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鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街でII ―― The binding cover to crack-pot.
21/95

第二章 厄介事の気配

「あ、(ねえ)さん、こっちこっち」

 プラチナブロンドの若い女性が、カウンター近くのテーブルから手を振っていた。約束していた時刻より少し遅れたという自覚のあるルイーザは、足早にそちらへと近づいてゆく。そうして少しばかりの違和感を覚え、思わず立ち止まった。

「あなた、その席は……」

「え?」

 不思議そうに首を傾げる相手は、何を聞かれているのかまったく判らないようだ。それもそうだろう。彼女がルイーザの行きつけであるこの店にやってくるのは、これが初めてのことだ。当然、そのテーブルを普段誰が使用しているのかなど、知っているはずもない。

「ううん。なんでもないわ」

 この時間帯であれば、なにも問題はないだろう。

 そもそもいつもの席がふさがっていたとしても、それで腹を立てるような人ではない。ただ、常連達の方が勝手に気を遣って、よほど混雑している場合でもない限りはそこを空けておく習慣が、いつのまにか定着してしまっているだけである。

 なんとなく落ち着かないものを感じながらも、ルイーザは向かいの椅子を引いて腰を落ち着けた。それからすぐ右手にあるカウンターの方を向く。

「コンソメスープとチキンサラダのセット、お願い」

「コンソメとチキンサラダですね。ドレッシングは」

「今日はオニオンが良いわ」

「判りました。少々お待ち下さい」

 穏やかな笑顔とともに復唱されたのを確認して、正面へと顔を戻す。

「……フラン?」

 向かいに座っている仕事仲間の女性は、どこか驚いたような顔をしてカウンターの内側を見つめていた。不審に思ってその名を呼ぶと、軽く肩をはねさせてから振り返る。

「あ、ごめんなさい。ちょっと、あんまり格好良い人で、びっくりしちゃいました」

 そんなことを言って、小さく舌を出してみせた。

 彼女は十以上も年下で、まだ店に入ったばかりの新人ホステスだった。そんな子供っぽい仕草も様になっているのが、三十もとうに過ぎた身にはいささか眩しく感じられる。

「格好良い、ねえ。……まあ確かに、今はそうかもしれないけど」

 苦笑いしながら、ルイーザは灰皿を手元に引き寄せた。ハンドバッグから取り出した細身の煙草を、紅く染めた口唇へと運ぶ。

 普段はあまり吸わないようにしているが、別にこの店は禁煙と定められている訳ではない。よほどマナーを逸脱しなければ、そううるさいことなど誰も言わなかった。

 手慣れた仕草で火をつけて、清涼感のある煙を肺の奧まで吸い込む。

 ……あの青年は、今でこそ確かに、ずいぶんと見栄えのする外見をしているかもしれない。しかしほんの少し前までは、それはもう野暮ったい見てくれだったのだ。サイズの合わない色も柄も適当な古着に、ろくにハサミすら入れないばさばさになった髪で、ほとんど隠れてしまっている顔。それでも愛想が良いならばまだしも、話しかけられてもぼそぼそと一言二言を返すだけという人当たりの悪さ。あの頃の姿を知っている者としては、今さら格好良いなどと言われても、可笑(おか)しさの方が先に立ってしまう。

「……それで? 困ってることってなんなの」

 そのあたりを追求されると吹き出しそうになるので、料理が届くのを待たず、さっさと用件を切り出してみた。

 そもそもは、他のホステス達には聞かれたくないから、どこか職場以外で相談に乗って欲しいと、目の前の彼女に頼まれたのである。だからこそルイーザは、わざわざ時間を取ってこの席を設けたのだ。

 しかし目の前の彼女からは、涙混じりに詰め寄ってきたあの時のような、切羽詰まったものがまったく感じられない。

「ああ、そのことなんですけど……」

 柔らかなプラチナブロンドを胸元でカールさせた、レトリバー種の獣人 ―― フランは、いささかきまり悪げに視線をさまよわせた。

「実は、あの……ちょっとした、カン違いだったみたいで」

「勘違い?」

 問い返すと、こくこくと小刻みに顎を引く。

「その、ですね。うちの店に勤め始めてから、しょっちゅう物が失くなるようになってて。誰かに盗まれてるのかなって。もしかしてこれ、イジメ? とか思ってたんです」

 穏やかではないその内容に、ルイーザは顔をしかめていた。それが本当ならば、確かに他のホステス達の耳に入るような場所では話せないだろう。

 黒豹のルイーザは、あの店でもかなりの古株であるうえ、担当は歌やピアノ演奏で、直接客の相手をすることはない。ライバルとして競い合う存在ではないが故に、ホステス達の間では中立の立場にある良き相談役という扱いになっている。

 もともと面倒見の良い性分であることもあって、彼女自身そういったポジションを甘受していた。だからこそ今回も、フランの相談とやらに乗ったのだが。

 しかし ――

「ごめんなさい!」

 フランは眉尻を下げて両手を合わせてきた。

「失くなったと思ってたのって、全部、いっしょに住んでるルームメイトが、黙って勝手に使ってたんです」

「……あ、ああ。そうだったの」

 深刻なトラブルに発展するかと思いきや、なんのことはない。店とはまったく関係ない、身内間での行き違いだったということか。

 一瞬とはいえ、そんなことをしそうな心当たりをピックアップしかけていたルイーザは、内心で仕事仲間達に深く謝罪した。あらぬ疑いをかけそうになった相手へと、心の中で頭を下げる。

「ひどいんですよ。彼女ったら、ちょっと借りただけでしょって、謝りもしないんです」

 向かいで同居人に対する不満を口にしているフランの方はというと、自分が同僚達を疑っていたことに関して、まったく罪悪感など持っていないようだ。

「まあ、無事解決したのなら、良かったじゃない」

「全然良くないですよ! こっちが文句言ったら、なんか逆ギレしちゃって。そんなにうるさく言うなら出ていくとか怒り出すんですよ。いけないのはあっちのくせに、これじゃまるで私の方が悪者みたいじゃないですか」

 頬を膨らませて唇を尖らせているその顔は、それでもそれなりに可愛らしいと言えるものだった。しかし同性のうえ、長年水商売の世界で過ごし相応に目の肥えているルイーザにとっては、そんな程度など見慣れたレベルでしかない。

 感情を高ぶらせた女性の相手をするのも慣れっこになっているので、適当に聞き流しながら煙草をくゆらせる。

 何度目かの紫煙を吐いたところで、傍らに人影が立った。

「お待たせいたしました」

 指の長い大きな手が、スープとサラダの皿を音ひとつ立てず並べてゆく。

「ありがと」

 礼を言って、素早く煙草をもみ消した。煙の中で食事をする趣味は、さすがにない。

「ごゆっくりどうぞ」

 リュウは灰皿を新しいものに交換し、ルイーザとフランの二人へと、等分に笑みを向けた。

「お代わりはいかがですか」

 そう訊ねられて、フランはそれまでまくし立てていたルームメイトへの不満を、ぴたりと止める。興奮から血の気の昇っていた顔色が、別の理由で赤く染まっていった。

「えっ……あの、えっと……」

 舌がもつれたように口ごもる彼女の言葉を、リュウは微笑みを浮かべたまま待っている。

 青灰と金褐色の色違いの瞳が、長い睫毛の下から静かにフランを見下ろしていた。

「れ、レモンティー、お願い、します」

「レモンティーですね。ホットとアイスがございますが」

「……アイス、で」

「かしこまりました。少々お待ち下さい」

 一礼してカウンターの中へと戻っていく背中を、フランはぼーっとした表情で見送っていた。


 ―― あ、これはまずい展開かもしれない。


 ルイーザだけでなく、一部始終を見ていた客達のほとんどが、期せずして同じことを思った。

 案の定、リュウが自動調理器(ドリンクメーカー)にかがみ込んだ途端、フランはがばりと振り返ってきた。身を乗り出すようにして、顔を近づけてくる。

「ル、ルイーザ姐さんっ。あの人! あの人、なんて名前なんですか!?」

 カウンター内に聞こえないよう、声を潜めながらも勢いは失わないという、器用な真似を両立させている。

「ちょっと落ち着きなさい。彼にはちゃんと、心に決めた人がいるんだからね」

 やっかいな事態になるのは御免だと、早々にきっぱりと釘を刺した。

 が、フランは曖昧に笑いながら、ぶんぶんと手首から先を振ってみせる。

「やだな、そんなんじゃないですよ。ただ素敵な人って、やっぱりチェックしときたいじゃないですか。目の保養っていうか、ねえ?」

 そんなふうに言いながら、立ち働くリュウの姿をちらちらと盗み見ている。

 ルイーザは思わず、あからさまに眉間を押さえていた。

 彼女と話をするのに、この店を選んだのは完全に失敗だった。常連達はつい失念しがちだったが、リュウの容姿は相当に端正な、人目を引くものなのだ。それもどこか匂い立つような色気が前面に出た、玄人にほど受けが良い種類の整いかたである。水商売の女など、それこそ目の色を変えて食らいつくのは、予想してしかるべきだった。

 ―― それはけして、彼自身が望んで得たものではなく。そのように形成されるよう、遺伝子段階から人工的に手を加えられ、合成されたが故の外見に過ぎなかったのだけれど。

 どうやら本人もそれを自覚していたからこそ、以前は髪を伸ばして顔 ―― 特に目立つ瞳の色 ―― を隠し、服なども体型が判らないようなものをあえて選んでいたらしい。

 しかし記憶を取り戻し、シルバーと共に暮らし始めてからは、彼もきちんと身なりを整えるようになった。手入れの行き届いた灰色の髪は、しっとりとした艶が出て銀に近くなっているし、長めの前髪も自然な形で後ろに流して、すっきりとした額と筆で描いたような眉、そして色違いの目をあらわにしている。

 身体に合った仕立ての良い服は、手足の長さと彫像を思わせる引き締まったスタイルを際立たせ、なによりも格段に増えた口数と穏やかな笑顔が、印象をすっかり変えてしまっていた。

 客観的に見れば、確かに掛け値なしの『イイ男』だろう。あくまでその背景と、かつての姿を知らなければ、だが。


「ねえ、教えて下さいよ! あの人、なんて言うんですか?」


 フランはテーブルを揺らすようにして聞いてくる。うかつに教えれば面倒なことになるだろう雰囲気がひしひしと伝わってきた。しかしここで黙っていても、この界隈で【Katze】の男性店員の名はと道行く人に訊ねれば、それぐらい簡単に知れてしまう。

 ルイーザの葛藤も知らず、リュウは盆を手にして、再びカウンターから出てくる。

「失礼いたします」

 氷の浮かんだグラスを、そっとフランの前へ置いた。

 その物腰がいつもにも増して丁寧なのは、相手が顔見知りの常連ではなく、初めて会う一見(いちげん)の客だからなのか。

 あるいは彼なりに、一線を引いて保身を図っているのかもしれない。が、はっきり言おう。完全に逆効果だった。

 案の定、フランはその一挙一動にすっかり見惚れてしまっている。

 しょせんは常日頃、スラムに近いこのキメラ居住区内で、粗野な客ばかりを相手にしているホステスである。その目には、上品さすら感じさせる優雅なその立ち振る舞いが、物語の世界にしか存在しない『紳士』のごとく映ったのだろう。


「…………」


 心なしか頭痛すら覚え始めていたルイーザだったが、そこでさらに事態を悪化させる出来事が起きた。

 ドアベルと共に勢い良く扉が開かれ、常連客のひとりが騒々しく入ってきたのだ。

「ったく、急なクレームとか勘弁してほしいよなあ。もう腹ぺっこぺこ。あ、リュウ! カツカレー、ライス特盛り生卵つきで!!」

 黒白茶のまだらの髪を短く刈り込んだ作業着姿の若者が、店内の空気をまったく読みもせず、大きな声で注文を叫ぶ。

「カツカレー、特盛りに卵追加ですね」

「おう! 超特急で頼むぜ!!」

 にっかり笑いながら親指を立てるその姿に、店中から鋭い視線が突き刺さった。

 え? とそのままの姿勢で凍りつく彼をよそに、ルイーザはそろそろと向かいのフランの様子をうかがう。

「リュウ、さん……?」

「はい、なにか」

 キッチンへ戻ろうとしていたリュウが、名を呼ばれたことで足を止め振り返る。

 斜め後ろ四十五度から恍惚とその顔を見上げるフランの姿は、もはや完全に恋する乙女のそれであった ――



  §   §   §



「……うちの()が迷惑かけて、ほんっとにごめん」

 豊かな漆黒の巻き毛をかきまわしながら、ルイーザが深々と息を吐いた。

 それは謝罪というよりも、自分自身さえもが疲れ困惑しきっているといった風情である。

 頭を下げられた方もまた、どう答えるべきかと、反応を選びかねているようだった。

 ルイーザが、後輩のホステス ―― フランと【Katze】で話をしてから、四日目の午前中。まだ早い時間帯である。夜の商売であるルイーザは、いつもであればもっと遅くに店へ現れるのだが、今日はあえて時間をずらしたらしい。

 折しもリュウは、三階の廊下の灯りが点かなくなったとかで、修理に行っているため店内にいない。

 女主人であるアウレッタと、いつもの常連達を前にして、ルイーザは心底困ったというようにかぶりを振っている。

「まさかあの娘が、あそこまで熱を上げるとは思わなかったわ」

「あー……いや、アンタは悪くないよ」

「そうそう、あいつには決まった相手がいるって、ちゃんと最初に言ってたじゃねえか」

「悪いってんなら、むしろこいつが ―― 」

「って、痛いッスよ! オレ!? オレが悪いんスかッ?」

 客の一人から容赦のないヘッドロックをかけられて、三毛猫の若者 ―― アヒムが悲鳴混じりの声をあげる。

 フランがリュウに一目惚れをしてからこちら、彼女は連日【Katze】へと通いつめてきていた。午後の半ば、ちょうどシルバーが遅い昼食を終えて帰るのと入れ替わるようにして店を訪れ、クラブに出勤する夕方頃まで、いろいろと理由をつけて居座り続けている。そうして大抵はカウンターに陣取って、なんだかんだとリュウに対して話しかけようとするのだった。

 そんな彼女に対し、リュウは新たな客に対する礼儀を保って、そつのない応対をしている。そこには彼女が、ルイーザの仕事仲間であるということに対する、配慮もあるのだろう。リュウにとってルイーザというのは、記憶を失っている間、なにくれとなく世話になった相手であり、今ではシルバーともそれなりに付き合いを持ってくれているという、二重の意味で恩義のある存在なのだから。

 しかしそれがむしろ、ルイーザ当人を始めとした常連達から見れば、歯痒いことこのうえない。

 いっそ以前のように、見えない強固な壁を全身に張り巡らせて、それ以上は踏み込むなと無言ながらもはっきりと主張してみせろ! と。声を大にして言ってやりたいというのが、みなの一致した意見であった。

 今のところはまだ、フランとシルバーが同時に店を訪れたことはない。お互い毎日顔を出してはいるのだが、それぞれのやってくる時間帯が絶妙にずれていることと、常連達がそれとなく二人を会わせないよう、気を配っているからだ。

 しかしそれにも限度というものがある。特に週末にあたる今日明日は、かなりのところ危なかった。いつもならば、ある程度のところで自室へと戻ってゆくシルバーだったが、週末はルディの相手をするため、かなりの時間を店内で過ごす。場合によってはテーブルで端末を広げ、仕事片手に夕食どきまで居続ける日もあった。

 フランが週末をどう過ごすかまでは判らないが、ここ数日のなりふり構わぬ様子を思い返せば、やってこないという希望的観測は捨てたほうが良いだろう。

 つまりこのままでは、確実に今日、二人は直接顔を合わせることとなる。


「……まずいわよね」

「マズイな」

「絶対に、不味い」


 それ以外の意見が出てこない。

 具体的にどんな事態に陥るかまでは予測できないが、絶対に何か、ややこしいことになるのは目に見えていた。

 アウレッタと客達は、額を突き合わせるようにして唸り声を上げる。

「ってか、あのフランとかいう女、オーナーのこと知ってんのか?」

「最初に言ったわよ。リュウにはちゃんと相手がいるって」

「いや、そうじゃなくて」

 住人のひとりが手首から先を振って、ルイーザの言を否定する。

「そもそも、この店 ―― というより、うちのアパート全体の家主が人間(ヒューマン)で、しかもここの真上に住んでて、店にも頻繁に顔を出してるって。まずそこのところを判ってんのかって話だよ」

 基本中の基本を指摘されて、一同がはたと顔を見合わせる。

 確かに、今でこそすっかり馴染んでしまっているが、最初にシルバーがここへ引っ越してきた当座は、それはもう大変な騒ぎになったものだった。店に人間(ヒューマン)が現れるというので、一時(いっとき)は客足が盛大に遠のいたし、当然売上にも影響が出た。

 一見客など、店の扉を開けた瞬間に回れ右する者が続出し、上階の住人や常連の中でも何人かは、まったく顔を出さなくなっていた。

 その後、人望の厚いドクターの取りなしや、様々な騒動を経て ―― なによりも、シルバーの不器用ながらも誠実な人となりが知られてゆくにつれ、じょじょに客も戻ってきはしたのだが。

 それでも、あれきり二度と見なくなった顔も、けして少なくはなかったのである。

「……そう言えば、そこらへんは話してない、かも」

 ルイーザが、手のひらで口元を覆いつつ記憶を辿っている。

 下手に刺激してはまずいだろうと、リュウのお相手について、具体的なことはまったく教えていない。住まいを知られるのもまずい気がして、彼が人間と二人、店と同じ建物内にあるペントハウスで同居していることも伏せている。

 そしてリュウ本人が、まだろくに気心も知れていない新しい客へ、そんな個人情報を洩らすとは考えられず。

「この界隈では有名な話だから、普通ならそろそろ耳に入ってると思うんだけど……」

 ルイーザの物言いは、かなりのところ懐疑的だった。

 なにしろフランは、脇目もふらず真っ直ぐにこの店へとやってきて、店内に入ってからもカウンターへと一直線。リュウがよほど忙しくしている場合は稀にアウレッタを通して注文する場合もあったが、まあたいていは少しぐらい待たされてもリュウに声をかけるチャンスをうかがい……そしてリュウ以外には、一切注意を向けようとしないのだ。その隠そうともしない執着ぶりは、いっそあっぱれとさえ言える。

 唯一の例外は、職場の先輩であるルイーザが、見かねて割って入った場合だけという具合だった。

「おいおい、そりゃヤベエどころの話じゃねえんじゃないか」

 ゴウマが苦虫を噛み潰したような表情になった。

人間(オーナー)に気兼ねして、もう来なくなるってんなら話は早いが……」

 意味ありげに切られた言葉に、背の高い禿頭(とくとう)の男が眉をひそめる。

「まさか、『あの晩』のようなことに、なるとでも」

 浅黒い肌にはめ込まれた、針のような瞳孔を持つ目が、一同を見わたす。

 夜間警備員をしているニシキヘビのジグは、出勤時間の関係上、店を訪れるのは閉店間際であることが多い。同じくラストオーダーに合わせて夕食を摂るシルバーとの遭遇率は高いが、いま話題になっているホステスとは、完全に時間がすれ違っている。なのでまだ、噂でしかその存在を知らないのだが。

 ……逆に言えば、噂を聞いただけでも危機感を覚えてしまうほどに、彼女の振る舞いは常連達の間で話題に上っている、という良い証拠でもある。

「いくらなんでも、いきなり手荒な真似は、しない……わよね?」

 言っている途中で不安になってきたのか。アウレッタが誰にともなく、問いかけるような形で語尾を上げる。


「…………」


 全員の脳裏に思い浮かんでいるのは、リュウがコックスカーフの下に隠していた、首輪の存在が明らかになった『あの晩』のことだ。

 あの夜の【Katze】は、口コミで集まった一見の客達であふれていた。リュウ自身の人となりや、すでに引っ越してきて三ヶ月が過ぎていたシルバーの存在など、まったく知りもせぬ赤の他人がほとんどを占めていて。

 しかも時間帯的に、アルコールが入っている者も多かった。そんな中で、いきなり予備知識もなく『人間』に頭を下げる『首輪付き』の姿を目にした結果、なかば恐慌状態におちいったあげくに刃傷沙汰を引き起こしたあの男の心情は……まあ、同じ獣人種として、まったく理解できない訳ではない。そしてあの事件が起きたからこそ、シルバーとリュウの関係が明らかになり、芋づる式にリュウの記憶が戻るきっかけとなったと思えば、結果オーライと言えなくもなかった。

 それでも、

 なんら落ち度のないシルバーが ―― しかも獣人種(リュウ)をかばって ―― 一方的に重傷を負わされたあげく、何週間も不自由な生活を強いられたことは、常連達にさまざまな感情を抱かせた。

 キメラ風情がと家畜呼ばわりし、こちらを一方的に蔑んでくる人間(ヒューマン)達。だがそんな人間達を、『人間』だからと言って、ひとくくりにまとめて(うと)んじている自分達は、彼らと同じ穴の(むじな)ではないのか。はたして違うと、胸を張って断言できるのか、と ――

 そんなふうに思い、先入観に曇りがちな(まなこ)を開く努力をしたからこそ、いまこの店に出入りする常連客達は、人間であるシルバーに対しても、それなりに良好な関係を構築できているのだが。

 しかし、あのフランというホステスが、同じような結論に達せるかどうかを考えると……


「やべえ、すっげえ不安になってきた」

「どうする。まずはオーナーの方に、それとなく忠告とかしといた方が良いかな?」

「いったい、なんて説明するつもりよ。リュウに言い寄ってる女がいるとでも? そんなこと、言える訳ないじゃない!」


 なにしろ相手は、決まった相手がいると聞いてもなお、気にもせずに通いつめてくるような性格である。あの様子では下手をすると、好きにさせた方が勝ちですよ、ぐらいは言い出しかねない。

 もちろん、それで揺らぐようなリュウだとは、誰一人として思ってはいないのだが。

 しかしだからと言って、下手に放置しておけば、いったい何がどうなることやら。

 どんどん嫌な予感が増してきて、一同が表情を暗くする中、ドアベルがからんと場の空気にそぐわぬのどかな音を立てた。

 全員がはっとそちらを振り返ると、腕まくりをして脚立を小脇に抱えたリュウが、入ってくるところである。

 彼はそのまま一歩脇へ避けて、ドアが閉まらぬよう押さえていた。

 後ろへ続くように扉をくぐったのは、嬉しそうな笑みをたたえた、話題の女性 ―― レトリバーのフランである。修理を終えて降りてきたリュウと、ちょうど玄関ホールで行きあったのだろう。週末のせいか、いつもよりだいぶ早い来店だ。


「リュウさんって、アパートの方のメンテナンスとかもしてらっしゃるんですか?」

「ええ。それも仕事の一環ですので」

「こんな広いお店を、女将さんと二人だけで切り盛りしてるってだけでもすごいのに、そんなことまでお仕事だなんて、大変でしょう!?」

「別に、たいしたことではありませんよ。本当に忙しい時は、馴染みのお客様など、それとなく気を遣って下さいますし」

「リュウさんの人徳、ですね」


 目を輝かせながら見上げてくる金髪美女を、リュウは丁重な物腰で店内へと導く。

 まるでどこかの淑女かお姫さまのような扱いを受けて、フランは頬をピンク色に染めていた。うっとりとリュウを見上げるその足元が自然おろそかになり、次の瞬間、何かにつまづいたのかバランスを崩す。

 小さく悲鳴を上げてよろめいた彼女を、リュウは空いた方の手で反射的に支えた。

「ご、ごめんなさいっ」

 ほどよく筋肉がついたその腕を、抱え込むような姿勢でフランが謝る。

「…………いえ」

 低い声で返答したリュウは、フランを元通りに立たせると、まるで熱いものに触れた時のように、素早く距離をとった。

「失礼。―― 私は、これを片付けてきますので。どうぞお席へ」

 表情を隠すようにうつむくと、わずかに固くなった口調でそう告げる。

 そうして足早にカウンター脇の出入口に向かい、関係者用のスペースへとその姿を消した。通り過ぎざまに一瞬だけ、常連とアウレッタに視線を向け会釈してゆく。が、手のひらで口元を覆うようにしていたため、どんな顔をしていたのかまでは、見て取ることができなかった。

 そんなリュウの後ろ姿を、フランははにかんだ笑顔で見送っている。彼女の目には、店内で身を寄せ合うようにして固まっている常連達の姿など、まったく映っていないのだろう。リュウが見えなくなったあとは、弾むような足取りでカウンターに並ぶスツール席へと歩いていった。


「……ったく、冗談じゃねえぞ」


 一連のやり取りを見ていたゴウマが、頭を抱えて嘆息する。

「取っつきやすくなるのにも、限度ってもんがあるだろうがよ」

 忌々しげにため息を落とす。

 記憶を取り戻したことでが性格が一変し、リュウは格段に付き合いやすくなった。口数が増え、物腰が柔らかくなり、感情表現もずっと豊かなものに変化した。おかげで気軽に雑談に興じられるようになったあたりなどは、まったくもって歓迎すべきなのだが。

 それでも多少は相手を選べと。今はつくづくそう思った。


「とりあえず、まずはあの()からってことで決まりね」


 シルバーが、遅めの朝食を摂りに降りてくるまで、あと三十分というところだろうか。

 それまでの間に、彼女という人間(ヒューマン)が、この店へ頻繁に出入りしていること。このビルの家主(オーナー)である彼女は、けして傲慢に振る舞う『人間』ではなく、常連達とも友好的な付き合いを続けていること。だからフランも好意的になれとまでは言わないが、失礼のない態度を心がけること。この三点だけは、くれぐれも言い聞かせておかなければならない。


「それもこれも、気のまわし過ぎだったって笑い話になりゃあ、それが一番なんだけどさ」


 苦笑交じりに混ぜっ返そうとするアヒムの横で、アウレッタは一人、他の客達とははどこか違う表情を浮かべていた。そうしてスツールに座るホステスと奧への出入口を、交互に見比べては、なにやら渋い顔つきをしていたのだが。

 そんな彼女の様子に気がついた客は、その時は誰ひとりとしていなかったのだった。

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