プロローグ
【crack-pot(cráck・pòt)】
1.(文章)壊れた鍋、罅の入ったポット
2.(名詞)風変わりな人・もの
3.(形容詞)途方もない、常軌を逸した、気の狂ったような
プロローグ
薄暗い洞窟の天井に、大きな穴が空き、そこからスポットライトのような光が降り注いでいた。
ごつごつとした岩壁に囲まれて、光のなか浮かび上がる影は、ふたつ。
ひとつは、場にそぐわぬ派手やかな衣装をその身にまとい、人相も判らぬほど厚い化粧を施した、道化師の姿。
そしていまひとつは ―― 巌を思わせる、こんもりとした銀色の塊。
白塗りの面差しに真っ赤な唇を大きく描いたピエロは、恐れる様子もなくうずくまる巨体を間近から見つめる。
そうして、甲高い声で話しかけた。
『どうやら、調子を取り戻したようで、良かったよ』
その声質はどこか金属的な印象を感じさせ、この人物の年齢はおろか、性別すらも判断することはできない。
『……調子、とは?』
道化師とは対象的な、重厚な響きが発せられた。
塊の一部がゆっくり動き、その一部がずるりともたげられる。
その塊は ―― とぐろを巻いた、一頭のドラゴンであった。長い体躯に豊かな鬣と枝分かれした二本の角。短い四本の足先には鋭く光る鉤爪を備えた、旧世界における東洋と呼ばれた地域に伝わるフォルムをしている。
わずかに身じろぎをするたび、全身を包む銀色の鱗が美しくきらめいた。その胴回りは、大人が両手を回せるかどうかというところ。とぐろを解いて身体を伸ばせば、全長は優に20mを超すだろう。
持ち上げられた頭は、まっすぐに立つ道化師のそれよりわずかに高い位置で固定された。合わされたその視線が、凍るように冷たい氷蒼色をたたえている。
かすかに開いた口からのぞく、太く長大な牙。
しかし道化師は慣れたように、恐れる様子もなくそれらを見返している。
『最近のキミが組むプログラムは、なんというか、余裕というものに欠けていたからね』
そんなふうに言って、大仰に両肩をすくめてみせる。
『……出来の悪いものを、納品した覚えはないが』
腹に響く重低音が、そう答えを返した。
応じて道化師は、うんうんと上半身すべてを使ってうなずく。
『確かに、出来は悪くなかったよ。どの品も注文通りで、とてもきっちり、細部まで作り込まれていた』
そこで一度言葉を切り、意味ありげに目を細める。
コウモリを模したアイシャドウの奥で、小さな緑色の瞳が光っていた。
『でもね、それだけじゃあつまらないじゃないか。遊び心ってものが、まるで感じられないからね』
『遊び、心……?』
訝しげにドラゴンが繰り返す。その頭部が、わずかに斜めに傾けられた。
そんな反応に、道化師はくすくすと笑う。
『判っていないなら、それでもいいさ。天才とはいつだって、無自覚に高みにあるものだからね』
『…………』
『〈黄金の塵〉は、そういう意味で正しく天才だった。あの人は、自分が作るものの価値をまるで理解していなかったけれど。それでもそのプログラムの美しさも、発想も、すべてが別の次元にあった。ひと目そのコードを眺めれば、どんな駆け出しでさえ内容を理解でき、誰もがこれ以上のものは作れないと自ら敗北を悟る。どこまでも完璧でありながら、なおもそこに漂う、そこはかとない遊び心! あれこそがまさに、プログラマーの王 ―― いや、神の創造物と称するに相応しかった!!』
道化師は芝居がかった仕草で両手を広げ、闇に沈む天井を仰ぎ見る。
わざとらしいその言葉や身振りには、しかしどこか熱狂的とも呼べるほどの真意がこめられていた。
そんな他者への賛辞を、ドラゴンは感情の伺えない、しかしどことなく満更でもなさそうな雰囲気をまといながら聞いている。
『だから、ね』
かくん、と。
作り物めいた動きで顔を戻した道化師が、血のように赤い口唇をニィと吊り上げた。
『もしもキミがあのまま、つまらないシロモノを世に出し続けるようであれば、潰してしまおうかとも思っていたんだけど』
浮かべられているのは、紛れもない笑顔であるはずなのに。
何故かそこには、狂気にも似た危険な気配が秘められている。
『仮にもあの人の後継者を名乗ろうというのなら、それだけの実力を備えていてもらわないと。そうでなければ、あの人の名や功績まで汚されてしまうだろう?』
『…………』
ドラゴンはただ、黙したまま答えない。
『キミに何があったのかは訊かないよ。キミの私生活になんて、興味はないからね。たとえ〈Lunufis〉の権利が売りに出されようと、キミがどこに住まいを変えようと、そんなことは些事に過ぎない。あれをより優れたものに作り変えられるプログラマーが存在するとすれば、それはこの世にキミだけだろうし、どこであってもこうして電脳回線に繋がる場所にいてくれるのなら、それで充分。何の問題もありゃしない』
『……ああ、その通りだ』
ようやく言葉を発したドラゴンに、今度はにっこりと裏のない笑顔が向けられた。
『ともあれ、復調おめでとう、〈銀の塵〉。これからもその名に相応しい作品を生み出していってくれることを、ボクは心から願っているよ』
『覚えておこう、〈宮廷道化師〉』
かつての旧世界において、時に絶対者たる主君にさえも直截かつ辛辣な物言いを許された、既存の枠を逸脱する者。この世の掟の埒外にある存在。
自らをそう称する人物は、胸に手を当てて深々と一礼した。
『ご注文の品は、できるだけ早くお届けできるよう、手配しておくよ。では、今日のところはこれにて』
頭を下げた姿勢のまま、道化師は足元からじょじょに薄くなってゆく。
やがて、
闇の中に溶け消えたその姿を見送ったドラゴンは、しばし何かを黙考するように、頭部を揺らめかせていた。
が、それ以上はなにもすることなく。元の通りに頭を下ろすと、ゆっくりと両の目蓋を閉ざす。
その巨体が、少しずつ形を崩し、光の粒子に変わり始めた。
いや、さらさらとこぼれ落ちるそれは、銀色の塵 ―― もとい灰に他ならない。
すべての灰が、あるかも定かではない風に流され、消えたあとには、
ただ冷たい岩肌に降り注ぐ、一条の光が残るばかりで……




