが、同じように頭を動かしていた。どうやら彼女の方も彼女の方で、別方向から話を仕入れていたらしい。そしてそこは女性だけに、恋愛関係の情報にはドクターよりも熱心に耳を傾けていたのだろう。

 アフガンハウンド種のレンは、さらりとした癖のない白髪を揺らしながら、不安げな眼差しでフェイの方を見ている。

「……別に、そこまで心配するようなことか? あのリュウが、そこらの女にうつつを抜かす訳もねえだろうに」

 フェイはそんなふうに言いながら、指先でくるりとペンを回す。

「相手の女……フランだっけか。そいつも、あの二人のいちゃつきっぷりを目の当たりにすれば、割って入るのは無理だって、すぐに悟るだろうよ」

 ほっとけほっとけとまともに取り合おうとしないフェイへと、ルイーザが(まなじり)を吊り上げる。

「そのリュウが! 恋人なんかいないって、あの()に言っちゃったのよ。おかげですっかりのぼせ上がったあの娘が、もう好き放題し始めて大変なんだから!!」

 ルイーザの訴えに続いて、他の面々も次々と口を開く。

「もうね、毎日お昼過ぎから夕方までお店にいっぱなしで、忙しい時もお構いなしに、ずっとリュウに話しかけようとしてるの」

「リュウ本人はさ、迷惑そうにしてるんだよ。特に最近は、けっこう素っ気ないっていうか……むしろ前みたいに、近づくな的オーラをあからさまに出してるんだけど」

「けどメゲねえんだよ、その女。むしろクールなあの態度も素敵! って感じなのか、あれは」

「あばたもえくぼって言うのか、恋は盲目って言うのか。もうほんとに洒落にならないのよ」

 ルイーザがまとめる。

「かなり厳しく言っても、まるで右から左だし……最近では店の雰囲気も悪くなってきてて」

 全員が示しあわあせたように、ため息を落とす。

「……オーナーが引っ越してきた時も、確かに居心地は悪くなったわ。でもオーナーは、きちんとマナーを守ってた。大声で騒いだり、他のお客に迷惑かけるような真似は、いっさいしなかった。だから私達も、少しずつだけど受け入れることができたのよ。でも、あの娘はダメだわ」

「……空気が読めてないっていうか、周りのことを全然考えてないっていうか……なまじっか可愛いだけに、なんかもうさあ」

 アヒムが可愛いと口にしたとたん、スイがキッと睨みつける。

「……それもこれも、リュウが好きな人なんかいない、オーナーとはそんな関係じゃないって言っちゃったのが原因なのよ」

 あれで自分にも希望がある、いや絶対に口説き落としてみせると、フランはすっかり張り切ってしまったのだ。

 忌々しげなルイーザの横から、スイが硬い声で問いかける。

「リュウは、なんでそんなこと言ったの? ……アタシ、リュウとシルバーさんは、その、付き合ってるんだって思ってた。シルバーさんは人間(ヒューマン)だけど、でも、あの人となら、それでも良いかなって。なのに……」

 その顔が、ジグの方へと向けられる。

 それまでずっと口を閉ざしたままだった彼は、目を伏せてスイの視線を避ける。

 ジグはただ、リュウが口にした言葉をそのまま伝えただけだ。嘘はなにも言っていない。


「…………」


 ドクターもまた、無言で思案しているようだった。

 その指先で、ペンだけがくるくると、独立した違う生き物のように動いている。

 やがて、ぴたりと回転が止まった。


「……それ、リュウ本人には訊いてないよな」


 ガラス越しに赤褐色の眼差しを向けられて、一同は互いに顔を見合わせた。視線でそれぞれに確認しあう。

「ない、けど」

 リュウからは、ことその件に関して話題に乗せることすら拒絶する気配が、全身から発せられていた。リュウ自身がフランに対して迷惑げにしていることもあり、彼に対して直接文句を言う客達はいない。……今のところはまだ、だが。

 その答えに、フェイはわずかに肩の力を抜く。


「そうか。なら良い。そのまま、あの二人の関係については、いっさい触れてくれるな。他の奴らにもそう、徹底して伝えておいてくれ」


 想像以上に強い口調で念を押されて、一同は不思議そうな顔をする。

「どういうこった、そりゃ」

 こと恋愛問題に関しては特に疎いと自他共に認めるゴウマが、理解に苦しむといった体で首を傾げた。

 フェイはペン先でカツカツと机の表面を叩きながら、どう答えるべきかと思案しているようだ。

「……守秘義務ってやつで、詳しいことは、話せねえ。ただあの二人は、そこらへんがかなりややこしいんだよ。そもそも前にいた都市(まち)を出ることにしたのも、シルバーに横恋慕した馬鹿のせいでトラブったのが、原因のひとつらしい」

「オーナーに!?」

 アヒムが驚きに声をひっくり返らせる。

 こう言ってはあれだが、シルバーに女性的な魅力はあまりない。正直、皆無だと言ってもいいだろう。

 まあその代わり、人間性といった部分に優れているのだから、別にアヒムが彼女を蔑んでいるという訳ではないのだが。

「正確には横恋慕っつぅより、義父(ちち)親の遺産目当ての下衆だったってえ話だが……嫌がらせなんてレベルじゃすまねえような真似を、相当にされたんだそうだ」

「……つまり、リュウのあれは、自衛ってことか?」

 人間と恋愛関係にあると明言することで、再び誰かに攻撃されるのを警戒し、予防線を張っているというのか。

「そうシンプルな話でもなくてな……ただひとつ言えるのは、やつが守ろうとしてるのは、むしろシルバーの方をってことだ」

「は?」

「『あの人が、獣人種(キメラ)に望まぬ関係を強要するような、低俗な人間(ヒューマン)ごときと同類だなどと、誰かに想像されるだけで不愉快です』ってな」

 かつり、と。ペン先がひときわ高い音を立てる。

「あいつが一番気にしてるのは、シルバーに悪評が立つことだ。ここで下手に『お前らデキてるんだろ?』なんて訊いてみろ。住み込みだからそんな噂が立つんだって、ペントハウスから出ていくとか言い出すぞ、あいつは」

「え、マジで?」

「大マジだ。今なら市民証の書き換えもできるし、ある程度収入もある。他の階にいくつか空き部屋があるから、そっちから通うとか、本気で実行しかねん」

「んな、無駄も良いとこ……」

 ゴウマが呆れた顔をするが、フェイはあくまで真剣な表情を崩さない。

「無駄だろうが形式だけの建て前だろうが、あいつらにはその『形』ってやつが、何より重要なんだよ。獣人種の人権どころか、生き物として最低限の保護条例すら存在しなかった都市(まち)で、あの二人がどんな不自由な生き方を強いられてきたのか……どれだけ言葉で説明されても、たぶん俺らには本当の意味で理解することはできねえんだろうさ」

 仮に想像することはできたとしても、それがどれほど現実に即したものなのか。この都市(レンブルグ)で暮らす者達には、確かめることすらできはしない。

「……じゃ、じゃあリュウは、シルバーさんのために、自分の想いを殺してるっていうの?」

 禁断の恋という言葉は、いつの時代でも乙女の夢をくすぐる響きだ。どこか浮足立つような気配をまとい始めたスイに、しかしドクターは複雑な表情を向ける。

「それこそ、絶対リュウには言うなよ」

「え……」

 きょとんとする少女へと、フェイは噛んで含めるように告げる。

「シルバーと関係を持つぐらいなら、リュウは今度こそ自分の意志で姿を消すぞ。あいつがシルバーのそばにいられるのは、絶対にリュウへとその手の感情を向けてこないからだ。もしわずかでもその可能性があると感じたら……あいつは確実に逃げる。そしてそれが前みたいな事故や不可抗力じゃなく、リュウ自身の意志によるものならば、シルバーはもう探さないはずだ。これがどういう意味か、理解できるか?」

「え、え?」

 スイは助けを求めるように、他の面々の顔を見る。

 しかし誰かが答えを出すよりも早く、フェイは結論を口にした。

「リュウがいなくなれば、シルバーがあのビルの持ち主でいる理由もなくなる。もともとシルバーは、リュウの生活を守るためにあそこを買ったんだからな。その大本の理由が消えてなくなったら、ろくな家賃収入もない不良物件を、いつまでも持っている必要がどこにある? シルバーだけなら、人間用の一般居住区に、いくらでも快適な住処(すみか)を見つけられるんだ。無理にキメラ居住区で暮らしていくよりも、あのビルなんざさっさと手放して、手に入った金で引っ越す道を選ぶだろうさ」

 今まで考えもしなかったその可能性に、一同はそろって息を呑んだ。

 さらにフェイは、別の未来も示唆してみせる。

「あるいは面倒な女にしつこくまとわりつかれたり、周囲から不愉快な邪推を向けられるぐらいなら、リュウと二人でまた別の都市に移るってえ選択肢もある。一度はそれを実行したあの二人だ。二度目がねえなんて思うのは、希望的観測にすぎるってもんだぜ」

 その場合、次にあのビルを買い取る相手が、現在ほど寛大な家主であってくれると期待するなど、それこそ楽観的な考えだろう。


「……ったく、厄介なことになりやがって。せめてもうちょい、カウンセリングが進んでりゃあ……」


 フェイが呟いた言葉の後半を聞き取ることができたのは、すぐそばに立ち事情にも通じている看護師のクラレンスと、終始平静さを保って話を聞き続けていたジグの、二人だけで。


「とにかく、やべえ状況になってるってのは把握した。あの二人へは、俺の方から刺激しすぎない形でフォローを入れるから、お前らはそのフランとか言う女の方をなんとかしてくれ」


 フェイとしても、【Katze】や馴染みの住人達が苦境に立たされるのは本意でない。何より自分の患者に関わる問題である。放置するつもりはさらさらなかった。

「いやだから、その『なんとか』をどうすりゃ良いのかってんで、相談に来たんだが……」

 そもそもは、何を言おうといっこうに耳を貸そうとしないあの女(フラン)に手を焼いたあげく、こうして集まったのだ。

「なんなら、多少がとこ後ろ暗い手を使っても構わん。問題になるようなら、俺が口を利いてやる」

 裏社会にもある程度の顔が利くドクターは、そう言って唇の端を歪めてみせる。

 (せん)に【Katze】で暴力事件を起こし、人間(シルバー)に重傷を負わせたキメラの始末についても、彼が裏から手を回して行っていた。それでも正式に官憲に引き渡され、人間の法律にそって裁かれるよりは、幾分かましな処遇であったろう。とは言えあの男が辿った具体的な運命について、常連達は誰一人として、詳しく知ろうとする勇気を持てなかったものである。

「後ろ暗い手っつわれても……」

 腕っ節にはそこそこ自信があるものの、あくまでまっとうな堅気の労働者であるゴウマとアヒムは、何をどうしたものかまったく見当がつかないようだった。

「 ―― とりあえず、私はあの()について、他のホステスや従業員達に話を聞いてみるわ」

 なにか、弱味みたいなものでも見つけられたら、とっかかりになるかもしれない、と。ルイーザが呟く。

「アタシも、配達であちこち行くし。知り合いにも声かけて、あの人の噂とかないか調べてみる」

 こういうとき、女の噂話という名のネットワークは、なかなか侮れないものがある。多少尾鰭のつきがちなのが難点だが、取捨選択さえ誤らなければ、恐ろしい勢いで情報が集まったりするのだ。



 問題はすでに、店の雰囲気がどうの、一人の従業員の去就がこうのなどといった段階ではなく。

 場合によっては、店と上階の住人すべての未来をも巻き込んでゆくのだと実感した一同は、訪れた時よりもいっそう深刻な表情で、診療所を後にしたのである ――



  §   §   §



 いつもであれば、そろそろ一回目の食事を取る頃合いだ。しかしこのところは早く起きて常連達とフランについての相談をしていたため、空腹よりも眠気の方が勝った。もうしばらくすれば、またあの女がやってくるだろうことを考えても、店へ足を運ぶ気にはどうにもなれない。

 今日は適当に買い置きですませてもう一度眠ろうと、ジグは六階の自室に戻ることにした。エレベーターに近い側の角部屋に住む彼だったが、頑健な肉体を持っているため、階段を使うのは苦にならない。むしろボタンを押して扉が開くのをぼんやりと待つよりも、歩いて上がった方が早いという考え方の持ち主である。

 今日も迷うことなくエレベーターの反対側にある階段の方へと足を向けた。

 もともと要人を護衛する用途で作成された第一世代の彼は、この都市で警備員の職につく前から、それなりの専門訓練を受けてきていた。おそらく【Katze】に出入りする常連やこのビルの住人達の中で、もっとも荒事に近しいのはジグであろう。事実ドクターが口にした『後ろ暗い手段』に関しても、いくつか思いつく方法がなくもなかった。


「…………」


 考え事をしていても足音がほとんど生じないのは、もはや身に染み付いた習性のようなものだ。周囲にそれとなく気を配るのも、無意識のうちに行っている。

 『それ』に気が付いたのも、そうやって張り巡らせていた意識の網に、引っかかったからだった。

 六階の廊下を歩き、自室の扉へと手を伸ばしたところで、動きを止める。そうして顔を上へと向けた。

 ニシキヘビの遺伝子を持つ彼は、視力が低い代わりに、ピットという器官で赤外線を感じ取ることができる。壁や床の向こうにあるわずかな熱源も、察知できるのだ。それは護衛や警備を行うにあたって、非常に便利な能力のひとつである。

 その感覚で捉えたのは、天井の向こうにある不自然な存在だった。

 そこは七階の廊下である。最上階のそのフロアは、まるごとひとつのペントハウスで占められており、住人はシルバーとリュウの二人きりだ。そして今の時間帯、リュウは【Katze】で仕事をしているはず。事実、先ほど通りすがりに玄関ホールから窓越しに見た店内では、いつものようにカウンターの中で何やら調理していた。しかし何故かいま、七階の外廊下に熱源がひとつ感じられる。ちょうど人ひとり分のそれは、普通に考えればシルバーのものだろう。

 しかし……

 ジグはしばし思案したのち、きびすを返して再び階段の方へ向かった。

 その熱源は、廊下の半ばあたりで動きを止めている。

 シルバーが食事に向かおうとしているのであれば、立ち止まるのはエレベーターのすぐ前になるはずだ。しかしその位置はエレベーターの扉から離れているし、さりとてペントハウスの玄関からも距離がある。妙に中途半端なあたりだ。

 あるいは、足か杖に問題が生じて、動けなくなっているのかもしれない。

 以前聞くともなしに耳に入った会話を思い出し、そんな危惧を覚えた。

 時に妙な方向へと気をまわしてしまう、彼女のことだ。ランチタイム前後で忙しいからと、携帯端末でリュウを呼ぶのを、躊躇しているとも考えられる。

 そんな場合は常連の誰かが手を貸すから、連絡だけでも入れろと、あの時はゴウマが説得していたのだが。

 しかしあの女性は、おそらくリュウ以外の助けを、自分から求めることはないように思う。それは相手が獣人種だからとか、人間だからとか、そういった部分を問題にしているのではなくて。

 これといった根拠があるのではないが、なぜかそんなふうに確信できるのだ。

 それでも、善意から差し出された手を無碍に拒むほど、頑なな人間でもなかったから。本当に動けなくなっているのなら、部屋に連れ戻すなり、店まで肩 ―― は身長の関係上、難しいかもしれないが ―― 力を貸すぐらいはできるだろう。

 そう考えて、七階へ向かう階段を登り始めたジグであったのだが。

 もう数段で上がりきるといったところで、彼の耳に扉の開く音が届いた。

 続いて聞こえたのは、いつの間にかすっかり聞き慣れている、片足を引きずる独特の足音。

 ペントハウスの玄関から、シルバーが出てきたのだ。礼儀上、私的(プラペート)な空間である他の住人の部屋までは、できるだけ意識を向けないようにしている。そのため、彼女がまだ在室していることに気付かなかったのだ。

 ならば、先ほどから外廊下にいた、もう一人の人物は。

 いったい、誰だというのか。


「 ―――― 」


 とっさに気配を殺して、ジグは踊り場の壁へと身を寄せた。顔を出せば向こうから見えてしまうかもしれないので、あくまでピットを頼りに熱源の動きを追いつつ、耳を澄ます。

 廊下に出たシルバーは、すぐに立ち止まった。

 その数メートルむこうにいたもう一人もまた、動かないでいる。

 しばし、無言の時間が過ぎた。

 壁越しに様子を探っているジグに、細かい部分までは判らない。なにか、言葉にならないやり取りが交わされているのだろうか。

 しびれを切らし、見つかる危険を覚悟で覗き見ようかと、重心を移動させた時だった。

 ようやく一方が、口火を切る。


「……こんにちは、オーナーさん」


 いくぶん硬いが、それでも澄んだ鈴のような響きを持つその声は。

 ジグがいま、もっとも耳にしたくない人物のそれであった ――

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