第3話
ユーリはナターシャに引っ張られて彼女に与えられた部屋へとやってきた。ここまで一言も発しないナターシャは、徐々に眉を吊り上げてその表情は怒りに満ちている。ユーリはその背中をぎゅっと抱きしめた。そうするだけでナターシャから発せられた怒気が散っていく。
「ナターシャ様、私なら大丈夫ですから。お気になさらないで下さい」
「ユーリ……ごめんなさい。私がもう少し気を配っていたなら、貴女が目を付けられることもなかったはずなのに」
抱きしめたユーリの手に己のそれを重ねるナターシャ。今回の事は避けられないことだ。それに皇太子殿下から直々に依頼されてしまったこと。ユーリにもナターシャにも否を唱えることは許されない。
「本当に大丈夫です。ですがあの」
「イオリアス様、のことですわね。あの方は、イオリアス・セト・シュトッフェル。シュトッフェル公爵家の嫡男ですわ」
「こ、公子様、ですか⁉」
シュトッフェル公爵家といえば、貴族であれば誰もが知っている名家だ。しかもその嫡男。ユーリのようなしがない伯爵家の令嬢からすれば皇族と同様雲の上のような相手である。
「噂といいますかほぼ事実なのですけれど、第二皇女殿下がイオリアス様にご執心で、婚約者がおられないのもそれが理由ともいわれておりますわ」
「そ、そうなのですか」
「ですから、今回の話が皇女殿下の耳にでも入ったらユーリに不利益になってしまいかねません……何をしでかすかなんて、想像も容易ですもの。まったくあの方は」
深く息を吐くナターシャ。皇太子の婚約者ということで、ナターシャは第二皇女とも関わりがある。その彼女が言うのだから、恐らく間違いはないのだろう。ユーリは第二皇女を名前以外知らない。どういう人柄かも聞いたところで関りがないと、あまり気にしていなかった。
「第二皇女殿下は、自分本位に物事が動かないと気が済まない方なのです。こういっては何ですけれど、第一皇女殿下が嫁がれてからはより一層それが顕著になってしまわれて」
第一皇女は、辺境伯の下へ降嫁されている。政略結婚ではあるが、国の国境防衛の要ともいえる辺境伯と第一皇女との婚姻は広く支持されていて、既に子にも恵まれて幸せに過ごされているという噂だ。ユーリもその程度は知っている。ただ、第二皇女の話はあまり耳にしたことがない。ナターシャ曰く、外に出せるような状態ではないということらしい。
「陛下も降嫁先を決めなくてはならないのですけれど、あの性格ですから外に出すことは出来ません……であれば第二皇女殿下がイオリアス様の下に嫁ぎたいと仰っておられて」
「公爵家であれば、皇女様が降嫁される家としても問題ないと思われますが」
「確かにその通りですわ。でも、シュトッフェル公爵家は先代に皇族が嫁いでいますから、陛下もあまり乗り気ではありませんの」
続けて皇族が特定の貴族家に降嫁することは、あまり褒められたことではない。ユーリでも理解出来た。どれだけ第二皇女自身が望んでも、それを覆すことは出来ないのだと。
「私が皇太子殿下の下に嫁ぐ以上、兄も候補には上がりません。であれば、おのずと相手は限られてくるのですが」
「そう、ですね」
本当ならば候補にも上がらないはずだが、第二皇女がそれを望んでいることで話が進まないのだという。ユーリは少しだけ残念な気持ちになりながらも、やっぱり遠い存在なのだと理解する。
あの日、社交界デビューの場で姿を見た時に、憧れに似た感情を抱いたのは間違いない。素敵な人だと思った。けれど、本当にそれだけだ。公子だと知れば、雲の上の存在に等しい。行事とはいえ、このような機会を与えてもらえただけで感謝しなければ。
「色々と教えてくださりありがとうございます」
「ユーリ……今回の件、確実に第二皇女殿下の知るところになるはずですわ。もちろん、フォローについては私もお願いするつもりですけれど、万が一のことがないとも限りませんから単独行動だけはしてはなりませんよ」
「は、はい!」
念押しされる形で言われて、ユーリは首肯する。だがユーリはナターシャ以外に親しい友人はいない。軽く会話をするという友人さえ、片手で足りるほどだった。単独行動をしないということ自体が、ユーリにとってかなり難しい。でも頷かなければナターシャを心配させてしまうだけ。そもそも万が一ということが起こり得る筈がない。ユーリは存在自体が地味であり、決して目立つ存在ではないのだから。ナターシャの心配も杞憂に過ぎない。
この時のユーリは真面目にそう考えていた。それが甘い考えだったのだと知るまで、さほど時間はかからなかった。