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鵺の集う街で  作者: 神崎真
後日談 ... A kindness is never lost.
18/95

後編

 暑さと埃を避けるために開けていた窓から、気持ちの良い風が吹き込んできた。

 誰ともなく窓の外へと目をやり、降り注ぐ陽光に目蓋を細める。

 と ―― リュウが突然、失礼と断って立ち上がった。そうして足早にドアから廊下へと出てゆく。いったいどうしたのかと見送っていると、ジグが壁沿いに顔を動かし、やがて屋上に面した窓の方を向いた。

 ニシキヘビの遺伝子を持つジグは、視力があまり良くない代わり、ピットと呼ばれる器官で赤外線を感じ取ることができる。元々の蛇よりもさらに強化されたその能力は、暗闇どころか壁の向こう側にいる生き物の、わずかな体温さえも判別してのけた。警備員としてやっていくのに、これほど便利な能力はあるまい。

 そのジグの視線を追って腰を浮かすと、リュウが屋上に現れるのが窓から見えた。

 屋上の一角には建物全体をカバーする給水設備や発電機が設置されているが、残されている空間も充分に広い。日当たりの良いそこには物干し台もあって、今は明るい日差しの中で洗濯物がそよいでいた。さすがに下着などは干されていないものの、タオルやシーツといったリネン類がはためいている。

 目に眩しいほど白いそれらをかき分けて、リュウは不安定に揺れている一枚へと手を伸ばした。

 どうやら風にあおられて、きちんと留められていなかったものが飛ばされかけたらしい。

「……お日様で干したシーツって、贅沢だなあ」

 アヒムが羨ましそうに呟く。

 今どきのこのあたりでは、洗濯物の乾燥など機械に任せるのが主流だ。集合住宅では干す場所もないし、下手に外に出しなどしては、誰に持っていかれるか知れたものではないからだ。洗濯機があれば自宅で、なければコインランドリーで。陽光の匂いを楽しもうというのなら、せいぜい窓から日が差し込む時間帯を狙って、枕を干すぐらいが精一杯。

 これもまた、最上階のペントハウスならではの贅沢といったところか。

 ふかふかであろう彼らの今夜の寝心地を想像していたゴウマが、ふと気がついたように眉をひそめる。

「……って言うか、なんであいつの方が良い部屋使ってるんだよ」

 現在彼らが屋上を眺めているリュウの寝室は、表通り側にも窓がある、いわゆる角部屋。通気性や採光性に恵まれた、このペントハウス内で最も居住性の高い一室だ。南東に向いているため、強すぎる西日に悩まされることもないし、また反対側の角部屋はリビングという名の共有空間である。浴室やトイレともほどよく距離があるので、他人の生活音に煩わされる心配もないだろう。

 最初に引っ越し荷物を運び込んだ時は気づかなかったが、シルバーは寝室としてこのひとつ隣、両脇を部屋に挟まれ、ほぼ正面には浴室へのドアとトイレへのそれが並んでいる部屋を選んでいる。どう考えてもそちらの方が、住み心地は悪いはずだ。

 あの段階で、このペントハウスにリュウが引っ越してくる可能性は、果てしなく低かった。それでもなお彼女は、わざわざ住みやすい部屋を彼のために空けておいたというのか。

「あー……それこそ、洗濯物が見えるからだとか言われても、オレもう驚かないかもしんないッス」

 アヒムが乾いた声で笑った。

 たとえそれが、どれほど低い可能性であったとしても。それでももう一度最初からやり直すという夢を、どうしても彼女が捨てきれずにいたというのなら。

 仕事部屋の窓を、惜しげもなくラックで塞がせてしまった彼女のことだ。窓の有無など、そう気にしたりはしないのだろう。むしろ陽光がモニターに反射して見辛いし、それなら読書を趣味とするリュウの方が明るい部屋を使うのが道理だろうとか、無表情で淡々と口にする姿が容易く思い浮かんだ。

「あ、それに、もしかしたら……」

 ふ、と。

 何かを思いついたように、アヒムは顎に手をやった。琥珀色の目を瞬かせながら考え込むその様子を、ジグとゴウマが不思議そうに見守っている。



 特に急がずのんびり進めた引っ越し作業は、それでも夕方になる前にはおおむね終了した。

 細かい部分は、これからリュウが自身で生活しながら調整していくしかない。一同は空になった箱を畳んで重ねると、連れ立って玄関へ向かった。この空き箱はいちおう、住人の誰かが必要になった時に備えて、物置に戻った元の部屋へ放り込んでおく手はずになっている。

 リュウがリビングの隣にある仕事部屋を覗き込み、声を掛けた。すぐに車椅子の軋む音がして、訪れた時と同じように、シルバーが現れる。

「 ―― 世話になったな。助かった」

 相変わらず無愛想な物言いで、表情もほとんど変化しない。

 しかし彼女の言葉に嘘はひとつもないのだと、理解できてきた目で見てみると、その態度自体がどこか不器用な子供のそれのように思えてくるのだから、不思議なものである。

「約束通り、明日の夕食代はこちらで負担する。好きなものを好きなだけ食べてくれ」

 そんなふうに続けるシルバーへと、アヒムがおずおずと話しかけた。

「あ、あの、もし良かったら……なんスけど」

 いくら打ち解けつつあるとはいえ、それでもドクターやルディ以外のキメラ達が、リュウを介さず直接話しかけてくるのは珍しい。意外げに首を傾げて見上げてくるシルバーと視線を合わせるように、アヒムは膝を曲げて姿勢を低くする。

 そうして手を動かして、奥へ伸びる廊下の壁を指し示した。

「このへんとか水回りとかに、手すり、つけてみませんか」

 指先で腰丈のあたりをまっすぐになぞる。

「……手すり?」

 ことりと首が逆方向にかたむけられた。

「えっとですね、介護用の……足腰の弱ったお年寄りとかがよく使う商品で。けっこう便利なんですよ」

 ほら、ドクターの診療所にもトイレとか浴室とかにあったっしょ、と説明されて、ようやく具体的なイメージが思い描けたようだ。

 確かにベッドの両脇に付いていた曲がったパイプは、単に上掛けが落ちないよう保護するだけではなく、立ち上がる際に身体を支えるのにちょうど良い位置と形状をしていた。他にも廊下やちょっとした段差部分、足腰を曲げる必要がある場所には、必ず手の届く範囲に掴まることのできる箇所が用意されていた。そのあたりは、さすがに診療所の名を冠する施設だけあって行き届いている。

「ああいったものは、後付けできるのか」

 建物を設計する際、最初から組み込まれているのではないのかと問うてくるシルバーに、アヒムはぶんぶんと首を左右に振る。

 内装工事を主とする作業員の彼は、普段から仕事でそういった設備の取り付けも行っていた。

「後から付けるほうが、全然多いッスよ。人生、いつ何が起きるか判りませんからね。ケガとかしても、キメラってあんまりちゃんとした治療受けられなくって、後遺症が残ることも……っ、ってあ、いやその」

 勢いで余計なことまで言いかけて、アヒムは思わず口元を手で覆う。

 人間にいらぬ愚痴を聞かせてしまったかと焦るのをよそに、シルバーとリュウは真剣にその提案を検討していた。

「……良いかもしれませんね。特にトイレと浴室には必要でしょう」

 リュウがそう言えば、シルバーも間を置かずに肯定する。

「そうだな」

 廊下に並ぶドアへと視線を投げて、小さくひとつうなずく。

「これからは、転ぶたびにお前を呼ぶ訳にもいかんし」

「……そこは呼んで下さい。動けなくなったらすぐに。この前みたいに、一時間も洗面所で座り込んでいられては体調を崩します」

 大真面目に言い聞かせるリュウに、しかしシルバーはかぶりを振る。

「いや、あの時間帯はランチタイムで忙しかっただろう。どうせ二時には、昼食を持ってく」

「呼びなさい。可及的、すみやかに」

 低い声が、被せるように言葉尻を奪った。

 有無を言わさぬその口調に、聞いていた三人は思わず身をすくめる。

 左右色違いの瞳が、わずかにすがめられて、まっすぐにシルバーを見つめていた。


「…………」


 数秒室内に落ちた沈黙に、誰かが耐えられなくなるよりも早く。

 ふとリュウが視線を動かし、アヒムの方を振り返る。

「その手すりとやらには、どういった種類があるんですか。あと価格なども教えていただけると助かります」

 緊張から解放されたアヒムは、ほっと息を吐いて身体に入っていた力を抜いた。

「あ、ああ……えっと、それじゃあ、今度カタログ持ってくるよ。工務店通さずオレが取り付けやれば、部品代だけで工賃は安く上げられるしさ」

「お願いします。どうせなら外廊下にも、玄関からエレベーターまで付けてあれば、いざという時に役に立つでしょうし」

 ワンフロアを丸々占めているうえに玄関が階段側よりにあるこのペントハウスは、地味にエレベーターまでの距離が長い。それでも階段を使うよりはずっとましなのだが、シルバーの足にかかる負担が少しでも軽減されるならありがたい。

 アヒムはこくこくとうなずいた。

「オッケ。できるだけいろんな種類のを探してみるよ。せっかく広い部屋に住んでんだから、オーナーだってちゃんと隅々まで使いたいだろうしさ」

 その言葉に、リュウとシルバーがそろって目を見開いた。

 やがて ―― リュウがふわりと柔らかな笑みを浮かべる。

「お気遣い、ありがとうございます」

 それは記憶を取り戻してから常にたたえている、穏やかではあるけれど、どこか内面を覆い隠すような微笑みではなく。心の底から自然に浮かんだのだろうと思える、明るく屈託のない笑顔だった。

「え、まあ。うん」

 あまりにも真っ直ぐな感謝を向けられて、アヒムは照れくささを隠すように頬を掻いた。

 先刻彼がうすうす察したように、シルバーがもっとも居住性の高い屋上側の角部屋を自室に選ばなかったのには、合理的な理由が存在していた。もちろんリュウの方がその部屋を使用するのに向いた生活スタイルをしているというのもあったが、なによりも最大の理由は、そこが『玄関から最も遠くに位置する』部屋だったからなのだ。現在は物置にあてている、向かいの空き部屋もそう。

 彼女がこれまで使っていたのは、玄関から近い順にリビングダイニング、仕事部屋、寝室。あとは生活上どうしても必要な水回り部分だけ。それはできるだけ移動距離を少なくしたかったからに他ならない。

 足が不自由でありながら、一人暮らし。近所に頼れる相手すら存在せず、人間用の救急車はキメラ居住区になど呼んでも来てはくれない。そんな彼女にとって、自宅で転倒し動けなくなるという事態は、即致命的な結果に繋がりかねなかった。

 もちろん、本当にどうしようもなくなれば、ドクター・フェイに連絡を取って、助けを求めただろう。しかしこの数ヶ月間に、ドクターがペントハウスに呼び出されたことがあったとは、誰も耳にしていない。だからと言って、シルバーが一度として室内で転ばなかったのかと問われると……先ほどのリュウとのやりとりを聞く限り、かなりのところ怪しく思えてくる。


「あー、あの、な。オーナー」


 ゴウマがやりにくそうに咳払いしながら言葉を挟んだ。

「なんつうか、その……どうしてもリュウの手が離せねえようなら、そんとき店にいる誰かが代わりに対応するからよ。なんかあったら、連絡ぐらいはしてやってくれや」

 自宅でも常に、何かしらの端末を一つは携帯している彼女だ。意識を失いでもしない限り、連絡ぐらいは取れるだろう。

 いつも通りに食事を届けたり帰宅をしてみたら、いきなり倒れている彼女を発見するなど……そんな事態に陥った場合に、リュウが受けるだろう衝撃を想像してみるだに恐ろしすぎる。

「常連や住人の中には、ちゃんと女の人もいますし。男じゃちょっとって時はそう言ってもらえれば、人選は考えますから」

 ほら、ルイーザさんとか、スイとかアンヌさんとか、と。

 アヒムが横からそうフォローする。

 確かにトイレや入浴中に動けなくなった場合、人間とかキメラとか言った区別をするそれ以前に、特別親しくもない異性の世話になるのは嫌だろう。

 口々に説得する二人の横では、青灰と金茶の瞳が無言でじっと見すえている。


「…………」


 シルバーは、やがてこくりとうなずいた。

「 ―― 判った。その折りは、手を借りるかもしれん。よろしく頼む」

 小さく頭を下げる。

 その返答に内心で胸を撫で下ろしたのは、けして彼女の身を心から案じるリュウばかりではなく ――



   §   §   §



 物置までついてこようとするリュウを玄関でとどめ、三人はダンボールの束を抱えて階段を降りていった。

「……リュウって、実はけっこう遠慮ないですよね……」

 あんな奴だったんだ、とアヒムがしみじみ呟く。

 記憶を失っていた一年余り。人間はもちろんのこと、キメラが相手であってさえ、ほとんど心を開こうとしなかった銀狼の青年。常に気配を殺すようにしていて、交わす言葉は必要最低限。表情すらもが滅多に動かないうえ、顔自体が半分以上前髪で隠されていた。それ故に、一年以上の付き合いを経てもなお、彼に対する周囲の印象は、どこか得体の知れない、取っつきにくい人物というものが大半だった。

 それがどうだ。たった二年分の記憶を取り戻しただけで、あの変わりようだ。

 彼がシルバーと出会い、過ごした二年間とは、いったいどのような時間だったのだろう。あれほどの『ヒト』嫌いだった男が、どこをどうすれば現在のように、他人を思いやり、それゆえに叱責までもできるようになるのだろう。

 そしてそれを成し得た、シルバーとは。

「オーナーは、なんかこう、ちょっと……可愛い、かも?」

 いつの間にか、傲慢で尊大で無愛想な女主人という当初の偏見は、すっかりくつがえっている。代わりに生まれたのは、他人と付き合うことがいささか苦手な、けれどどこか押しに弱くて不器用なところのある、本質は愛情深い女性、といった感じのイメージだ。

「可愛いって、お前なあ……」

 仮にも年上の、しかも人間(ヒューマン)を相手に何を言い出すのかと。呆れるゴウマもまた、強くは否定しきれないようだ。

 長い腕で一番多くの荷物を持っているジグが、重々しい仕草で頷いた。

「……リュウが、うらやましい」

 普段あまりそういったことを口にしない彼の発言に、ゴウマはぽかんと口を開けてかなり上にある顔を見上げた。浅黒い肌を持つ禿頭(とくとう)の大男は、至極真面目な表情を浮かべている。

 数度物言いたげに口を開閉させたゴウマは、しかしもろもろを飲み込んだのか。小さく息を吐いて肩を落とした。

「まあ、な。確かに俺も、あの人が新しいオーナーで良かったと思うよ。いやマジで」

 数ヶ月前。

 この建物が人間なんぞに買い取られたという知らせを聞いた時、感じたあの不安はもう、欠片も残っていない。それは新しく家主になったのが、他でもない彼女であったからだ。本来買い取る予定であったという、キメラの闇組織が相手でも、あるいはもっと別の人間が相手であっても、今頃はこんなふうに落ち着いた気持ちで引っ越しの手伝いなど、できてはいなかっただろう。

 シルバーがこの建物を買い取ったのは、ここにリュウが住んでいたから。

 そしてリュウがここに住んでいたのは、記憶を失い大怪我を負った彼を、アウレッタが見つけて拾い、見捨てることなく面倒を見ていたから。そして住人や常連達もまた、協力して彼の居場所をここに作ってやっていたからだ。

 それを思うと、何やら感慨深くもある。


「情けは人の為ならず。巡り巡って己が為ってのは、こういうのを言うのかねえ」


 リュウを助けた住人たちは、シルバーによって救われて。

 そのシルバーもまた、リュウによって救われている部分があるのだろう。

 もちろんのこと、リュウのあの変わりようを見れば、彼女との出会いが彼の心身を救ったことなど疑いようもなく。


「まあ、これからは御近所さんとして、相身互いに助けあっていくってことだな」

「ですね」

「ああ」


 それぞれにうなずいて。

 そうして三人はこれからの明るい未来を想像し、互いに笑みを交わし合ったのだった。



    〈 鵺の集う街で 第一話 後日談 終 〉

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