表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鵺の集う街で  作者: 神崎真
鵺の集う街で
14/95

第十二章 プライベート・パーティ

 その日のカフェレストラン【Katze(カッツェ)】の扉には、夕方から『貸切中』の札が掲げられた。

 普段は20時にラストオーダーで21時に閉店する店だが、今日ばかりは関係者以外の客達に、18時まででお引取りを願う。

 とは言え、その『関係者』には、上階の住人と顔馴染みの常連達の多くが名を連ねているため、実質的にはほぼ通常営業日と変わらない客層ではあったのだが。しかもみな遠慮のない、ほぼ身内のような間柄だ。女性陣は料理に、男性陣は椅子やテーブルの移動にと、互いに指示を出しあい、要領よく準備を整えてゆく。

 いつもは早いうちに叔母と連れ立って自宅へ戻るルディも、この晩だけは居残りを許され、小さな身体で一生懸命に手伝っていた。

 そうして、19時ちょうど。

 普段よりも一時間ほど早い頃合いに、主役達が現れる。

 ドアベルの音に振り返った一同は、ある種予想を越えた二人の格好に、それぞれの手を止め思わず見入ってしまっていた。


「…………こんばんは」


 珍しく襟にフリルがあしらわれたごく淡いピンクのシルクブラウスに、細いチョークストライプの入っている、限りなく黒に近いダークグレイのパンツスーツ。集中する視線を受けてしばらく無言でいたシルバーは、やがてなにかに背を押されたかのように、わずかだが首を動かして会釈する。

 彼女が片手で扉を押さえているのを見て、ルディが急いで駆け寄っていった。

「こんばんわ、シルバー!」

 元気よく挨拶を返しながら、全身で扉を押して、それ以上閉じないように支える。

 負担から解放されて、シルバーはほっと小さく息を吐いた。 ―― リュウの腕の中で。

 彼女はリュウの胸元に、両手でしっかりと横抱きにされていたのである。


「お任せしてしまって、申し訳ありません」


 当のリュウはと言うと、まったく当たり前のようにシルバーを抱き上げたまま、店内をぐるりと見わたした。柔らかく微笑みながら頭を下げる。そこに照れや気恥ずかしさのようなものは、まったく感じられない。

 主賓の片割れだからと宴の準備を免除されたリュウは、早々にいったん店を出て、最上階のペントハウスまでもう一人を迎えに行っていた。どうやらそこで衣服なども整えたらしい。地味なスラックスにサイズのあっていないよれたシャツの上から、紺色のコックスカーフと麻のエプロン ―― といった、いつもの出で立ちとは、まるで様変わりしている。

 スリムなラインのブラックジーンズに長袖の黒いサマーニット。一見するとむしろ地味な取り合わせだ。しかしそのシンプルさが、逆にリュウの長い手足や均整のとれた身体の線を、余すところなく強調していた。髪や肌といった全体の色彩が薄いためぼやけがちだった印象も、おどろくほど引き締まって見える。

 伸ばしっぱなしに洗いっぱなしでばさばさになっていた頭髪も、しっとりと艶が出るまで櫛を通したうえ、整髪料で前部を持ち上げ後ろに流していた。(ひい)でた額と筆で描いたような眉、そして長い銀色の睫毛に縁取られた、青みがかったグレイの右目と褐色を帯びた金色の左目があらわにされている。

 整いすぎた顔立ちと色違いの瞳のせいで、作り物めいた近寄りがたさすら感じさせる容貌であった。

 しかし自然な形で額へかかる数本の後れ毛が完璧さを崩し、さらに穏やかな微笑みがそこへ親しみやすさを添えている。

 総じて、普段の野暮ったい姿からは想像もつかない色男ぶりであった。

 事実女性陣のうち何名かは、いささか興奮気味に顔を寄せ合い、ささやき交わしている。が、当の本人はまったく気付いていないようだ。扉を支えるルディに礼を言って、店内へと足を進めてくる。

 一人にやにやと笑いながら、ドクター・フェイが椅子の背を引いた。リュウはその席へと、丁寧な手付きでシルバーの身体を下ろす。

「退院したとは言っても、まだ完全に腕が治ったわけじゃないからな。杖は当分お預けだ」

 フェイにそう説明されて、一同はようやく横抱きでの登場に得心が行った。

 左足が不自由なシルバーは、杖を右手で使用している。しかも前腕にU字型のオープンカフと呼ばれる支えをはめて、持ち手を握る手のひらとの二ヶ所に分散して体重をかけるタイプだ。この杖は握力の弱い人間でも扱いやすいという利点があるのだが、今回の場合は塞がったばかりの傷をカフが圧迫してしまうせいで、二重に使えなくなっている。

「……一人で動けるようになるまでは、三食とも上まで届けてもらうことになるな。手間をかける」

 さすがにこの状態で、毎回送り迎えさせる訳にもいかない。無表情ながらもどこか残念そうに思っているのが伝わってくるシルバーの様子に、アウレッタだけでなく他の常連達もそろって気にするなと首を振った。

「ねえねえ、シルバー。週末のぶんのお昼、オレが持ってっても良い?」

 後ろをついてきたルディが、上体をひねって腰掛けたシルバーを覗き込む。馴れ馴れしげなその物言いに、気弱なところのある叔母(あね) ―― アンヌが、ひっと小さく喉を鳴らした。良いヒトなんだよ、とルディからしばしば話を聞かされてはいても、当人と直接顔を合わせた経験は、まだあまりないのだ。

「でもって、いっしょに食べよ。オレ、シルバーんち、行ってみたい!」

「別に、興味を引くようなものなど何もないが……来たいというのなら、前もって連絡をくれれば、時間を調整しよう」

 食事時でなくとも訪れて構わないと暗に言われ、ルディは歓声を上げる。

 相変わらず己の欲求に向かって一直線で怖いもの知らずのルディに、アンヌは脈打つ心臓を押さえて荒い息を吐いている。既に二人のやりとりを見慣れている面々も、さすがに冷や汗を禁じ得なかった。

 一方、シルバーの隣に座ったリュウの横で、ルイーザが興味深げにその服をひっぱっている。派手な外見から抱かれがちな印象の通り、夜の店で働いている彼女は、他人が身につけているものに関しても敏感な目を持っている。

「ちょっと、これすっごく上等な生地使ってるじゃない。肌触りは抜群だし、仕立ても良いし……それにこのデザイン!」

 人差し指をニットの襟に軽く引っ掛ける。伸ばし過ぎないように遠慮こそしているが、その代わりばっちりと化粧を施した顔との距離が近い。

「こんなの、ここらへんの店じゃ見かけないわ。どこに売ってたのよ?」

 くいくいと引かれる黒い襟は、首の中ほどまでを包むタートルネックになっていた。

 男性向けの夏物としては珍しいが、これがさらにこのキメラ居住区となると、皆無と言っていいデザインとなる。理由はもちろん、首元を締めつける感覚が獣人達から嫌われるからだ。しかしリュウにとっては、手軽かつ自然に首輪を隠すことができる、実にありがたい形状である。

 赤く塗った口唇に獰猛な笑みを浮かべて詰め寄ってくる雌豹に、リュウは丁重だがきっぱりとした手付きでその身体を押し戻した。

「これは、前に住んでいた都市(ところ)で買ったんです。……ペントハウスに、私の荷物もあったので」

 梱包こそ解かれていなかったが、リュウの私物もまた、すべて漏れなく七階の一室に運び込まれていた。女性の一人暮らしにしては多すぎるとゴウマが不審に思った引っ越し荷物は、何の事はない、二人分だったというだけの話である。

 積んであったダンボールを開いて出してみた服は、季節を考えればほぼ二年ぶりに袖を通したにも関わらず、幸い傷んでおらず、サイズも変わっていなかった。

「前にいたとこって……それにしちゃずいぶん……」

 ルイーザは言いかけて言葉を濁す。

 聞かされた話によれば、キメラにとってはかなり住みにくい ―― という表現では足りないような、訳ありの都市だったのだという。それにしては、見た目だけでなく着心地や縫製といった、細かい部分にも手の掛かった上等な衣服なのが、思い描いていたイメージとの食い違いを感じさせる。

 飲み込まれた先を察したのか、リュウはちらりとシルバーの方へ視線をやる。彼女は何やらアウレッタと話していて、こちらの方に意識を向けてはいなかった。

「 ―― 実は、通販で購入した人間(ヒューマン)用の服なんです。キメラ用品の店には、ろくなものがないからと」

 もともと滅多に外出しなかったシルバーは、たいていの買い物を通信販売ですませ自宅まで届けさせていた。自分が着る服もそうだったし、リュウの身のまわりの品を買う時も、ほぼすべてを端末の画面に表示したカタログの中から選ばせた。

 ただ、キメラ用の物を扱う店はどこも、ディスプレイ越しの画像でもはっきりと判るほど、質の悪い商品を並べていたのだ。ぱっと見こそ立派だが、見た目重視で着心地や耐久性など二の次三の次。サイズの種類も少なく、まるで服に体型の方を合わせろと言わんばかり。

 中には見栄っ張りの飼い主向けにオーダーメイドを受け付けている店もあったが、そこで作られている服もやはり、パーティーなどで他者に見せびらかすことが前提で。日常生活で使用してくつろげるような、普段着などどこにも存在しなかった。

「最初は、亡くなられたお義父(ちち)上の服をお借りしていたんですが、その、大きさが、少々……」

 それこそ外見を最大限重視した、遺伝子レベルからの特注品(オーダーメイド)だったリュウは、さながら彫刻家の理想を具現化したかのような見事な体型をしていた。ほどよく筋肉質でありながら、けしてごつくは見えない絶妙なバランス。今まではサイズの合わない古着で隠されていたが、そのスタイルの良さはもはや、芸術品のレベルに達していた。

 故にけして美男とは言い難かったシルバーの義理の父親 ―― ゴルディオン=アシュレイダが遺していた衣類は、デザインや材質、仕立てといった点でこそまともだったが、主に裾の長さや身ごろの幅あたりにおいて、リュウが着用した場合、かなり見苦しい状態になってしまったのである。

 通信販売であれば客の顔は見えないし、金を払って購入した商品をどう扱おうと、買った者の自由だ。

 そういった次第で、衣服を含めたリュウの私物は、みな人間と同じ店で揃えられたのだった。

「……なるほどねえ」

 ルイーザと、二人の会話に耳を傾けていた者達は、どこか呆れたように呟いた。

 それだけの品を買い与え、なおかつ市民権を得たとほぼ同時に行方をくらまされても、処分することなくすべてを保管。さらに記憶を失っていることが判明し、二度と己の元には戻らないだろうと思い知ってもなお、このペントハウスに引っ越してくる際には一室を確保し搬入させておいたとは ―― いったいこの男は、どれだけ大切にされていたのだろう。


「さて、主役達も来たことだし、始めますかね!」


 パン、と。

 ドクターが手のひらを合わせて音を鳴らした。

 一同の視線が、いっせいにそちらへと向けられる。

 普段は店内に余裕を持って配置されているテーブルがすべて移動され、中央部に大きめの島を三つほど作ってあった。その周囲を椅子がずらりと囲んでいる。テーブルの上では、女性陣の手による心尽くしの料理が湯気を立てていた。

 一度は腰を下ろしたリュウが席を立ち、同じく立ち上がろうとするシルバーに手を貸す。

 手に手にグラスが受け渡されてゆき、それぞれ好みの飲み物が注がれていった。

 右手にグラスを持ったフェイが、ぐるりと一同を見わたす。


「そんじゃまあ、リュウの記憶がだいたい戻ったのと、シルバーの退院を祝して」


 ざっくりかつ短い挨拶に、ほうぼうから笑い声が漏れる。


「「「「「乾杯!」」」」」


 楽しげに唱和するルディやレン、笑顔だが少々遠慮がちなアウレッタやルイーザら一部の常連。そしてまだ気おくれが強くはあるものの、これを機に歩み寄りを試みてみようと、覚悟を決めて参加することにしたアパートの住人達。

 飲み物を持つ手を上げたのは、それでも全員が同時だった。

 リュウとシルバーもまた、グラスを掲げたのち、互いのそれをかすかに触れ合わせている。



 乾杯を終えた後、シルバーは再び椅子に座り直した。その手元へと、リュウがせっせと料理を取り分けた小皿を並べる。他の面々はまず席について食べることを優先したり、歩きまわりながら普段あまり会わない相手との会話に興じたりしている。

 シルバーを挟んだリュウの反対隣には、ルディが当然の顔をして陣取っていた。そのさらに横に座るアンヌは、ちらちらとシルバーの方をうかがいながら、ルディがこぼす食べ屑を片付けたり、その口元を拭ってやっている。

 若鶏の唐揚げやフライドポテト、キュウリとチーズの生ハム巻きなどを山盛りにした皿を片手に、ゴウマがのそのそと近付いてきた。

 上を向き、下を向き、左右を見て、さんざん迷ったあげくにようやくリュウの方をむいて、無愛想な声を出す。

「…………よぅ」

 穏やかな笑みをたたえたまま、リュウは小さく目礼を返した。

「こんばんは、バックスさん」

 短い言葉だが、これまで必要最低限しか会話しなかった過去を思えば、別人のような愛想の良さだ。

「『バックスさん』はやめろって。ゴウマで良い」

 ゴウマはぶすっとした口調で続けるが、どちらかと言うとそれは照れ隠しの意味合いが強い。

 アウレッタやドクター・フェイからさまざまな背後の事情を聞かされて、彼は彼で彼なりにリュウやシルバーに対して、考えるところがあったのだ。彼らの態度は、けして手放しで褒められたものではなかったかもしれない。どちらもとっつきにくいし、親しく言葉を交わせるような雰囲気ではとてもなかった。しかし、そんな振る舞いをするに至らざるを得なかったその背景は、他人が容易く否定するには、あまりにも、重く ――

 彼らの行動は、客観的に見ればけして最善(ベスト)ではなかったかもしれないけれど。

 それでも精一杯の努力を重ねた上で選んだ、彼らなりの次善(ベター)だったのではないかと。

 そんなふうに思ってしまえば、頑なな態度を取り続けるのは難しい。ことにリュウに関しては、もともとそれなりに仲間意識を持っていたのだ。ならば、シルバーにだって、もう少しぐらいは……と。

 そう腹を括ってこのパーティーに参加したはずなのだが。いざ彼女を目の前にすると、どんなふうに話せば良いものやら、頭が真っ白になって、満足に視線さえ向けられない。

 皿の上の生ハム巻きにフォークを突き刺し、ヤケ半分で口の中に放り込む。噛みしめると歯ごたえのある瑞々しいキュウリにハムの塩気が移り、そこにチーズのこってりとした味わいが絡まって、単純な料理なのに腹立たしいほど旨かった。

 もぐもぐと頬を膨らませているところへ、静かな声がかけられる。

「……以前は、世話になった」

 低いアルトの響きに、思わず口の中身を吹きかけた。必死にそれだけは堪えたが、代償として変な方向に入り込んでしまい、思い切りむせ返る。

 咳き込む口元を押さえて背中を丸めていると、持っていた皿とフォークが素早く取り上げられた。

「大丈夫ですか?」

 大きな手のひらが背中をさすってくれる。ありがたくそれを甘受して、しばし息を整えた。

 と、涙目になった視界に、おしぼりを差し出す手が映る。これもまた感謝しつつ受け取って、もろもろで汚れて大変なことになっている顔と、両手を拭いた。そうして礼を言おうと顔を上げる。

 ごく間近で、漆黒の瞳と視線が合った。

「気管に入ると苦しいだろう。しばらく楽にしていると良い」

 長い黒髪をさらりと揺らし、リュウが立ったため空いた椅子を手のひらで指し示す。あ、え? と戸惑っている間に、リュウは別の椅子を引っ張ってきて、元の席の少し脇に腰を落ち着けた。

 しばし内心で冷や汗を流したゴウマは、やがてそろそろとシルバーの隣に座る。


「…………」


 沈黙が、痛い。

 膝頭を握りしめながら、ゴウマは何かを言おうと必死に頭を巡らせた。

 と、脇からコップが差し出される。そちらに顔を向ければ、もう片手にビールの壜を持ったリュウが、目で受け取るように訴えていた。手を出すとコップを握らされ、とくとくと琥珀色の液体が注がれる。

 口をつけようにも、まだ喉の奥に違和感が残っていた。それでも手持ち無沙汰でいるよりは、飲み物のひとつでも持っていた方が間を保てる。ちらりとシルバーの方を伺うと、こちらはグレープジュースを傾けていた。

 気配を察したのか、その瞳が動いてこちらを映す。

「ゴウマ=バックス?」

 いきなりフルネームを呼ばれて、再度むせそうになる。なんとか耐えた。

「……ぅお、お……ぅ」

 いつものようにざっかけない返事をしかけて、いやここは丁寧語でなければならないのか、しかし自分は別にここの住人ではなく、単なる客の一人な訳で……だがこの場合、常連として(テナント)の家主には敬意を払うべきなのか? などといった考えがぐるぐるして、結局は中途半端に妙な声が出る。

 しかしシルバーは、そのあたりの非礼を咎める気はないようだった。

「先ほども言ったが、引っ越しの折りにはとても助かった。荷の量は多かったし、請けてくれる業者は他にどこにもいなかった。運んでもらった精密機器の(たぐい)は、どれも異常なく動作している。良い仕事をしてもらえて、本当に良かった」

 飾り気のない言葉選びだったが、かえってそれだけに意味するところがストレートに伝わってくる。

 これほど率直な感謝は、たとえ同じキメラから依頼された場合であっても、なかなかもらえるものではなかった。

「い、いや……先生の頼みだったし、な。ちゃんと報酬ももらったんだ。それぐらいはやるさ」

 以前、その件でフェイと揉めたことを思い出し、ゴウマは後ろめたさに視線をさまよわせる。

「できれば、また少し頼みたい仕事があるんだが」

「仕事 ―― ?」

 話が急に日常慣れ親しんでいる案件に移行して、頭が自動的に業務モードへと切り替わる。冷静さを取り戻し、真剣な表情でまっすぐに顔を向けたゴウマへと、シルバーもまた真面目な顔でうなずいた。

「前回ほど、大がかりな話じゃない。ただ、一人か二人、力仕事ができる人物を一日程度借りたい」

「また、何かを運びこむのか?」

 新しい機械でも購入するのだろうかという予想を裏切って、彼女はゴウマの向こう側にいるリュウへと視線を投げる。

「リューの私物を、七階まで運んで配置して欲しい。運ぶもの自体はさほどないようだが、部屋の模様替えと既にある物の片付けを合わせると、一人でやるのは厳しいだろう」

 リュウは現在、店のバックヤードにある物置だった部屋で、ひっそりと寝起きしていた。市民証の書き換えができない彼は、空き部屋に入居する手続きを取ることもできず、また家賃を払えるほどの収入もなかったからだ。住民から譲ってもらった廃棄寸前のマットレスを敷いたことで、狭い床のほとんどが埋まっており、残ったわずかなスペースに、やはりほとんどが古着で占められている衣装入れや、ゴミ捨て場から拾ってきて修理した音声放送受信機、あとは客が忘れていった何冊かの本といった、数少ない私物が詰め込まれている。

 ちなみに洗い物はアウレッタに頼み、風呂に関してはここがホテルであった頃にスタッフが使用していた、ロッカールームの簡易シャワーを使用していた。その分の水道光熱費は、【Katze】の福利厚生費として計上されている。

「あー……」

 ゴウマはシルバーが引っ越してきた折りに、二つあるベッドルームにそれぞれ分けて運び入れた、箱の山を思い返した。一方の部屋は指示に従って備え付けの家具を移動させたりしたから、もう一方の部屋に運んだのがリュウの私物なのだろう。あれがすべて開けられぬまま放置されているのであれば、確かに片付けるのはそれなりに大仕事だ。

 いま使っているマットレスはもう必要ないだろうが、それをゴミ捨て場に運ぶだけでも、けっこうな労力がいる。あとはまあ、二人もいれば一度で運び終えられるだろうが、問題はその後だろう。

 家具の位置を生活スタイルに合わせて変更し、荷物の梱包を解いて、中身をそれぞれしかるべき場所に収める。ひとまず、最低限の生活に必要な程度に押さえるとしても……そもそもその『最低限』のレベルが、物置で一人寝起きしていた場合と、シルバーと同じ部屋で暮らす場合では段違いに異なるはずだ。

 と言うか、とても衣服などが詰まっているとは思えない重さの箱が、いくつもあった気がする。あれにはいったい、何が入っているというのか。

「もちろん、然るべき報酬は支払う。前回の日当が、一人当たり……」

 計算を始めようとするシルバーを、ゴウマは慌てて手を振り制止する。

「いや、待て。良いから。そういうのは近所付き合いのうちだ。俺とアヒムと、あとジグの三人もいれば充分だろ。礼ならここで晩メシでも奢ってくれや」

 なあオイ、それで良いな!!

 いきなりテーブル越しに振り返られて、パエリアの大皿を抱えてかき込んでいた三毛猫の若者が、ふぇっ!? と驚いたような声を上げた。その隣では、ちゃんと話を聞いていたのだろう、浅黒い肌をしたスキンヘッドの大男が、ゆで卵の乗ったクラッカーを片手に手のひらをかざす。

「……安すぎないか?」

 シルバーはいぶかしげに首を傾げていた。

 いくら大量に食べたとしても、この店での一回分の食事など、肉体労働者の稼ぎの一日分にはとうてい届かないはずだ。仕事の相場としては、不当な搾取になるのではないか。生真面目に考えこんでいる彼女を、これまであまり面識のなかった住人達が、意外そうに観察している。

 それでも近所付き合いという単語に、何らかの納得を見出したのか。ややあってからこくりと顎を引く。

「うっしゃ、商談成立だな。そんじゃ、今度の定休日にでもやっちまうか。俺の方は日雇いだからどうとでも都合がつくし、アヒムの坊主も一日ぐらいなんとかなるだろ。ジグはもともと、昼間は()いてるしな」

 ゴウマはさくさくと段取りを決めていった。

 ちなみにアヒムはもっぱら内装を担当する設備工職人で、ジグは夜間専門の警備員だ。ジグはもうしばらくしたら出勤して行くため、アルコールに手を出していない。

「……安く上がるのは、正直助かる」

 ぼそりとそんな言葉が聞こえてきて、周囲にいた者達は一瞬、己の耳を疑った。

 急に静かになったその一帯に気を取られて、それぞれ別の話をしていた他の面々も、会話を止めて振り返ってくる。

 グラスの中の赤い液体をのぞき込みながら、シルバーは小さくため息を落とした。

「今回の件で、いくつか取引先をしくじったからな。……とにかく稼がなければ、家賃収入だけでは建物の維持管理でほぼ消える。もしもの時のことを考えるなら、まとまった金額をプールしておきたいし、また新しい顧客を開拓しないと……」

 誰にともなく呟かれる内容には、どこか寒々しいほどの生活感が滲んでいた。

 店内に、しんと沈黙が下りる。それまで賑やかに交わされていたおしゃべりが、見事なまでに消えて失せた。


「…………サーラ」


 静寂を破ったのは、かつて彼女と生活を共にした時間を持つ青年であった。

「そう言えば、いささか疑問に思っていたのですが ―― 」

 落ち着いた柔らかい声に、シルバーは水面に落としていた視線をそちらへと移す。前髪を撫でつけあらわになった色違いの瞳が、まっすぐにその目をのぞき込んだ。

「この建物を購入したお金は、どこから出したんですか。いくらキメラ居住区の古ビルとは言え、けして安い買い物ではなかったでしょう?」

 しかもドクターの話によれば、成立しかけている契約に割り込むため、相場の倍を払ったのだという。

 そのような大金など、いかに人間(ヒューマン)の中でもそれなりの立場にあった彼女といえど、右から左にぽんと動かせる額ではないはずだ。

 濁すことなく直接的に問いかけられて、シルバーもまた隠そうとする素振りも見せず、あっさりと答えた。

「〈Lunufis〉の特許権を売った」

 多くの者が脳内にハテナマークを思い浮かべる中で、ドクター・フェイだけが何か心当たるような表情を見せた。そしてリュウはというと、椅子を蹴って勢い良く立ち上がる。

「あのシステムプログラムは、お義父(とう)さまが遺されたものでしょう!? あんなに大事にしてらしたじゃないですか。他への転用が難しい分、確かに使用料こそあまり入ってきてませんでしたが、あなたならこの先いくらでも改良できたはずです。それをみすみす手放すなんて……ッ」

 血相を変えて詰め寄るその姿は、まるで今にも掴みかからんばかりだ。

 レンがこそこそとフェイに耳打ちする。

「……るなふぃすって、何ですか?」

「えっとな、確か……一部の医療端末に組み込まれてる、患者の統合管理用プログラムだ」

 記憶をたどるように、こめかみをつつきながら目を閉じる。

「優秀なシステムでな。実用化されてから十年以上経つのにまったくバグが見つからず、当初からほとんどバージョンアップされないまま、今でも現役で利用され続けてる。現場ごとに即対応できるよう、融通の効いたカスタマイズができてすごく扱いやすいんだが……いかんせんある程度性能(スペック)の高い機械(ハード)じゃないと入らないのが、玉に瑕ってとこか。……レンブルグ(ここ)の中央病院でも使ってたぞ」

 かつての古巣の名を挙げる。それぐらい大規模な病院で導入されているものなのだ。

 正直を言えばフェイも欲しいぐらいだったが、手元の端末の性能が足りないとかいうそれ以前に、そもそもの機能が豊富すぎて、街の診療所程度では宝の持ち腐れになること請け合いの代物である。

 小声でやりとりする二人をよそに、リュウとシルバーは温度差のある会話を続けている。

「あの都市(まち)での後始末や精密機器の運搬に手間取ったせいで、ただでさえ物入りだった。すぐに金銭化できて必要な額に届きそうなのは、あれしか手持ちになかったんだ」

「しかし……!」

「どの道、あと数年で特許は切れる。それに ―― たかが数年程度で、あれの完成度をより高めることができる者など、いるとは思わん」

 それならば、金になる内に手放してしまった方が得策だろう。その上でこちらは内々に改良を進めておいて、特許期間が終わってから堂々と公開すれば良いのだ。

 冷静な計算と、己と義父の技術に対する自負を織り交ぜたその発言に、リュウもついに反論のすべを封じられた。

「実際、それでも足りなくて蓄えの残りに手を付けたからな。しばらくはぎりぎりでやっていくしかない」

 住人に無理を押し付けるつもりはないが、お前は一応含んでおいてくれ、と。

 家計内のやりくりをほとんど任せていたリュウに対し、そんなふうに告げる。実際、現在のリュウはこの建物の修理や維持管理等の雑務も担当しているのだから、予算面についてきちんと把握しておくのも業務の範疇内だ。

「……判りました。肝に銘じておきます」

 噛みしめるように呟く。

 彼女にそれだけの無茶をさせたのも、元はといえば自分が記憶喪失になどなったのが原因なのだ。ならばここで責めるのはお門違いというものだろう。

 と ――

 ふと思いついて、リュウは急に顔を上げた。

「そう言えば、私の口座の方は、使わなかったんですか?」

 その質問に、シルバーはおかしなことを訊かれたという顔つきをする。

「あれはお前の持ち物だ。そもそも私はパスワードを知らない。引き出せるはずもなかろう」

 答えを聞くと同時に、リュウはジーンズの尻ポケットに手を突っ込んだ。二つ折りになった札入れを取り出し、中からカード型の市民証を引き抜く。

「端末を貸して下さい」

 差し出された手のひらに、シルバーがスーツの懐から出した小型の携帯端末を置いた。リュウはその認証装置に指を触れさせ、己の生体情報でロックを解除する。ごく当たり前に為されるその行動に、周囲の者達はもはやぬるく笑うしかできなかった。

 起動した端末を操作して目的の画面を呼び出すと、手早く一連の文字列を打ち込んでから、市民証と本体を重ねて持つ。

 数瞬ののち、パスワードが確認されましたという音声ガイダンスが流れた。

 画面を覗きこんだリュウは、途端に肩に入っていた力を抜く。

「……良かった。これなら、当面はなんとかなるでしょう」

 余裕を取り戻したらしいその変貌ぶりに、常連の一人 ―― 派手な色の髪を持つカワセミの少女、スイが疑問を投げかけた。

「それ、なあに?」

「この人から戴いていた、ハウスキーパーとしての給金です。以前いた都市ではキメラは口座を持てなかったので、この人の名前で貯金していましたが。こちらで市民権を取ると同時に、すべて私名義に変更していたんです」

 二年間の記憶とともにパスワードも忘れてしまったため、これまで使うどころか預金の存在すら確認できていなかった。しかしそれも今となっては怪我の功名だと、上機嫌で笑う。

 好奇心に駆られたアヒムが、横からひょいと頭を突っ込み、その手元を見た。そうして表示されている残高の桁数に、くわえていたスプーンごとパエリアを吹く。

「おま……っ……そ……ッ!?」

 咳き込んで苦しむアヒムに同情する者はいなかった。近くにいた人物は飛んできた米粒を悲鳴を上げながら避け、リュウもまた、慌てて汚れた端末を手近な布巾で拭っている。

「給料、払ってたんだ」

 フェイに訊かれて、シルバーは当然だとうなずく。

「私にキメラを所有する趣味はない。リューはあくまで住み込みの使用人として扱っていた」

 もっともあの都市では、キメラが個人的に金を使う事などできなかった。故に職務の一環として財産の一部を委託され、主人に必要なものを経費で購入しているという形をとるしかなかったのだが。

 しかもリュウが、自分の意志で私物を選び、なおかつ調達するなどという行為をとれるようになったのは、同居を始めてずいぶんと過ぎてからで。以降も最低限必要な品を買うのみだった彼の給金は、ほぼ溜まっていく一方だったのである。

 と、拭き終えた端末を点検していたリュウが、目に入った詳しい明細に顔をしかめた。

「……サーラ」

 ひときわ低い声で名を呼ばれて、シルバーが振り返る。

「いったい、なぜ、入金が、半年前まで、続いてるんですか」

 一言一言、区切るように強調して発音された。突きつけられた端末には、言葉通りの入金記録が並んでいる。

「お前は職務中に行方不明になったんだから、雇用関係を解消した訳じゃない。馘首(かくしゅ)した覚えはない以上、雇い主として給料を支払う義務がある」

 事故にあったり、何らかのトラブルに巻き込まれでもしていたら、金はあっても役に立ちこそすれ困りはすまい。そう主張するシルバーに、リュウは眉間を指で押さえる

「……私が、自由を得たのを良いことに、逃げたとは思わなかったんですか」

「逃げる必要など、どこにある。私と暮らすのが嫌になったのなら、その旨を告げて退職を申し出れば良いだけだ。この都市(レンブルグ)ならそれが許されている。だからこそ、我々はここを選んだのだろう?」

「それは確かに、その通りです。私もあなたに不義理を働くつもりなど、毛頭ありませんが」

「なら……」

「ですが! もう少し後先とか、経済観念を養って下さい!! 職務を果たしていない使用人に給料を払い続けたり、維持管理のことも考えず有り金を使い尽くす勢いで建物を購入したりなど、もっての外です!!」

 リュウの怒声が店内の空気を震わせた。

 反射的に身をすくめる全員をよそに、リュウはなおも叱責を続ける。

「そもそも毎日毎日、三食外食とデリバリーでは、節約どころの話ではないでしょう。栄養だって偏ります。それにあの部屋はなんですか。引っ越してきて三ヶ月にもなるというのに、仕事場すらろくに片付いていないというのは遅すぎます。寝室なんて、クローゼットの一部とベッドしか使えるようになってないじゃないですか!」

「ああ、いや、それは」

 もごもごと口の中で何か言いながら、シルバーは視線を明後日の方へそらす。

「ダンボールや中途半端に出したものが床に散らばっているせいで、自動掃除機すら満足に動けなくて、あちこちが埃だらけだし。吸い込むと健康に悪いと、前にも言いましたよね!?」

 仕事が忙しくて片付ける時間が、などと呟いているシルバーに、リュウは延々と気になった点を並べたててゆく。

 人間(ヒューマン)を相手に獣人種(キメラ)が遠慮会釈なく説教を垂れ、また人間の側が大人しく叱られているというその構図に、場にいた者達は言葉もなく呆然と、己の目を疑うしかできずにいたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ